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電車で行く「薩摩街道」 (その11: 川尻宿 :熊本城攻めの薩軍本営の地)





(写真は、「川尻宿」の「薩軍本営」で、熊本城攻めの指揮を執るNHK大河「西郷どん」の鈴木恭平) 

電車で行く「薩摩街道」は、前回の「熊本宿」に続いて 、
今回は「川尻(かわしり)宿」を散策します。


「川尻宿」は、熊本から八代、鹿児島へと結ぶ「薩摩街道」の
宿場町だったので、参勤交代の薩摩藩や相良(さがら)藩の
宿泊のための本陣がありました。

また、川尻宿は、細川藩の重要な軍港で、かつ藩の年貢米の
集積・積出港でもあったので、港町として大いに栄えました。


JR熊本駅から10分、2駅目のJR川尻駅で下車します。

川尻町は、中学時代に住んでいた町なので、懐かしくて
ドキドキしながら、JR川尻駅で下ります。

中学時代は、ここから、熊本宿の北の端の熊本大学附属中学へ
バス通学していました。

川尻駅入口信号の交差点から、薩摩街道沿いに南へ向かって
歩き始めます。



川尻町を訪れるのは、中学時代以来ですが、川尻町のメイン
ストリートの雰囲気は、余り変わっていない様な気がします。

先ず、街道沿いの次頁の写真の「くまもと工芸会館」に入り、
「川尻マップ」を貰って、文末の地図を見ながら散策します。






上の写真は、創業200余年の和菓子の「天明堂」です。



薩摩街道沿いの左右には、上の写真の熊本伝統工芸の「刃物
工房」があり、江戸時代の川尻宿の歴史を感じさせます。



街道を右手の道に入ると、写真の「瑞鷹(ずいよう)酒造」の
建物と工場があります。(国の景観重要建造物)






この瑞鷹の先に、西南戦争の熊本城攻めの際に、薩摩軍が本陣
として使った写真の「川尻薩軍本営」跡(今村邸)があり
ました。







NHK大河「西郷どん」では、西郷隆盛は、この「薩軍本営」
から、放火で燃え上がる熊本城の煙を眺めています。

川尻の町は、西郷隆盛以下、1万5千人の兵で埋め尽くされ
ました。



このとき、西南戦争に参加した川尻町出身者は、政府軍
15名、薩摩軍50名でした。

この辺りは、政府軍の川尻奉行所があったところでもあります
が、当時の川尻町奉行は、上田休(やすみ)でした。

上田休は、西南戦争の際、戦時下の川尻町の治安を守るため
に、鎮撫隊を組織しましたが、戦後、薩摩軍に与したとして
処刑されました。



上の写真は、薩軍本営跡の少し先にある、加勢川沿いの木造
2階建て「川尻の御蔵」ですが、御蔵は熊本地震で被災した
ため修復工事中でした。

川尻港は、年貢米の集積・積出港だったので、20万俵もの
米が、ここ「川尻の御蔵」に集められました。


その年貢米の荷揚げや船積のために設けられたのが、次の
写真の「川尻御蔵前の船着場」です。(国指定史跡)





潮の干満や水量の増減に影響を受けないように、長さ
150メートルにわたって14段の石段を設けています。


中学時代、この石段には、我が家の池の金魚のために、よく
浮草を取りに来ていましたが、この様な歴史ある石段だとは
全く気付きませんでした・・・

「川尻御蔵前の船着場」の先に、「御船手 渡し」跡の説明杭が
ありました。

それによると、「御船手」とは「水軍」のことで、川尻の
「御船手」は、加藤清正が設けました。





細川藩時代には、川尻港には、常に軍船が浮かんでおり、
「細川藩 御船手」として有名だったそうです。

前頁の写真は、川尻御船手の近くの「川尻の札座跡」の
説明板です。

それによると、藩札(紙幣)を刷る札座を、港町として
栄えていた川尻に置いたそうです。


上の写真は、川尻薩軍本営跡の隣にある安政年間創業のうなぎ
めしの「七代目 若松屋」です。

早い時間だったので、残念ながら未だ営業開始前でした。

川尻町のメインストリートの雰囲気は、私の中学時代と余り
変わっていないものの、一歩住宅街に入ると、昔の面影が全く
なく、町名変更等もあり、私の住んでいた家も、どの辺り
だったのか全く分かりませんでした。




JR川尻駅からJR熊本駅へ戻りますが、最近、川尻駅と熊本駅
の間に新しく出来たJR西熊本駅で下りてみます。



JR西熊本駅は、私が小学4年生のときに住んでいた苅草
(かりくさ)町に最近出来た新設の駅です。





私は、ここ苅草に住んでいるときは、ここの校区の次頁の
写真の「力合(りきごう)小学校」に通っていました。




JR熊本駅に戻り、お昼過ぎに、駅の構内の食堂で、写真の
「郷土盛り合せのほろ酔いセット」(1,280円)を注文
します。



懐かしい馬刺し、辛子蓮根等と生ビールがセットになって
います。

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