![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/5c/da8069f22f344cc94c0d898b7b1e5b6c.jpg)
(写真は、野木神社の乳房の形をした奉納物)
古河宿を出て、旧日光街道を更に進んで行くと、左手に「野木神社」の鳥居が
あったので、その参道をどんどん歩いて行きます。
![](body_walk.gif)
かなり長い参道で、その先に、二の鳥居と三の鳥居がありました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/a5/e550ffa42dd9c722919f0438b583e436.jpg)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/a6/9bda795dd988eb00f23bf090f49833a3.jpg)
「野木神社」の社殿の説明板によると、この「野木神社」は、以下の@〜C
の様に由緒ある神社です。
![](cat_4.gif)
@802年に、坂上田村麻呂が、蝦夷の反乱の際に、ここで戦勝を祈願、
無事平定し、そのお礼に社殿を新築しました。
A鎌倉時代には、源頼朝が社領を寄進しました。
B江戸時代の1819年、古河城主・土井利厚(としあつ)が、現在の社殿を再建
しました。
Cまた、明治35年には、乃木大将が姓が自分と同じということで、愛用の軍刀
を奉納しました。![](m_0199.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/dd/62d05d282d74da2b41c2a631a8ecbc0e.jpg)
上の写真は、坂上田村麻呂が植えたという境内の大イチョウ(樹齢1,200年)
で、祈ると母乳が出る様になると信じられていたそうです。![](m_0199.gif)
その横には、下の写真の様に、乳房の形をした物がたくさん奉納されています。![](kuri_3.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/ef/5ca7d1f1b6748bb7f5d6c07b2ffc49d6.jpg)
説明板によると、母親の乳が出て、乳児が健康に育つようにと、米ぬかと
白布で作った乳房を奉納して祈願するのだそうです。
![](cat_5.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/0a/d8d9b68c81521f5020ac2a58a7b0a03e.jpg)
また、境内には、写真の芭蕉句碑がありました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/77/72dd443042f04880cfa624e518e871f6.jpg)
”一疋(一匹)の はね馬もなし 河千鳥”
(「千鳥足」と言うが、河原の石の上を滑らかに歩いてゆくたくさんの千鳥を
見ていると、この中には歩調を乱す跳ね馬など一匹もいないではないか。)![](m_0199.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/94/813b679b4c6786438545efb2a22ccc8b.jpg)
野木神社を出て、再び国道4号に戻ります。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/9b/22c3dc3cae9edb19318f71452b3435c7.jpg)
街道沿いのブロック塀の脇に、見落としそうな小さな「野木宿入口」の看板
(写真の赤丸印)が立っていました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/02/ccdb65e2be17e92a52f7a54bfb211120.jpg)
この小さな看板から先には、写真の様な屋号の表示のある家々が点在します。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/05/1e4148230eeff4e4d911e35b80b159b5.jpg)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/6a/1379e06ed59fe50295f193e66321e1f1.jpg)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/b1/9a465ec8877cd817aed871000e6d793f.jpg)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/ed/2988f72836a3d7430b5d923773528740.jpg)
少し歩くと、写真の「野木宿」についての説明板がありました。
それによると、野木村は小さな村だったので、宿場町としての負担に
耐え切れず、「助郷」の制度の適用を受けて、近隣の23か村から人馬の応援
を得ていたそうです。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/ac/86d11ca340032b37a6eaf7880599c0fa.jpg)
その説明板の道路の反対側に、上の写真の広くて立派な家がありましたが、
表札を見ると「熊倉」とあるので、多分「熊倉脇本陣」の子孫の方のお住まい
なのでしょう。![](m_0151.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/91/35fa6c0894c06e8f4f9b34abc8ad3f3d.jpg)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/e1/dc5d50f836a1fe849dcec03e27552dcd.jpg)
更に進むと、「一里塚跡」(江戸から十七里)の看板が立っていました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/0e/c29d45177a1eeb890c873f6ca3b2f29a.jpg)
そして、一里塚跡の先には、上の写真のほとんど読めない古い道標があり、
説明板によると、日光への迂回路(裏街道)である太平山道への分岐点であり、
「是より太平山道」と彫られているそうです。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/a4/ff0c2b9d96d77bf3f8db877d5f689351.jpg)
古い道標のすぐ先の左手に、上の写真の「観音堂」があり、 その脇には、
「馬頭観音」と「十九夜」塔とが並んでいました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/54/89e011889aa70da5183bd993c4001833.jpg)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/60/1ce46f9b25ad7add875ccd40e6614777.jpg)
「十九夜」とは、十五夜、十九夜などの夜に、「講中」と称する仲間が集まり、
飲食を共にしたあと、経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払う、という当時の
民間宗教だそうです。![](m_0151.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/7d/00e5eb8fe8d72c6f61df407e03e9d2b5.jpg)
観音堂から先は、脇を走る多くのダンプの風圧に耐えながら、国道4号を延々と
歩いて行きます。![](m_0211.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ff/5e15bda015f7535b4114a223ef3a7880.jpg)
![](body_walk.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/2e/10afd09f7ed9e9290500f592e40e3eec.jpg)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/d1/a7938b68b01472a72cccf901189e0ecb.jpg)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/e2/cee332d2966067c3bad498bca60baa1b.jpg)
やがて、東北本線・JR野木駅入口の標識を通過します。
更に進んで行くと、信号の左の角に「法音寺」が見えます。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/d2/39154e679ed570dc9dc47a70c783a3b9.jpg)
説明板によると、1780年に、秋元性李叟が建てたとあります。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/ac/b2df6c3915258ec2d8d02be20100f946.jpg)
「法音寺」の総門をくぐり次にある山門の前には、芭蕉の句碑が立っています。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/a1/4a23083d16c9b3d0bacdacace38f5189.jpg)
”道ばたの むくげ(木槿)は馬に 喰われけり” 芭蕉翁
(道端に木槿の花がひとつもないが、きっと馬子が引く馬に食われてしまった
のだろう。)
法音寺の斜め道路向いに「友沼八幡神社」の鳥居があります。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/ae/0847e8c6332bb40326d033a657076b17.jpg)
「友沼八幡神社」は、歴代の将軍が、日光参詣の際の「御休所」でした。![](ny_kimono_m.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/0e/01a065ae883d5dad9cde81fcad66675d.jpg)
江戸を出発した歴代将軍は、2泊目の古河城を朝出立して、最初に小休止した
のが、ここ「友沼八幡神社」の境内でした。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/f8/3bebadfdb6b77cc81798b1e5a86ec72e.jpg)
上の写真は、友沼八幡神社の境内にある樹齢550年の大ケヤキです。
友沼八幡神社を出て少し歩くと、小山市の間々田に入ります。
![](body_walk.gif)
やがて左手に「大日如来坐像」で有名な「若宮八幡宮」があります。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/84/64164fb265c2bce66b0f850750e55b56.jpg)
案内板によると、1709年に、江戸・湯島の渡部九兵衛が、父母の供養のため、
生国であるこの地に、この「大日如来坐像」を安置しました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/0f/ffe017f2b2bcd65c0687dd4730419829.jpg)
![](cat_4.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/f9/72ca16aef2e2b9bd119ebc23bd6e7ed6.jpg)
江戸時代には、現在の様な屋根が無く雨ざらしで「濡れ仏様」と呼ばれて
いましたが、仏像の姿が美しいので、当時の人々の厚い信仰を集めていた
そうです。![](m_0140.gif)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/71/f1aed42f59d8f8541085a8ffba62d4d0.jpg)
大日如来坐像の台座には、「施主 武州江戸湯島 渡部九兵衛 法名
峯月道明居士」)と刻まれています。
野木宿から次の間々田宿までは、約7キロです。![](body_walk.gif) |
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