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甲州街道を歩く (31:石和宿) (山梨県山梨市) 2021.9.7




(写真は、石和温泉駅入口の交差点脇にある「足湯」)

 





笛吹橋で「笛吹川」を渡り、「石和(いさわ)温泉郷東入口」の交差点を左折します。

笛吹川沿いの「松並木」が始まります。

この松並木の右から、笛吹川の堤防の下の道に下ります。 





松並木の下の旧甲州街道を進むと、左手に写真の「笛吹権三郎」像があります。





笛の名手だった「権三郎」は、「石和川」の洪水で流された母を探し求めて、母の好きだった曲を吹きながら、毎日、さまよい歩きました。

そして、その疲労困憊のあまり、とうとう川の深みにはまり亡くなってしまいました・・・ 

その後、夜になると、権三郎の笛の音が河原に響き渡り、いつしか「石和川」は「笛吹川」と呼ばれる様になりました。 



権三郎像の脇には、すっかりお馴染みになった丸石道祖神がありました。

街道沿いには、この「丸石道祖神」が散見されます。





 

旧甲州街道は、やがて、国道411号に合流しますが、この辺りから「石和(いさわ)宿」です。

石和は、今でこそ大規模な温泉街として賑わっていますが、昭和36年に温泉が湧き出すまでは、製糸業やブドウ栽培が盛んな交通の要衝の町でした。 

そして、戦国時代の途中までは「武田氏」の本拠地でした。

5代・武田信光は、この石和(石和)の地に館を構え、18代・信虎(武田信玄の父)が、館を甲府の躑躅ケ崎(つつじがさき)に移すまでは、
ここを本拠地にしていました。




「石和宿」は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠18軒でした。


石和宿は、小田原へ通じる鎌倉道の追分があったので大いに賑わいました。

 



旧甲州街道を進むと、右手に「遠妙寺」(おんみょうじ)があります。




山門は高麗門、仁王門は1789年の再建です。



 







境内に「鵜飼勘助」の墓と、勘助の供養塔を納めた「漁翁堂」があります。

「勘助」は、殺生禁断の流域で密漁したために、「簀巻き(すまき)の刑」(注)で処刑されました。

その後、勘助は「笛吹川」に亡霊となして現れる様になります・・・

1274年、「日蓮聖人」が祈りにより救済し、成仏させました。

(注)身体を筵(むしろ)で巻いたまま水の中へ放り込んで殺害する刑罰。 

   因みに、関西では、脅迫するときには「簀巻きにして大阪湾に沈めたろか」と言います!



遠妙寺の隣は、写真の「願生(がんしょう)稲荷神社」です。



武田館跡地に祀られていた古城稲荷を勧請したものといいます。



更に進むと、後藤家が務めた「石和本陣跡」碑がありますが、今は、土蔵を残すのみです。



宿場町のメインストリートには、今どき珍しい芸妓置屋のビルも。



本陣跡の道路向かいに、「由学館(ゆうがくかん)」の跡に造られた小林公園があります。

由学館は、1823年、石和の代官の山本大善が造った学舎で、漢学を教え町人にも聴講を許しました。



公園の片隅には写真の「足湯」があります。



歩き疲れて痛くなった足首が気持ちい〜!!

昭和36年、葡萄畑の中に突如温泉が湧き出し、以後石和は温泉地として発展しました。



この公園を奥に突っ切ると、石和南小学校の正門の脇に、「石和陣屋跡」碑があります。



1724年に甲州が幕府領になると、それまでの代官所から陣屋になりました。



街道に戻ると、右手に、武田家の氏神である「石和八幡宮」があります。



「第二平等川」を「甲運橋」で渡ります。



写真の第二平等川が、江戸時代には笛吹川の主流でした。

当時、この辺りは、川田河岸と呼ばれ、この河岸から駿河の国(静岡県)の岩淵までの舟運がありました。

そして、ここには「川田の渡し」があり、夏は舟渡し、冬は仮橋でした。

明治40年の大水害で流れが変わり、現在の笛吹川が主流になり、この第二平等川は笛吹川の支流になりました。

(笛吹川の由来については、「甲州街道を歩く:石和@」を見てね。)

甲運橋を境にして、「笛吹市」から「甲府市」に入ります。



甲運橋を渡った橋の脇の右手に、1860年建立の「川田道標」があります。



正面に「右 富士山   大山 東京道」、側面に「左 甲府 甲運橋 身延道」と刻まれています。

正面の「東京道」は、当初は「江戸道」と彫られていたために、彫り直した跡があります。

この甲運橋の辺りに、日本橋から33里目の「石和の一里塚」があったらしいのですが、その正確な位置は不明です。



次いで、「平等川」を「平等橋」で渡ります。



江戸時代には、京の宇治川に匹敵するくらいに蛍が乱舞していたことから、平等院に因んで平等川と呼ばれたそうです。



街道を進むと、左手に「旧家の長屋門」があります。

他にも旧家らしき立派な門や塀の家がありました。





甲運小学校入口のバス停の所に写真の「和戸町由来の標柱」と石碑群があります。



案内板によると、和戸(わど)町は、平安期に、この付近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)が由来だそうです。

ここには石仏石塔や丸石道祖神が祀られています。



その右手には、大きな南無妙法蓮華経の題目碑と共に、六地蔵、無縫塔、墓塔などが並んでいます。




ここが「山崎刑場跡」です。

明治5年、武田信玄以来の農民に有利な年貢率(大小切)が、新政府により一方的に廃止されたため、暴動(大小切騒動)が起きました。

この暴動を指導した者2名が、ここ山崎刑場で処刑されました。

え、えっ〜、江戸時代じゃなくて、明治時代に入ってからも、ここで斬首してたの?

説明版によると、ここには、斬首場が2ケ所、首洗い井戸が4ケ所、骨捨て井戸が1ケ所があったそうです。

怖〜っ!



甲州街道の左手には、箱根駅伝の常連校の「山梨学院大学」があります。



(酒折駅)

甲州街道の「酒折駅前」交差点の周りは、通学の山梨学院大学の付属中高生で溢れていました。



街道歩きの私は動きが取れず、仕方なく、生徒たちの列の間に挟まって進みます・・・

生徒たちの通学路は、酒折駅前交差点の近くの「酒折(さかおり)宮」に参拝する私と同じルートみたいで、交差点を右折し踏切を渡ります。



私も、山梨学院大学の付属中高の職員みたいな感じで、隊列に加わったままで進みます・・・

踏切には、学校の職員が立って生徒たちを誘導していました。



JR中央線の踏切を渡ると、その先に目的の「酒折宮」がありましたが、生徒たちは、その酒折宮の手前を右折して行きました。

右折した先に、山梨学院大学付属中高校があるのでしょう。

やれやれ、やっと隊列から解放されました・・・

 「酒折(さかおり)宮」に参拝します。



「日本武尊」(やまとたけるのみこと)は、東夷征伐の帰り道に、この「酒折」に立ち寄りました。

「日本武尊」は、「酒折」を発つ際に、火打石を入れていた「火打嚢」(ひうちぶくろ)を、「御火焚の翁」(おひたきのおきな)に授け、甲斐國を託しました。

その「御火焚の翁」が、この「火打嚢」を御神体として祀ったのがこの「酒折宮」です。

日本武尊が、騙されて、野火に囲まれた際に、剣で草をなぎ払い、「火打嚢」の中の火打石によって、向え火を放って、難を免れたのは有名な話です。

ここ酒折で、日本武尊が「新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と詠んだところ、御火焚の翁が「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」
と見事に返歌をしました。


(句意:「新治と筑波を過ぎて、どのくらいの夜を過ごしただろうか?」、「数えてみると、夜は九夜、昼は十日です。」)

これが、「連歌」の起源とされ、「酒折宮」は「連歌発祥の地」となりました。

下の写真の「連歌発祥の地の碑」には、この日本武尊と御火焚の翁の連歌が刻まれています。





境内には、上の写真の「本居宣長」の祠碑と、下の写真の「山縣大貮」(やまがた だいに)の祠碑があります。




国学者だった本居宣長と山縣大貮は、幕末の「尊皇攘夷論」を理論武装しました。



(酒折駅前の山縣大貮像)




大円川(だいえんがわ)を大円新橋で渡ります。


この辺りに板垣の一里塚(塚木は榎)があったともいいますが、位置は不明です。

江戸日本橋より数えて三十四里目です。



JR身延線の善光寺架道橋をくぐり、突当りを左折します。

「甲府城下八曲り」のスタートです。

甲府城を、敵の侵攻から防衛するため、城下町の道を何回も直角に曲げました。

この曲げは、一般的には「枡形」(ますがた)や「曲尺手」(かねんて)と言いますが、甲府では「金手」(かねんて)と言うみたいです。

曲尺手や金手は、大工道具の直角定規の金尺(かねじゃく)に由来しています。

(掛川宿の七曲がりについては「掛川」、岡崎宿の二十七曲がりについては「岡崎」をみてね。)   

                

更に、直ぐ先の突当りを右折します。



少し進むと、右手に、重厚な土蔵造りの旧商家の「石川家住宅」があります。



石川家は、屋号を河内屋といい、糸繭(いとまゆ)の問屋でした。



更に進み、突き当りのGS ENEOSの手前を左折します。

3つ目の金手(枡形)です。





この先の左手に「尊躰寺(そんたいじ)」があります。



関が原の戦いに勝利した徳川家康は、武田信玄の遺臣を積極的に登用しました。

家康により、甲斐の国の国奉行に任命された「大久保長安」も、武田信玄の遺臣の一人で、金山奉行なども勤めました。



境内には、その「大久保長安」の墓があります。(上の写真は墓の前の説明版)


しかし、長安が金山奉行を務めていたせいでしょうか、長安が死去すると、不正蓄財の容疑がかけられました。

そして、遺体が掘り起こされ、静岡の駿府城下の安部川で、何と!遺体を斬首、晒し首になりました!



天尊躰寺の先を右折します。

4つ目の金手(枡形)です。



この金手を少しだけ直進すると、右手に写真の「教安寺」があります。





境内には徳川家康第八子「仙千代(せんちよ)」の「高岳院廟所」があります。

平岩親吉(ちかよし)は、幼少より家康に仕え、甲府城六万三千石の領主となりましたが子がなく、平岩家の断絶を惜しんだ家康は仙千代を養子に出しました。

しかし仙千代は1600年に、6歳で幼くして亡くなりました。





上の写真の本堂の左前には、城下に時を告げた時の鐘が保存されています。



街道を進むと、右手に写真の「印傳屋」のビルがあります。



鹿の革に漆で模様を付ける「甲州印伝」は、甲府に伝わる鹿革工芸です。

甲州印伝は、上原勇七の創案に始まり、この独特の技法は、門外不出の秘法として印傳屋の家長・勇七のみに代々口伝されたものといいます。



次いで左手に「新聞発祥之地」碑があります。

碑に刻まれた説明文によると、峡中新聞(現山梨日日新聞)は明治5年の創刊で、現在も存在する最も古い地方紙だそうです。



新聞発祥之地碑の先は、NTT甲府支店西交差点ですが、ここからが次の宿場町の「甲府柳町宿」です。

 




(写真は、「ほうとう」と並ぶ甲府名物の「甲府鳥もつ煮」)


甲州街道踏破の歩き旅も、その日のスタート地点への電車の往復に7時間もかかる様になり、日帰りはもう限界なので、
これから先は1泊することにしました。


温泉のある宿場町は温泉宿に泊まり、温泉の無い宿場町は、極力江戸時代から続く旅館に泊まることにします。

 

「石和(いさわ)温泉」の湧出は、昭和36年と割と最近のことで、ブドウ畑の井戸の掘削中に、突然、高熱の温泉が噴き出ました。 

       

この湧出した温泉が、周辺のブドウ畑の間を流れる用水に溢れ出たので、即席の露天風呂を作り「青空温泉」としたのが、
石和温泉の始まりだそうです。  


 

(温泉街の小公園の展示パネルから)

突然の温泉の出現に、大勢の人々が押し寄せて、さながら海水浴場の賑わいだったそうです。

現在は、この用水を中心に、温泉街が1キロに渡って延びており、約40件の温泉旅館が営業しています。

 



「石和宿」の甲州街道沿いの「小林公園」にある「足湯」の先の「石和温泉駅入口」交差点を右折して直進すると、
突き当たりが「JR石和温泉駅」です。 



(甲州街道と石和温泉駅の位置関係については、本文末尾の地図をご参照下さい。)



(駅前風景)



(石和温泉駅)



上の写真は、石和温泉駅構内の「足湯」ですが、甲州街道沿いの石和宿の「足湯」については、「甲州街道を歩く:石和@」をクリックしてください。


宿泊前日の夜に予約したので、食事無しのコースしか取れませんでした・・



そこで、先ず、夕食の店を探すために、上の写真の駅構内の観光案内所で、地元の人に評判が良い居酒屋を紹介してもらいます。

   

観光案内所の隅には、色々な種類のワインが飲める試飲コーナーがあったので、300円を自動販売機に投入して、自分で注いで飲んでみます。 



自動販売機の銘柄選択の操作方法がよく分からないので、観光案内のお姉さんに教えてもらいながら注ぎます・・・ 

石和温泉の温泉街の中心部は用水沿いにあり、石和温泉駅から車で5分くらいです。

予定より早く着いたので、徒歩の私は、車で5分の距離を延々と歩いて温泉街の中心部に行ってみます。 

以下の写真は、駅から少し離れた温泉街の中心部です。  















 



今晩の宿は、石和温泉駅から徒歩約5分の好立地に位置する写真の「ホテル花いさわ」です。

温泉の温度は、熱からず冷たからず、私にとっては最適で、長時間お湯に浸かっていられます。 



(大浴場:ホテルのパンフレットから)



 

上のアイスカップの写真は、ホテルの売店で買った「信玄餅アイス」(345円)です。 

カップのアイスの上には、丸い信玄餅がど〜んと乗っています。

写真中央上の2つに折ったスティクは「信玄餅クレープ」(270円)です。

ここにしか売っていないユニークなアイスで、とても美味しかったです。



ホテルでひと風呂浴びてから、観光案内所で紹介してもらったホテル近くの、地元の人に好評だという居酒屋の「月のうさぎ」へ向かいます。





上の写真は、「ほうとう」と共に、甲府名物の「甲府鳥もつ煮」(700円)で、鶏のレバーを甘く濃厚な醤油ダレで照り煮しています。   



(串焼き5点盛り:800円)






翌朝は、チェックアウトの時間までに、2回も温泉に入りましたが、これは温泉好きの私でも初めてのことです。

ホテルをチェックアウトして、甲州街道に戻る前に、ついでに、徒歩5分の石和温泉駅へ向かい、2駅先の「甲府駅」で下車して、
駅前の「甲府城」を見物します。