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バスで行く「薩摩街道」 ( 山鹿宿 )2018.3.18




(写真は、山鹿温泉の「さくら湯」)

3/16から3/24まで、熊本の実家に帰省していた間に、西郷や篤姫も通ったという「薩摩街道」を歩いてみることにしました。



しかし、現在、私は股関節炎のため、整形外科医から「1日の歩行距離を5キロに抑えること」と命ぜられているので、薩摩街道の宿場間を歩くことは断念しました。



その代わり、電車かバスで薩摩街道の宿場町まで出掛け、その宿場町の中を
歩くことにしました。

と言う訳で、前回の薩摩街道の「佐敷(さしき)宿」に続いて、今回は薩摩街道の
「山鹿(やまが)宿」です。


  

「薩摩街道」は、”鹿児島”から”熊本”を経て、肥前(佐賀)の田代で長崎街道に合流し、”豊前・小倉(北九州市)”へ至る参勤交代のルートでした。


「薩摩街道」のうち、”熊本”から北上して、「山鹿」を経て”小倉”に至る部分については、「豊前街道」とも呼ばれました。

「山鹿宿」は、「薩摩街道」の名湯の宿場町として栄え、大名行列も足を止めて、
ゆるりと温泉を楽しんだそうです。





熊本市の交通センターからは、山鹿行きのバスが約30分毎に出ており、ここから産交バスで1時間10分の「山鹿温泉プラザ前」で下車します。



「豊前街道(薩摩街道)」沿いの「山鹿宿」には、写真の様に、歴史ある商家が
軒を連ね、風情ある町並みが続きます。




















上の写真は、豊前街道沿いの真言宗・金剛乗寺の入口にあるアーチ状の石門です。





街道沿いのバス停・温泉プラザ前の前には、写真の立派な唐破風玄関の
山鹿温泉「さくら湯」があります。


さくら湯は、街の中心地にあり、外見からも歴史を感じる、シンボル的な
公共温泉施設です。




上のさくら湯の航空写真から分かる様に、独特の屋根の形は、十字にクロスしています。

約800年前、”湯に浸っている鹿”を発見したのが「山鹿温泉」の始まり、と
伝えられる由緒ある温泉です。


江戸時代に入ると、山鹿温泉を大変気に入った肥後藩主・細川忠利が、ここに
「御茶屋」(藩主の休息所)を建てました。

この御茶屋の温泉が、写真の「さくら湯」の始まりだそうです。

山鹿温泉を大変気に入った細川忠利は、客人の宮本武蔵を、この温泉に
招待しました。


この御茶屋の温泉は、江戸時代、殿様と重臣の「御前湯」、家臣の「御次湯」、
庶民の「外湯(さくら湯)」に分かれていました。

庶民のさくら湯は、男女混浴でしたが、御前湯と御次湯には、それぞれ専用の
門があったそうです。

「さくら湯」は、明治初期に、細川藩から山鹿市に払い下げられました。

しかし、「御前湯」「御次湯」「外湯(さくら湯)」の区分は、明治時代に入っても、
「松の湯(一等)」、「紅葉湯(二等)」、「さくら湯(三等)」として残っていた
そうです。


江戸時代からの「さくら湯」の建物は、昭和48年に取り壊されましたが、
平成24年に山鹿市が再生事業として、現在の「さくら湯」の建物を再建しました。



(北の玄関)

さくら湯には南北に2つの唐破風の玄関があります。



(南の玄関)



(さくら湯の玄関の写真から)



(さくら湯の前に建つ宮本武蔵像)

300円を払って、北の唐破風玄関から「さくら湯」の温泉に入ります。

豊富な湯量の山鹿温泉の泉質は、アルカリ性単純温泉で、神経痛、筋肉痛に
効くそうです。

入ってみると、温度がやや温めで、無臭無色、優しい感じの温泉で、肌触りが
気持ちいいです。
 
昔は、浴槽の底から自噴していたそうで、それを再現した造りの浴槽は、
20畳ほどもあり、広々としています。




(さくら湯の玄関の写真から)





上下の写真は、江戸時代には、殿様のための「御前湯」だったという「龍の湯」
ですが、市松模様の大理石の床と龍の天井絵が特徴です。




この「龍の湯」は、明治時代に入ると、貴賓客用として使用されたそうです。



さくら湯の中には、山鹿温泉の歴史を説明する上の写真の資料室もあります。




お腹が空いたので、さくら湯を出て、その奥の通りにあるレトロな飲食店街の
「郷土料理 彩座(いろどりざ)」に入ります。






熊本の郷土料理と言えば、やはり、”馬刺し”です。
私は、「馬刺し重」(1,200円)と「馬刺し握り」(720円)を注文しました。
やはり、熊本の馬刺しは美味い!



「馬刺し重」は写真を撮り忘れましたゴメンナサイ・・・、上はお店のメニュー
の写真です。)




豊前街道沿いの「山鹿宿」は、江戸時代、参勤交代の宿場町として栄えた歴史、文化、温泉の町です。



今でも、当時の面影を残しており、前回ご紹介した「さくら湯」、今回ご紹介する
「八千代座」などの見どころが、豊前街道沿いの”徒歩5分圏内”に集まって
います。



「八千代座」の周辺には、江戸時代創業の麹専門店や、明治創業の造り酒屋
など、間口が狭く奥行きが長い、典型的な宿場町の家並みが残されています。





「八千代座」(国重文)は、江戸時代の建築様式を受け継いでおり、明治43年に、旦那衆と呼ばれる山鹿の実業家たちの手によって造られた芝居小屋です。 

当時の山鹿は、菊池川の水運、豊前街道を利用した陸運の要所で、物資の集散地であると同時に、九州屈指の温泉場として隆盛を極めていました。


八千代座は、その様な当時の山鹿の豊かさの象徴するものであり、そのため大正から昭和にかけては、全国各地から多くの有名な芸能人たちも来演しました。

昭和に入ると、テレビの普及などにより一時廃屋同然となりましたが、市民を
中心に復興運動を展開、大修理を経て、平成13年に復活したそうです。


今では、坂東玉三郎の芝居小屋として広く知られる様になり、時々、玉三郎が
歌舞伎公演しているらしいです。




八千代座の木戸口をくぐります。( 大人520円、第2水曜休館 )


館内に入ると、華やだった明治・大正の熱気や、観客のざわめきが聴こえて
くるようです。




  

八千代座では、歌舞伎以外にもコンサート等のイベントが開催されていますが、
公演日以外は、見学可能で、親切なガイドさんが、40分くらいかけて、丁寧に説明してくれます。



ドイツ製のレールを使った廻り舞台、花道、囃子場などを備え、客席も桝席と桟敷席で構成された、江戸時代の歌舞伎小屋の様式を今に伝えています。





現在の劇場は、大正12年当時の姿を、平成13年に修復復元したもので、往時を偲ぶ天井広告看板や、桟敷天井のシャンデリアは一見の価値があります。










奈落(スッポン)



廻り舞台(奈落)


八千代座と同じ様な芝居小屋については、福岡県飯塚市の「嘉穂劇場」へ行ったことがあります。

嘉穂劇場は、昭和6年落成の1,200人収容という、地方にしては驚く大きさの芝居小屋です。

かつての飯塚が、炭鉱の街として、活気に溢れて栄えていた事を考えると、その規模の大きさに納得したものでした。

しかし、今回、鄙びた熊本の山鹿の田舎町に、飯塚と同規模の立派な芝居小屋が残っているのは、驚きで感動でした。


(飯塚の嘉穂劇場については、「JR九州・飯塚本線:石炭王嘉納伝助の邸宅へ」を見てね。)




「八千代座」を出て、近くの上の写真の「山鹿灯篭民芸館」に入ります。





「山鹿灯篭民芸館」(国有形文化財)は、大正14年に建てられた安田銀行
(現みずほ銀行)山鹿支店の内部を改造して、「山鹿灯篭」を展示しています。





「山鹿灯篭」は、古く室町時代を端に発するもので、金灯篭や神社仏閣などを、
和紙と糊だけで作り上げる伝統的な工芸品です。






館内では歴代の灯籠や、非常に精巧な灯篭作りの熊本城、八千代座などが展示されています。



「山鹿」で有名なのは、毎年8月15・16日の「山鹿灯籠まつり」です。



「山鹿灯籠まつり」は、浴衣姿の女性が、中に火が灯った和紙で出来ている金色の灯篭を、頭に載せて「♪よへほ節♪」を踊る、とても優雅で幻想的な祭りです。

♪主は 山鹿の 骨なし灯籠♪  ♪よへほ よへほ♪

♪骨もなけれど 肉もなし♪  ♪よへほ よへほ♪




(山鹿灯篭民芸館の展示絵画)



(山鹿灯篭民芸館の展示写真)


山鹿灯篭民芸館の先の国道交差点の湯の端公園には、写真の観光客用の
「あし湯」があります。




バスの時間まで、あし湯で過ごします。



山鹿温泉については、次は、ゆっくり泊りがけで来たいと思いました。