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甲州街道を歩く( 17:犬目)(山梨県上野原市)  2020.11.24




(写真は、尾張の殿様の定宿)


甲州街道の難所「座頭転がし」を無事に抜けると、歩いて来た矢坪旧道の西口にあたる新田に出ました。









この新田の辺りは、「犬目宿」の東側にあたり、写真の立派で長い塀の旧家があります。

この家が、尾張藩主の常宿だった「陣屋」跡です。

この陣屋は、代々、米山伊左衛門を名乗り、尾張藩主の定宿を勤めると共に、庄屋も兼ねていました。







陣屋の脇の道端に、上の写真の「念佛石経塔」と「庚申供養塔」がありました。



尾張藩主御常宿から先に進むと、一旦、犬目宿の東側の集落が途切れます。



旧甲州街道の下り坂を進んで行くと、県道30号に合流します。



更に進むと、集落が見え始め、下の写真の無人の野菜売りもあります。







集落の中を進んで行くと、上の写真の「犬目宿碑」がありました。

この辺りが、犬目宿の西側で、西側の集落には、本陣や問屋などが置かれていました。

犬目宿は、本陣2、問屋1、旅籠15軒でした。

残念ながら、昭和45年の大火で、宿場町の6割が焼失してしまいました。



それでも、出格子造りの雰囲気のある建物が点在します。











宿場町の中程に、写真の「犬目平助 生家」の解説板があります。



1836年の「天保の飢饉」に際して、ここ犬目村の「兵助(へいすけ)」と、下和田村(大月市)の武七が、共に「甲州一揆」を起こしました、

このときの「兵助」は40歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、当時、一揆の首謀者は死罪でした。

家族に類が及ぶのを恐れた兵助が、妻へ宛てた「離縁状」が、この生家に残されているそうです。

この甲州一揆は鎮圧され、武七以下13人の首謀者は投獄、処刑されました。

しかし、兵助は各地を流浪の末、上総国(千葉県)の木更津に身を隠し、晩年、こっそりと犬目村に戻りました。

そして、役人の目を逃れて隠れ住み、明治2年、71歳で故郷のここ犬目宿で、ひっそりと亡くなりました。



犬目兵助生家の先の右手に上の写真の「明治天皇御小休所址碑」があります。

ここが、上条家が勤めた「笹屋本陣」跡です。



本陣跡の道路向うが上の写真の「問屋場大津屋跡」です。

 


犬目宿の西の外れには、犬目兵助の菩提寺である写真の「宝勝寺」があります。



県道30号を更に進むと、上の写真左側の1803年建立の「白馬に跨る不動尊像」がありました。

その先に、下の写真の赤い鳥居があり、この鳥居は「白瀧山 白馬不動尊の参道口」で、山中には不動院と白滝があるそうです。

737年、疱瘡(天然痘)が大流行したので、時の天皇が神の啓示を仰ぐと、犬目の白鳥不動尊を祈願せよとのお告げがありました。

天皇の命により、名僧・行基が、白滝に打たれ祈願すると、諸国の疱瘡が治まったといいます。





県道30号を更に進むと、右側の擁壁に設けられた上の写真のスロープが現れます。

ここが「君恋坂旧道」の東口です。 







君恋坂旧道を進んで行きます。







君恋坂旧道を抜けると、下の写真の様に県道30号に合流しました。











県道30号を更に進んで行くと、1798年建立の上の写真の「白滝山不動明王塔」がありました。

多分、先ほどの「白馬に跨る不動尊像」、赤い鳥居の「白瀧山 白馬不動尊の参道口」などと関係する一連の石碑なのでしょう。


県道30号(旧甲州街道)をどんどん下って行くと、正面に「恋塚の一里塚」が現れました。





「恋塚一里塚」は、日本橋から21里(84キロ)で、塚の大きさは直径12メートル、高さ5メートルもあります。

この一里塚は、江戸時代には、南塚の塚木は杉で、北塚の塚木は松だったそうです。

写真は、現存する南塚ですが、塚木の杉は残っていません。



この恋塚一里塚から、県道30号(旧甲州街道)をどんどん下って行きます。



やがて旧甲州街道は、一旦、県道30号から分かれて、「馬宿」の集落に入ります。







分岐した旧道を進むと、上の写真の大庭家の「馬宿」跡の大きな建物があります。

大庭家は、江戸時代には、百姓代(ひゃくしょうだい)を務めていたそうです。

百姓代とは、村方三役のひとつで、組頭(年寄)や名主(庄屋)の不正を監視する役です。  


 
旧甲州街道の恋塚旧道は、この馬宿の先から、土の道になりますが、直ぐに、再び、県道30号に合流します。







この合流地点が、歩いて来た恋塚旧道の西口です。

ここから、上野原市を出て、大月市に入ります。





県道30号をどんどん下って行くと、右手の斜面に、写真の様に、馬頭観音像が祀られていました。





更に、坂道を下って行くと、写真の「山谷バス停」がありました。



バス停の時刻表を見てみると、何と!、1日1便だけです!



この「山谷バス停」の辺りから、富士山が見えました!!

甲州街道を歩いて来て初めて見る富士山なので感動します!





葛飾北斎も歌川広重も、この辺りから、”犬目峠からの富士山”として描いています。 



(葛飾北斎「甲州犬目峠」:岩波文庫「北斎 富嶽三十六景」から)

実際の犬目峠周辺の道は、山深いところにあるために、この絵の様に、他の山に遮られることなく富士山を望むことが出来る場所はありません。

下記の歌川広重「甲斐犬目峠」の絵を見ても、富士山の手前に他の山がそびえ立っています。

しかし、「北斎漫画」には、「甲斐の猿橋」、「甲州矢立の杉」などの多くの場所の正確なスケッチを残しているので、北斎が甲州各地を訪れているのは間違いありません。

そこで、この北斎の甲州犬目峠は、敢えて、想像上の景色を描いたものだといわれています。



(歌川広重「甲斐犬目峠」:二玄社「歌川広重 富士三十六景」から)

この絵の右下の隅に、絶壁の急勾配の坂道を登って行く2人の旅人が描かれています。(茶色の丸印)

また、右脇には、立ち止まって富士山を眺めている2人の旅人も描かれています。。(赤色の丸印)

広重は、犬目峠周辺の風景について、旅日記に、「甲斐の山々遠近連なり、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり。十歩十二歩行間にかはる絶景」と書いています。

実際の犬目峠周辺の道は、この絵に描かれている桂川からは、かなり離れているために、この絵の様に、渓谷を覗き込む景観から富士山を望むことは出来ません。

従って、広重は、渓谷の深さと富士山の遠望を効果的に再構成し直したものと思われます。



(歌川広重「富士見百図:甲斐犬目峠」:二玄社「歌川広重 富士三十六景」から)

 

山谷バス停の先で、県道30号から、斜め右下に下りる「原田旧道」に入ります。









この原田旧道で、県道30号をショートカットし、再び、県道30号に合流して、どんどん下って行きます。



早朝に上野原宿をスタートしてから、整形外科医のアドバイスを無視して約15キロも歩いたせいでしょうか、股関節炎が再発したみたいです。

痛みを我慢しながら坂道を下って行きます・・・ 

足を引きずりながら歩いていると、晴天なのに、いきなり、みぞれが降り始めました!

弱り目に祟り目です・・・



中央高速とJR中央本線をくぐると、本日のゴールのJR鳥沢駅まで、あと一息です。   



県道30号が、国道20号に突き当たったので、もう、鳥沢宿に入ったみたいです。



犬目宿からJR鳥沢宿までは約 4キロです。

 

JR鳥沢駅から中央本線に乗り、八王子で横浜線に乗り換えて、何とか無事に、新横浜駅に帰り着きました。  

 

ps.この「甲州街道を歩く」シリーズは、甲州の峠道の雪が解け、コロナが落ち着くまでお休みします。

 これに代わって、次回からは、「バスで行く奥の細道」シリーズの未制覇だった部分をお届けします。

 この未制覇だった部分は、平泉の次から最上川下り迄で、昨秋に旅行しました。

 

 

 



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