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電車で行く「薩摩街道」 (その9:熊本宿: 熊本城と西南戦争)



電車で行く「薩摩街道」 (その9:熊本宿: 熊本城と西南戦争)

(写真は、熊本城を見下ろす花岡山の中腹の「官軍墓地」)

電車で行く「薩摩街道」は、前回の「田原坂」に続いて 、
今回は「熊本城」周辺を散策します。

(田原坂については、(田原坂 散策歴史)と(田原坂 散策
を見てね。)


「薩摩街道」の「熊本宿」の北の端から、南の方へ歩いて
行きます。

熊本宿の北の端に位置するのは、次頁の写真の我が母校
「熊本大学附属中学校」です。




中学時代は、歴史に興味がなかったせいか、我が母校の横の
道路が「薩摩街道」だとは知りませんでした。

我が母校の隣に「光永寺」がありました。


「史蹟 光永寺」の門の脇の白い標柱には、もともとは山鹿宿
にあった光永寺を、加藤清正が、熊本城の築城の際に、ここに
移転させ、築城の余材で建造させた、と書かれています。



3年間も毎日通学したのに、母校の隣がお寺だったという記憶
がありません。

歴史に無関心というのは恐ろしい・・・

そして、お寺の門には、何と!、西南戦争の弾痕の跡が残って
います!


えぇ〜?、西南戦争では、我が母校の隣で撃ち合いをやって
たの?

光永寺を出て、薩摩街道を進みます。


街道沿いの上の写真の「池田屋醸造」は、1792年創業の老舗
です。


薩摩街道沿いの電柱には、前頁の写真の様に「京町は清正公
さんのおひざもと!!」の標語?が張られています。
加藤清正は、熊本では「清正公(せいしょこ)さん」と
呼ばれ、県民から慕われている郷土の英雄なのです。

薩摩街道の右手に、上の写真の小さな観音堂のような建物が
あり、その前に、下の写真の「清正のまちと街路づくり」の
案内板がありました。

その案内板によると、加藤清正は、熊本城の築城と並行して、
ここ京町に、町家を移転して町づくりにも力を入れました。

関が原の戦いで西軍に味方して敗れた柳川・立花藩や、
宇土・小西藩の家臣団を、ここ京町台地に住まわせたこと
から、京町の通りを、柳川小路や宇土小路と呼ぶように
なったそうです。

西軍の家臣団を城下に集めたりして、家康に睨まれる恐れは
なかったのでしょうかねえ。



薩摩街道は、熊本城の城内に入る直前に、写真の様に、
ゆるやかに左に曲がり、直ぐに右に曲がる「枡形」に
なります。



「京町一丁目」の信号を右折して、直ぐに左折すると、熊本城
への入口となる新堀橋があります。





新堀橋を渡ると、正面に地震の復旧工事中の「監物櫓
(けんもつやぐら)」が見えてきます。





西南戦争では、熊本城の守備隊は、この「監物櫓」の脇の
赤丸印の石垣の場所に大砲を据えて、赤矢印の方向の西郷軍
を狙い撃ちにしたそうです。

籠城策を採用した熊本城・鎮台司令官の谷干城(たに 
たてき)は、西郷軍の総攻撃の2日前に熊本城に火を放ち
ました。

(出火原因については諸説あり。)


(NHK英雄たちの選択「決戦西南戦争」から)
これは、戊辰戦争の際に、会津城の天守が、砲撃の目標に
された教訓からでした。


(NHK英雄たちの選択「決戦西南戦争」から)
同時に、城下町も焼き払ってしまいます。

これは、敵に利する可能性のある家屋を焼毀するためでした。


(NHK英雄たちの選択「決戦西南戦争」から)

熊本城の攻防戦は、熊本城を取り囲む西郷軍14.000人対、
熊本鎮台の守備隊4,000人の52日間にも及ぶ篭城戦と
なりました。

話を戻して、薩摩街道は、監物櫓の石垣を見ながら右折
すると、左手に長さが百間あると言われる、地震で壊滅状態
の次頁の写真の「百間石垣」があります。



熊本では、「清水の舞台から飛び降りる」とは言わないで、
「百間石垣後ろ飛び」と言います。

これは、昔、三東弥源太という若者が家老の長岡監物邸の
しめ飾りを盗んで逃げるとき、この高い石垣から後ろ向きに
飛び降りて逃げたからだそうです。



百間石垣の反対側は、三の丸跡で、その先に長塀が続きます
が、ここは2万5千石の細川刑部家の「旧細川刑部邸」跡で、
熊本地震による被災のため現在は閉鎖中です。





薩摩街道は、「二の丸門跡」の前を右折します。



薩摩街道は、法華坂に突き当たり、右手に清爽園を見ながら
坂を下りきったところが「札の辻」です。





上の写真の「新一丁目門 札の辻跡」の案内板と、次頁の
写真の「里程元標跡」の石碑があります。



この案内板によると、かっては、ここに高札が掲示される
「札の辻」と呼ばれる広場があり、豊前・豊後・薩摩・日向
街道の里数は、ここを起点として測られていた、とあります。

ここまで薩摩街道を歩いて来て疑問が湧きました。
薩摩街道は、熊本城を回避せずに、何故、城内の真ん中を
抜けているのでしょうか?

(「熊本城下町歴史鳥瞰図:文化文政年間」(2,100円)
から)

江戸時代の絵図を見ても、島津藩の参勤交代でしょうか、
確かに、城内を抜けています。
お城の機密が漏れる心配はなかったのか、それとも、百關ホ垣
などの鉄壁の守りを他藩に見せつけ様としたのか・・・

ここから先は、熊本宿の城下町に入って行きますが、城下町
は次回にご紹介することとして、いったん、JR熊本駅に戻り
ます。

JR熊本駅の裏手から、熊本城を見下ろす小高い花岡山の坂道
を上って行きます。



花岡山の中腹の熊本城(上の写真の赤丸印)を見下ろせる
場所に、西郷軍が大砲を据えて、熊本城を砲撃した下の
写真の「薩軍砲座の跡」があります。



その説明板によると、大砲の弾は熊本城までは届かず、手前の
城下町の段山町付近に落ちたそうです。


(段山町の「西南戦争の激戦地」の碑)



(段山激戦図)




ここ「薩軍砲座の跡」には、明治9年、不平武士による
「神風連の乱」で戦死した熊本鎮台司令長官の種田政明少将
以下、116名が埋葬されている写真の「花岡山陸軍埋葬地」
もあります。


次回は、熊本宿の城下町を、薩摩街道沿いに散策します。






電車で行く「薩摩街道」は、前回の「熊本城」に続いて 、
今回は熊本宿の「城下町」を散策します。

薩摩街道は、熊本城の中を抜けて、前回のゴールの「札ノ辻」
をスタートします。


一つ先を左折すると、一新幼稚園に突き当たるので、ここを
右折します。



薩摩街道は、すぐにまた左折して、市電のある道に出ます。



電車道に「諸毒消丸の吉田松花堂」という大きな横看板を
掲げた旧い屋敷があります。


「吉田松花堂」は、江戸末期の創業で、佐賀・鍋島藩の御典医
でシーボルトの弟子だった「吉田順碩」が、熊本に来て、
「毒消丸」(どくけしがん)を創製、販売したのが始まりです。


毒消丸は、今も製造販売されており、動悸、息切れ、夜泣き、
下痢、消化不良などに効くそうです。

因みに、ここ吉田松花堂の跡取り娘は、私と中学校で同じ
クラスで、毒消丸というあだ名でした。

電車通りを進むと、明治7年創業の写真の「長崎次郎書店」が
あり、、現在も、2階で喫茶店を営業しています。

現在の建物は、大正13年建築で、2階の連続したアーチや
軒廻りの装飾に特色があります。(国有形文化財)
当時は、森鴎外や夏目漱石も訪れ、また最近では、村上春樹も
お忍びで来たそうです。
薩摩街道歩きも、この喫茶店で一休みします。

眼下の路面電車を眺めながら、のんびりとします。


長崎次郎書店を出ると、電車通りは先の新町交差点で左へ
曲がりますが、薩摩街道は直進します。

新町交差点周辺の新鳥町商店街は、ノスタルジックな昭和が
漂う町で、写真の江戸創業のおもちゃ問屋「むろや」などが
軒を連ねます。

この「むろや」で、次頁の写真の「熊本城下町歴史鳥瞰図
:文化文政年間」(2,100円)を買いました。


この古地図を片手に、熊本宿の城下町の散策を続けます。

薩摩街道から少しだけ外れますが、ここから電車に乗って、
次の「船場」町の「洗馬橋」電停で下りると、童謡「肥後
手まり唄」で有名な「船場(せんば)」です。




写真は洗馬橋の電停と洗馬橋の欄干です。 



あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 
熊本どこさ 船場(せんば)さ

 船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 
煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと
隠(かぶ)せ


江戸時代、洗馬橋の周辺は、坪井川を行き来して、領内外の
商品を輸送する船の船着き場があったので、「船場町」の地名
になりました。


洗馬橋から、長崎次郎書店の前へ戻って、薩摩街道を直進
します。


少し進むと、明治8年に板橋から石造の眼鏡橋に架け替え
られた、坪井川に架かる「明八橋」があります。


明八橋の脇に「新三丁目御門」跡の案内板がありました。





それによると、江戸時代、明六つ(午前6時)に開き暮六つ
(午後6時)に閉ざされる、下の写真の「櫓門」があった
そうです。



ここは、城下町の出入口で、薩摩街道の要衝だったので、
「新三丁目御門」として守りを固めていたそうです。

明八橋を渡って、雰囲気のある家に突き当たって左折します。


この辺りが「唐人町」で、古い建物が散見されます。


古い建物の中には、未だ、青いビニールシートを被せた地震の
爪跡が生々しい家が点在します。




街並みを見ながら暫く行くと、前方の交差点の一つ手前に
古荘本店があり、ここを右折すると、直ぐに、白川に突き
当たり、左手に次頁の写真の「長六橋」があります。



「薩摩街道」は、この長六橋を渡って、次の「川尻宿」へ
向かいます。