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36:宮ノ越 |
巴橋に戻って「義仲館」へ向います。
木曽川に架かる義仲橋を左折するとJR宮ノ越駅で、 右折すると義仲館です。
義仲館の入口には、木曽義仲と巴御前の銅像がありました。
館内は、木曽義仲や巴御前人形が飾られ、義仲の生涯と、かかわった人々や時代背景を、解りやすく解説しています。(300円)
上の写真は、平家追討の令旨を賜る木曽義仲です。
義仲館を出ると、すぐの右隣に「徳音寺」があります。
徳音寺は、木曽義仲の菩提寺です。
江戸時代には、上の写真の鐘楼門が、木曽八景「徳音の晩鐘」として旅人に親しまれてきました。
山門をくぐると、本堂の前には、写真の巴御前の馬上像がありました。
本堂の横には、宝物殿があり、義仲の遺品や文化財を展示してあります。
本堂の右手石段の上に「木曽義仲の墓」があり、巴御前など一族の墓も並んでいます。
徳音寺を出て、元の義中橋に戻り、宮ノ越宿の町並みを歩きます。
明治の大火で宮ノ越宿は全焼し、今は下の写真の本陣跡の石碑があるのみです。
少し先には旅籠「田中家」があります。
ここも明治の大火で焼失したのですが、運び出した建具をもとに再建したのだそうです。
田中家の少し先に「明治天皇御膳水」の井戸があります。
江戸末期に掘られたここの井戸水で、旧本陣で小休された明治天皇に献茶されたそうです。
御膳水の先あたりから中央西線と平行する中山道は、田園風景の中の緩やかな下り坂となります。
まもなく一里塚跡の碑がありました。
しばらく歩いて、中央西線の踏み切りを渡り、右折し更に少しに歩くと、間宿(あいのしゅく)「原野」の集落に入ります。
原野は、出梁(だしげた)造りの家が点在し、中山道の雰囲気を残しています。
原野駅に寄ってみようと駅に向かいますが、物置みたいな小屋があるだけです?
その物置小屋が原野駅でした・・・
原野駅の反対ホームへ行く橋を渡ると写真の原野八幡宮がありました。
原野の町並みを過ぎた所に、庚申塔が集められていました。
庚申塔の先に「中山道中間地点」の説明板がありました。
江戸時代には、「江戸からも京都からも67里28丁(268キロ)」の中間点として有名だったそうです。
従って、ここに「中山道中間の地」の碑もあるはずですが?
見当たりません・・・
説明板の矢印に従って、国道19号の道の駅へ行ってみます。
ありました!
道の駅の駐車場の奥の一段高い所に写真の「中山道東西中間之地碑」が!
何故?国土交通省は、勝手に、旧中山道沿いから外れた道の駅に設置したのでしょうか?
街道に戻り、少し歩くと、旧中山道は、右側の細い道に入ってゆきます。
細い道に入ると直ぐに、写真の相撲土俵がありました。
こんな辺鄙なところに、何故、国技館と見間違う様な立派な相撲土俵が?
更に、快適で気持ちの良い田舎道をずっと歩いてゆくと、写真の「手習い天神」がありました。
ここで、木曽義仲は、仲原兼遠から学問の手ほどきを受けました。
細い田舎道は、いったん国道19号に合流します。
国道19号沿いに歩いてゆくと、写真の出尻の一里塚がありました。
国道19号沿いに更に歩くと、写真の大きな蕎麦屋「くるまや」がありました。
「松茸ソバあります」の看板につられて、ついフラフラとお店に入ってしましまいた。
松茸ソバ(1,800円)は、写真の様に、松茸がたっぷりと乗せられていて、汁も松茸の香りに満ちています。
美味い!
蕎麦屋の脇から再び右手の細い道に入ってゆきます。
再び国道に合流し、少し歩くと、巨大な冠木門(かぶきもん)が見えて来ました。
冠木門の先が福島宿です。
宮ノ越宿から木曽福島宿までは、約7キロです。
広重の浮世絵「宮ノ越」は、徳音寺の祭りに出かけた帰りの親子連れが、橋を渡っているところを描いています。
川は木曽川、対岸が中山道で、満月に近い月が出ている夜です。 |
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35:藪原へ
37:木曽福島へ
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