(写真は熊谷堤)
熊谷宿は、映画「のぼうの城」で有名な忍(おし)藩領で、絹や綿織物を商う六斎市が立ち、交通の要所として栄えました。
・熊谷堤
写真の熊谷堤は、荒川の洪水を防ぐために、城主の北条氏が築いたそうです。
江戸時代は、この地は、忍藩領でしたが、荒川の氾濫で幾度も大きな被害を受けます。
しかし、川筋の全面改修を行ったことで、舟の交通が発達し、物資の集積地として栄えたそうです。
ダンプの風圧に耐えながら、狭い歩道の中山道を延々と歩いてきたので、この時期、風は冷たいものの、広大な熊谷堤のウォーキングは爽快です!
・権八延命地蔵堂と権八地蔵
(権八延命地蔵堂)
(権八地蔵)
延命地蔵は、別名「物言い地蔵」とも言われています。
歌舞伎にも登場し、後に鈴が森で処刑された白井権八が、この熊谷堤で絹商人を殺害して、この地蔵に、”誰にも言うな”と口止めしたところ”私は言わぬが、おぬしも言うな”との言葉が返ったという伝説が今も語り継がれているそうです。
権八延命地蔵堂と権八地蔵は、上記の同じ由来をもちますが、どちらが本物かは不明だそうです。
・みかり屋跡
英泉の浮世絵「熊谷宿 八丁堤の景」は、久下(くげ)村から熊谷宿へ通じる道中の「みかり屋茶屋」で憩う旅人を描いています。
浮世絵の左端が、「みかり屋茶屋」で、老婆がお茶を運んでいます。
右上が、熊谷堤で、中山道は、この堤の土手を熊谷宿へ向かいます。
右側の地蔵が、上記の白井権八と会話をした「権八地蔵」らしいです。
駕籠の中の金持ちらしい客が、供の者から権八地蔵の由来を聞いています。
また「みかり屋茶屋」は、忍藩・藩主の鷹狩の際の休息所でもありました。
・熊谷直実像
熊谷駅前のロータリーに、写真の熊谷直実の像がありました。
直実は、源平の一の谷の合戦に登場します。一の谷で、平家勢は、源氏側の奇襲を受け、海上の船に逃げます。
直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて、一騎打ちを挑みます。
この若武者が、笛の名手として知られた平敦盛で、敦盛は大事な笛を取りに戻ろうとして、舟に乗り遅れてしまったのです。
直実は、取っ組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうと顔を見ると、化粧をした容姿端麗な14〜5歳の若者でした。
直実は、我が子と同じぐらいの齢の若武者を助けようと、名を尋ねますが、敦盛は「名乗らずとも、首を取って人に尋ねよ」と健気に答えます。
背後には、源氏の武士たちが迫っており、直実は、泣く泣く敦盛の首を掻き切ります。
そして、直実は、この様な若武者も殺さねばならない世の無常を感じ、出家してしまいます。
(「平家物語」)
その後、この話は、歌舞伎や謡曲にとりあげられ、人気演目となりました。
織田信長が、
”人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり”
と、よく映画やドラマで舞っている、
あの有名な場面の”謡曲「敦盛」”がこの話なのです。
・高札場の碑
繁華街の街道沿いに、幕府の法度、宿場の決まりなどを書いた高札場の碑がありました。
・高城(たかぎ)神社
繁華街の街道沿いに大きな鳥居がありました。
高城神社は、映画「のぼうの城」の石田光成の忍城攻めで類焼してしまいましたが、1639年に再建されています。
・本陣跡の碑
繁華街の街道沿いに竹井本陣跡の碑がありました。
明治17年の火災と昭和20年の戦火で焼失したそうです。
・熊谷寺(ゆうこくじ)
熊谷直実の菩提寺で、直実が、ここに草庵を結び、念仏修業に励んだのが始まりだそうです。
・秩父への道標
石原北の交差点に、写真の大きな看板が出ていました。
見ると、「秩父祭りが、いつでも見られる!」と、あります。
え〜!
こんな所に、秩父の夜祭りの常設館が!
懐かしいな!
ちょっと寄って見て行こう、
と思い、看板に近づいてみると・・・
ここから、46キロとあります!
えっ!
ウソ〜!
46キロも手前の看板って、どういう事!?
辺りを見回すと、写真の秩父への道標がありました。
1766年造立の「秩父34ケ所観音所一番札四万部寺」と記されています。
そうか!
ここは、中山道と秩父道の追分なんだ!
う〜ん・・・
なるほど、そういう事か!
この看板のお陰で、秩父道の道標を見落とさなかったし、この看板は、江戸時代の追分の道標の現代版と考えれば、由緒ある看板とも言えるかも・・・
秩父道は、ここを起点に、寄居を経て、秩父へ向かうそうです。
・植木の一里塚
樹齢300年、周囲3.6メートル、高さ12メートルの大ケヤキの一里塚です。
・忍(おし)領石標
他藩との境界争いを避けるために、1780年に、忍城の
城主が建てた石碑だそうです。
熊谷宿から深谷宿までは、約11キロです。
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