異常な猛暑の日々が延々と続き、秋雨前線が居座って豪雨が長引き、例年より多くの台風が早々と襲来して・・・と、なかなか中山道歩きを再開出来ずにいました。
しかし、ここにきて、久し振りに晴天が数日続いたので、2か月振りに、ようやく中山道の一人歩き旅を再開しました。
前回は、名物「ほう葉寿司」駅弁を食べながら、JR中央線・恵那駅から名古屋経由で新横浜に帰りました。
従って、今回は、新横浜から新幹線で名古屋を経由し、JR中央線の恵那駅へ向かいます。
そして、前回のゴール地点・恵那駅をスタートします。
JR恵那駅前の大通りを直進し、最初の交差点を右折すると、旧中山道の町並みです。
上の写真の「中野村の庄屋の家」を左手に見ながら、旧中山道の町並みを直進すると、その先で永田川を渡ります。
やがて、国道19号に合流して暫く進むと、下の写真の五叉路の信号があるので、道路標識の多治見方面の道に入ります。
その道を進むと、左手に写真の「西行硯水公園」がありました。
案内板によると、西行は、この地に竹林庵を結び、ここの泉水で墨をすり、歌を詠んで、3年間を過ごしました。
”道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ち留りつれ”
西行硯水を出て、右手の西行塚の大きな石碑を目印に、JRの踏切を渡ると、中山道は、のどかな田園風景の中の農道の様な道になります。
標識に従って、その農道を進むと、中央自動車道の高架をくぐります。その先で、中山道は急な上り坂に変わり、「是より西 十三峠」の石碑がありました。
いよいよ、中山道の最後の難所”「十三峠」の始まりです!
江戸時代には、この先の大湫宿までの間には、”十三峠に まけ七つ”
と、合計で二十もの難所があったそうです!
ひぇ〜!、これから先、今晩の宿までの間に、20もの難所を超えるの?!
浅田次郎の小説『一路』では、一路の一行の十三峠越えの様子を以下の様に書いています。
”中山道は険しい峠道にさしかかった。
胸つきに登ったかと思えば膝頭が笑うほどの下り、森の中のそうした上り下りが
いつ果つるともなく続いた。
十三峠と称する木曽口の難所であった。
いったい何のために諸侯はこのような苦役を負うているのであろう、一路は自問した。”
そう言えば、今晩の宿である細久手宿「大黒屋」に予約電話を入れたときの話です。
大黒屋のご主人曰く、”十三峠から先の20キロの峠道の間は、食堂も自動販売機も有りませんので、水などを買い忘れない様に!”
2か月振りの中山道歩き再開ですが、初日から、いきなり厳しいスタートとなりました・・・
十三峠の石碑を過ぎると、石畳の上り坂も急になりました。
上り坂の途中、右手にある急な階段を上ると、そこには、写真の「西行塚」と休憩所がありました。
この小高い丘から恵那市の市街地を一望出来ます。
(下の写真では、市街地が見えませんが、肉眼では恵那市が一望出来ました。)
上の写真の五輪塔が西行の墓で、説明板によると、大井宿の竹林庵で死期を覚った西行は、村人に、ここに葬る様に言い残したそうです。
西行塚の階段を下りて、石畳の上り坂を進むと、綺麗なトイレがあり、更にその先に、両側が一対になった「槙ヶ根の一里塚」がありました。
一里塚の先は、平坦な道になりますが、この辺りは、”桜百選”にも選ばれたという「西行の森」公園です。
説明板によると、西行が好んだ桜の木を100種類、合計130本が植えられているそうです。
西行はお釈迦さまの亡くなられた日に死にたいと願い、その通りに亡くなつたそうです。
”願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ”
西行の森公園を通り過ぎ、いったん舗装道路に出ると、右手にセメント工場がありました。
長野県や岐阜県の中山道は、中山道固有の”青色の矢印の道案内”がよく整備されていて、道に迷う事はほとんどありません。
セメント工場の横の”青色矢印”の通りに、舗装道路の急な坂を下りていきます。
と、思いましたが・・・道を間違えた?みたいです・・・
急な上り坂を、息を切らせながら、セメント工場の横の青色矢印まで戻って、確認します。
工場の端の石垣と舗装道路の側溝の間にある下の写真の草むらが中山道?・・・、みたいです。
半信半疑で、その工場脇の草むらみたいな道を入ってゆきます。
やはり、工場脇の草むらが中山道でした!
そのセメント工場の少し先に、9軒の茶屋があったという「槙ヶ根立場茶屋」の説明板と「追分の道標」がありました。
追分道標には、ちょっと読みずらいですが、上の写真の様に「右 西京大坂 左 伊勢名古屋」とあります。
追分道標の先の砂利道を進んで行くと、右手の小高い場所に、皇女和宮降嫁の際、桧の柱の仮御殿を建てて休息所にしたという「姫御殿跡」がありました。
姫御殿跡の少し先の左側に、写真の「首なし地蔵」がありました。
説明板によると、
二人の中間(ちゅうげん)がこのお地蔵さまの前で昼寝をしていましたが、一人が目を覚ますと、もう一人の首が有りません!
”仲間が襲われたのに黙って見ているは何事ぞ”と、怒ったもう一人が、お地蔵さまの首を刀で斬りおとしてしまったそうです。
中山道は、「首なし地蔵」の先で、大きなカーブを描きながら、「乱れ坂」と呼ばれる急な下り坂になります。
案内板によると、余りの急坂に、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れたことから「乱れ坂」と呼ばれたそうです。
乱れ坂を抜け、舗装道路に合流すると、「四つ谷立場」と呼ばれる民家が点在する田園風景になりました。
しかし、田園風景は、ほんの短い距離で、再び、緩やかな上り坂の山の中の道へと入ってゆきます。
足元には、写真の様に、歩きづらいくらいに、栗がたくさん落ちています。
この地方の名物「栗きんとん」は、9月から今年の栗を使用するそうですので、今回は忘れない様に買って帰ります。
坂道の途中には、「かくれ神坂」、「平六坂」、「妻の神」などの標柱がありますが、やがて畑の中の平地に出ると、その先に「紅坂の一里塚」がありました。
この辺りに残る一里塚は、両塚とも残っている所が多く、いずれも貴重な歴史遺産です。
一里塚を過ぎ、「うばヶ出茶屋跡」、「紅坂」、「黒すくも坂」などの標柱のある下り坂を進むと、「佐倉宗五郎」の碑がありました。
義民で有名な千葉県佐倉市の佐倉宗五郎の碑が、何故こんなところに?
案内板によると、ここ竹折村で農民騒動が起きそうになったとき、庄屋田中が将軍に直訴して騒動を未然に防ぎ農民を救いましたが、その罪で討ち首となりました。
農民たちは、犯罪人の庄屋田中の碑を造ることは出来ないので、当時農民騒動で有名だった「佐倉宗五郎大明神」の碑を建てて、庄屋田中を偲んだのだそうです。
佐倉宗五郎の碑の前の脇道へ入り、「神明社」へ向かいます。
神明社の境内の句碑群の中に、下の写真の芭蕉碑がありました。
”山路きて なにやらゆかし すみれ草”
神明社から中山道へ戻ります。
「よごれ茶屋跡」の標柱のある下り坂を進むと、橋を渡って、大きな舗装道路に合流し、その直後に右の細い道に入ります。
その右に入る細い道の脇に、下の写真の「深萱立場の高札場」があり、その先を直ぐに右折すると「深萱立場」の大きな説明板がありました。
浅田次郎の小説『一路』では、一路一行の十三峠の半ばの「深萱立場」での昼食の様子を以下の様に書いています。
”三日目の旅程は十里。
強行軍が災いしてか、行列の足どりは重く、早くも十三峠
の半ばにある深萱(ふかがや)の立場での昼食となった。
宿場ほど大きくはないが、休息場所として使われる集落が
「立場」である。
峠越えに難渋する旅人が多いせいで、深萱立場には九軒もの
茶屋があり、行き昏れた参勤行列のためにの小さな本陣まで
備わっていた。
いわば中山道六十九次の数には入らぬ、番外の宿場であった。”
深萱立場を出ると、中山道は、「馬茶屋跡」などの標柱のある「西坂」と呼ばれる上り坂に入ります。
西坂の先は、上の写真の様に、写真の右方向へ直進する舗装道、写真中央の上り坂の草道、左側の階段の道と分かれます。
標識に従って、左側の階段の道を上り、「みちじろ坂」を進んで行くと、「ばばが茶屋跡」の標柱と「茶屋坂」の石碑がありました。
茶屋坂は、下り坂となり、間もなく舗装道路に合流します。
道路沿いには、「クマ出没注意」の看板がありますが、すっかり慣れっこになってしまい、もう驚かなくなりました。
今回は、熊除けの鈴を鳴らしながら歩いていますので、対策もバッチリです。
この辺りは、「大久後立場」と呼ばれていたところで、「大久後の向茶屋跡」の標柱が立っています。
大久後立場を出ると、下の写真の様に、道は二手に分かれています。
例の”青色の矢印の道案内”が、肝心の分岐点にありません!
古びた標識の矢印は左の草むらの道を指していますが、私の案内本には右の上り坂と書いてあります。
う〜ん?!
体力的にバテてきていて、頭が朦朧とし始めている私は、どちらに進むべきか迷って、判断がつきません・・・
左の草むらの道は、草ぼうぼうで、かなり怪しげだし・・・
右のアスファルト道は、厳しい上り坂なので、間違いだったら引き返す気力もないし・・・
草ぼうぼうの道で迷子になるよりも、アスファルト道を引き返した方がマシだ、・・・と思い、急なアスファルト道を上り始めます。
道が平らになったあたりに、何と!このアスファルト道に合流している草道がありました!
そうか!
先程の草ぼうぼう道のは、ここでアスファルト道に合流しているから、どちらを歩いても同じだったんだ!
(帰宅してから調べてみると、左の草むらの道は、「観音坂」と呼ばれる古い中山道で、この観音の急坂を避けるため、江戸時代後半に、右のアスファルト道の「新道坂」が造られたとのことでした。)
中山道の”最後の難所”「十三峠」の20箇所もの難所を超えてゆきます。
中山道は杉林の道となり、炭火焼の餅が名物だったという「灰くべ餅の出茶屋跡」、高台に安置された「大久後の観音堂と弘法様」などの標柱を見ながら進むと、やがて「権現坂」の上り坂にさしかかります。
「権現坂」の急な坂を上りきると、直ぐに次の「鞍骨坂」です・・・
坂の途中で、権現山の山頂にあるという「刈安神社入口」への石段の前を通ります。
暫く歩いてゆくと、数軒の人家の辺りに「炭焼き立場」跡の碑があり、その先で、「炭焼の五郎坂」の上りにさしかかります。
坂の途中に、再び「クマ出没注意」の看板がありますが、今回は、熊除けの鈴を鳴らしながら歩いているので大丈夫です。
更に進むと、こんな山奥に、写真の様な綺麗なトイレがあり、有難く利用します。
中山道は、やがて舗装道路から草道へと変わり、更に奥へと進んでゆくと、
何と!、
”工事用の通行止め”が2脚置かれています。
え、えっ〜!、通行止めなの?!
その2脚の”工事用の通行止め”の先にも、道の真ん中に杭を二本打ってあり、ご丁寧に、更にその奥にも”工事用の通行止め”が1脚置いてあります。
しつこいくらいの”通行止めの表示”です。
今回の台風の影響で通行止めになったのかな〜?、
でも、ここから引き返す訳にもいかないし・・・
参ったな〜!
ともかく、進むしか選択肢がありません。
”この先で引き返すのだろうか?”と不安を抱きながら、急な草道を上ってゆきます。
坂を上りきると、石畳の中山道に合流しました!
ほっ・・・!
中山道の脇に、「車両等の乗り入れはご遠慮下さい」の注意書きが・・・
そうか!
”工事用の通行止め”は、「車両乗り入れ禁止」の意味だったんだ!
やれやれ・・・、早とちりで、肝を冷やしましたよ。
更に、坂道を上ってゆくと、「樫の木坂」の石碑のうしろに左右対の「権現山の一里塚」がありました。
一里塚を過ぎると、中山道らしい雰囲気の山道になってきたので、私は”江戸時代の旅人気分になりきって”歩いてゆきます。
その”江戸時代の旅人”の私の前を、いきなり、ゴルフのカートが横切っていきました?!・・・
何?!
何故、こんな山奥の中山道をカートが横切るの?
自分の居る位置がよく理解出来ずに、頭の中が混乱してきました・・・
そう言えば、中山道の足元には、ゴルフボールが何個も落ちています・・・
どうも、中山道のこの辺りは、両側をゴルフ場に挟まれて、ゴルフ場のど真ん中を中山道が通っているみたいです・・・
ようやく、自分が置かれている状況は理解出来ましたが、でも、なぜこんな山奥にゴルフ場が造成されたのか?、未だよく呑み込めません・・・
気を取り直して、「ぴあいと坂」の標柱、「大湫阿波屋観音」の石碑を見ながら進んでゆきます。
更に進むと、「中山道巡礼水」の石碑がありました。
説明板によれば、ここで病になった巡礼の母娘が念仏を唱えると、目の前の大岩から水が湧き出し助かったそうです。
巡礼水の先へ進むと、石窟の中に「三十三観音」が祀られていました。
案内看板によると、厳しい十三峠で行き倒れになった旅人や馬の霊を慰めるため、大湫宿の伝馬役や定飛脚によって建立されたそうです。
三十三観音から更に進むと、「八丁坂の観音」の石碑、「山之神坂」の石碑、「童子ヶ根」の石碑と続きます。
更に、坂道を下ってゆくと、遠くに大湫宿の街並みが見えてきます。
この先に、「中山道 大湫宿」の石碑があり、その右下に「右京へ 四十三里半」と刻まれています。
すぐ眼下に大湫宿の街並みが見えて来ました。
大湫宿の石碑の前に「是より東 十三峠」の石碑があります。
やった!
ようやく、十三峠が終わりました!!
朝から歩き続けて、ようやく、難所・十三峠の20箇所もの難所を無事に超えました!
しかし、今晩の宿は、次の大湫宿ではなくて、更に、琵琶峠を越えた先の細久手宿なのです。
果たして、日没までに、細久手宿に着けるでしょうか・・・
大井宿から大湫宿までは、20箇所もの難所を超える約14キロの長丁場です。 |
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