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甲州街道を歩く (19:猿橋) (山梨県大月市)   2021.4.6



(写真は、名勝「猿橋」)


 



前回の鳥沢宿を抜けて、ひたすら旧甲州街道を歩き続けていると、街道の脇に、上の写真の様に、猿橋の矢印が出ていました。





左手の階段を覗き込むと、眼下に猿橋が見えます。



階段の下には、上の写真の「うき我を 淋しがらせよ かんこ鳥」の「芭蕉句碑」が建っていました。

(句意:その寂しい鳴き声で世を辛く思う閑古鳥よ、孤独な私を寂しがらせておくれ。その寂しさの中に浸りたいのだ。)





猿橋の眼下には美しい桂川の渓谷が望めます。

橋から下を覗くと、余りの高さに、高所恐怖症の私は、足がすくんでしまいました・・・





江戸時代に、こんなに深い渓谷に橋を架けたなんて、改めて凄い技術だな、と感心しました。

この桂川は、笹子川を吸収して相模國に入ると、相模川と名を変え、河口近くでは馬入川となり相模灘に注いでいます。

猿橋を渡り終わると、橋の南詰に、下の写真の「枯れ枝に 鴉とまりけり 秋の暮」の「芭蕉句碑」があります。

(句意:枯れ枝にカラスが一羽留まっている姿がとても寂しく、秋の夕暮れらしい趣だ。)





また、その横には上の写真の山王宮もあります。

 

                                         

上の写真は、猿橋の前の広場で営業している「忠治蕎麦」の看板を掲げる「大黒屋」です。

伝説によると、捕吏に追い詰められた「国定忠治」は、傘を差して、この猿橋から桂川に飛び込んで逃げたそうです。

えぇ〜?、傘を差してこの猿橋から飛び下りたの?

お昼には、ここの「忠治そば」を食べるのを楽しみにしていたのですが、残念ながら、コロナのために閉店中でした・・・ 



遊歩道の矢印に従って、急な階段を桂川の河原まで下りてみます。 















  













次に、猿橋の前の広場に戻り、猿橋と並行して架けられている新猿橋に回って、猿橋を斜め下に臨みながら撮影します。





現在の猿橋は、1851年の図面を元に、昭和59年に復元されたものです。

広重は、ここを訪れた際に、「猿橋の向ふ茶屋にて昼喰、やまめの焼きびたし菜びたしなり」と書いています。



(「歌川広重:甲陽猿橋之図」:大月市のパンフレットから)



近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊(新選組)が、ここを敗走する時に、新選組の隊員が、この「猿橋」を焼き落として政府軍の追撃を食い止めよう、と進言しました。

しかし、リーダーの一人の佐藤彦五郎が、土地の人が難渋すると猛反対、近藤勇は佐藤彦五郎の反対を受け入れました。

(佐藤彦五郎については、「甲州街道を歩く・日野」を見てね。) 

 

テレビを見ながら猿橋の構造についての説明文を書いていると、丁度、「三宅裕司のふるさと探訪」の番組で、三宅裕司が猿橋の構造の説明を受けていました。 

そこで、このブログでも、このテレビ番組の説明を、チャッカリと流用させて頂きます。

猿橋は、富士山の溶岩流が長い年月をかけて浸食した深い谷に架けられた橋です。

深い渓谷で橋脚が立てられないため、両岸から桔木(はねぎ)を四層に長く重ね、最上部の桔木の上に橋桁(はしげた)を渡して連絡した橋です。

猿橋の名称は、諸説ありますが、猿がお互いに身体を支え合って橋を作った、との言い伝えによるという説が有力なのだそうです。

また猿橋は、日本三大奇橋(周防の錦帯橋、木曽の桟)のひとつでもあります。

(木曽の桟(かけはし)については、「中山道を歩く・木曽福島」を見てね。)

                 

                          

 (「三宅裕司のふるさと探訪」から)  



(深い渓谷で橋脚が立てられない:「三宅裕司のふるさと探訪」から)



(両岸から桔木(はねぎ)を四層に長く重ね、最上部の桔木の上に橋桁(はしげた)を渡した:「三宅裕司のふるさと探訪」から)    



(各々の桔木に屋根が付いているのは、雨水で桔木が腐るのを防ぐため:「三宅裕司のふるさと探訪」から)                 

                                               



猿橋を後にして、新猿橋西交差点を右折して、国道20号に合流します。

この交差点辺りが、猿橋宿の東口です。

猿橋宿は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠10軒でした。

また、猿橋宿は、比較的大きな宿場で、芝居小屋などもあったそうです。

しかし、現在は、残念ながら、何も残っておらず、宿場町の痕跡すらありません・・・

























猿橋宿を抜けて、国道20号を暫く歩くと、左手に上の写真の「馬頭観音」があります。 



更に国道20号を歩いて行くと、猿橋町歩道橋の左手が上の写真のJR中央本線猿橋駅です。



猿橋駅の前に、「円行寺」があります。



円行寺の参道口には、「南無妙法蓮華経題目碑」、1862年建立の「廿三夜塔」や、「道祖神」などが祀られています。





円行寺の並びには、上の写真の三嶋神社もあります。

三嶋神社は、ここ殿上(とのうえ)村の産土神です。



猿橋駅前を過ぎると、左手の空地に上の写真の「青面金剛王庚申塔」が祀られています。





更に進むと、右手に、「阿弥陀寺」があり、参道口には下の写真の「南無阿弥陀仏名号」碑が建っています。





ガイドブックによると、その「南無阿弥陀仏名号碑」の横に建っている上の写真の標柱が「猿橋一里塚跡」だということですが、
文字が消えてしまっていて読めません・・・

猿橋一里塚は、塚木は桃ノ木だったそうです。

一里塚が桃ノ木とは!、さすが山梨県です。

日本橋から23里目(92キロ)です。

 

 

 




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