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バスで行く「奥の細道」(その16) ( 「松島:雄島」) (宮城県 )





(写真は、雄島にある芭蕉句碑と曾良句碑)   

前回の松島の湾内クルーズに続き、今回は松島の中の「雄島」(おじま)です。

「雄島」は、松島湾の海に突き出た形の島で、短い橋で島へ渡ります。

”奥州の高野山”と呼ばれていた「雄島」は、瑞巌寺とゆかりが深く、当時は、島全体が霊場となって
おり、僧侶や巡礼者たちの修行の場でした。

従って、現在でも、島の岩窟の至る所に、当時の修行僧らが刻んだ石塔婆や仏像が残っています。

また、古くから歌枕の地でもあったため、島内には、多くの歌碑が見られます。


奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂

「雄島」に着いた芭蕉は、瑞巌寺の中興の祖である「雲居(うんご)和尚」の庵の跡を興味深く見学
します。

落穂や松笠などを燃やす煙が立ち昇る草庵(見仏堂)があり、松の木陰には、俗世間を捨てて
住む人たちの姿も見えます。


心引かれて雄島を見学しているうちに、月が昇って海に美しく映え、芭蕉は、月島と一体となった
様な不思議な境地を味わいます。


その夜、芭蕉は、昼夜、絶景を見続けたため、ありあまる感動で興奮して眠れない状態でした。




我々も、短い橋を渡って「雄島」を見物します。







島全体が僧侶や巡礼者たちの修行の場だった「雄島」は、上下の写真の様に、島の至る所に、
当時の僧らが修行した岩窟が残っています。








上の写真は、1104年に「見仏(けんぶつ)上人」が庵を結び、12年間、法華経を読誦して過ごした
という「妙覚庵」の跡です。

この「見仏上人」は、雄島に住んだ僧の中で最も高徳の僧であると言われていました。



更に、島の南端へ進むと、上の写真の六角形の鞘堂の中に収められている「頼賢(らいけん)の碑」
があります。


この「頼賢の碑」は、1285年から22年間もここ雄島に住み、一度も島を出なかったという僧「頼賢」
の徳行を伝えるために作られました。

この「頼賢」は、当時、「見仏上人」の再来と騒がれた僧だそうです。
そして、この「頼賢の碑」は、”中世日本三古碑”の一つで、国の重文です

しかし、残念ながら、中が真っ暗な六角形の鞘堂に納まっているため、下の写真の様に、お堂の中の碑の文字は殆ど読めません。



島の東側には、下の写真の芭蕉と曾良の句碑があります。

向かって左が芭蕉句碑で、右が曾良句碑ですが、この曾良句碑は、1809年の曾良の100回忌に
建立されたものだそうです。



”松島や 鶴に身をかれ ほととぎす”(曾良)

(ホトトギスよ、ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、鶴に身を変えておくれ。)

”朝よさを 誰まつしまぞ 片心”(芭蕉)

(朝も夜も、松島への思いが心に浮かんでならない。それは、私を待つ人が誰かその島にいて、
私のことを思っているからであろうか。「待つ」と「松島」を掛けています。)

芭蕉句碑の側面には、「勢州桑名雲裡房門人 延享四年十月十一日建立」と刻まれています。



更に進むと、上の写真の瑞巌寺の中興の祖「雲居(うんご)禅師」の別室の跡である「座禅堂」が
あります。





「座禅堂」は、1638年に、雲居禅師の隠棲所として建てられたお堂で、ここからは松島湾に点在する
島々を見晴らすことが出来ます。





我々のツアーバスは、次に、松島の海岸沿いの道を外れ、東北本線を超えて西へ向かい、
「西行戻しの松」を目指します。





下の写真の「西行戻しの松」は、西行法師が諸国行脚の折り、松の大木の下で出会った童子と
禅問答をして敗れ、松島行きを諦めたという伝説の地です。

う〜ん、ここでも西行は、禅問答で子供に負けたの?。


「西行戻りの松」は高台にあるため松島の景観が望めます。


 


上の写真の陸続きに見える一番右の島が雄島です。



(三省堂:「奥の細道の旅ハンドブック」から)