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日光街道を歩く  00:日本橋




(写真は、江戸時代の日本橋の様子を描いた「熈代勝覧」絵巻 ) 

東海道、中山道のスタート時に続き、三度目の日本橋です。

このところ猛暑日がずっと続いていますので、少し暑さが和らぎそうな日の
午前中を選んで、日本橋からの日光街道歩きを、細々とスタートしました。





日本橋界隈は、江戸で一番人出の多い盛り場だったので、日本橋の袂
には、
「高札場」と、罪人の「さらし場」がありました。



(高札場跡)

「さらし場」は、現在の交番の辺りにあり、主殺しや心中者のかたわれ等、
処刑3日前の罪人が首かせを掛けられてさらされていました。



(さらし場があった辺り)

ちなみに、下の広重の「東海道五十三次」では、橋の右の袂は、犯罪者を
さらしの刑にした晒し場だったので、木戸で覆い隠して、2匹の犬で暗示
しています。





「日本橋」の橋柱には、五街道の起点の象徴として「一里塚の松と榎」が
デザインされています。



(松と榎のデザイン)

日本橋の橋の上の国道を品川方面へ向かうと東海道です。

東海道と反対方向の神田方面へ歩きだせば中山道ですが、少しの間、
中山道と日光街道は共通の道です。



下の浮世絵は、
名所江戸百景の「する賀てふ」(駿河町)で左手が呉服商の「三井越後屋」、右手が両替商の「三井」です。



下は、浮世絵と同じ位置からの現在の写真で、左手が「三越」で右手が
「三井本店」です。



地下鉄・三越前駅の地下コンコース壁面には、写真の様に17メートルに
わたる
「熈代勝覧(きだいしょうらん)」絵巻が設置されています。







この絵巻には、江戸で一番賑やかだった頃の日本橋の町人の様子が、
生き生きと描かれており、当時の日本橋の息づかいが伝わってくるようです。

また、日光街道の右手には、鰹節の「にんべん」や、海苔の「山本山」等の
江戸時代からの日本橋の老舗が並んでいます。



これらの老舗の並びには、新たに「COREDO室町」ビルが完成し、最近、
この辺りの街が、更に活気を帯びてきました。



(COREDO室町)



(COREDO室町)

中山道と日光街道は、日本橋の先の千疋屋と新生銀行の角(室町三丁目
信号)までの約400メートルが
共通の道です。





中山道は、この信号を直進しますが、日光街道はここを右折して、本町通りに入ります。

本町通りを直進すると、日光街道は直ぐに昭和通りに当たるので、地下道を利用して反対側に出ます。





更に直進すると、右側の有料駐車場の隅に、うっかり見落としてしまい
そうな、写真の
「旧日光街道 本通り」の石碑が建っていました。


やった!、この通りが日光街道で間違いありません!



側面には、「江戸名所図絵や 広重の錦絵に画かれて著名なこの地は 
将軍御成道として繁華な本街道であり 木綿問屋が軒を連ねて殷賑を
極めた。」と彫られています。

そのまま直進すると、日光街道は大伝馬本通りとなり、地下鉄
「馬喰横山駅」を右手に見ながら信号を渡ります。



次の通りの入口には
「横山町問屋街」の大きな看板が建っており、衣料品の卸問屋が軒を連ねています。



江戸時代には、この辺りには、木綿問屋が軒を連ねていました。

下の浮世絵は、
名所江戸百景の「大伝馬町 木綿店」です。









殆んどのお店には、写真の様に
「小売 お断り」の張り紙がしてあります。


この横山町の問屋街を直進して、突当りの大通りを左折すると、浅草橋の
交差点に出ます。



浅草橋の交差点を直進すると浅草橋です。



浅草橋の左手前の小さな公園に、写真の
「関東郡代の屋敷」跡の説明版が立っています。





説明版によると、明暦の大火以降は、関東郡代がここに屋敷を構えて、
幕府直轄地の年貢徴収、紛争処理などを行ったそうです。

浅草橋の橋の上からは、屋形船がたくさん見えます。





浅草橋を渡った左手の植え込みの中に
「浅草見附」跡の石碑がありました。



「浅草見附」は、最も東の端に位置する江戸城の外堀の城門です。

「見附」とは、城門の外側に置かれた番所のことで、江戸城には、この
浅草見附の他にも、赤坂見附、四谷見附など、36カ所の見附が置かれて
いました。


浅草橋を渡ると、その先は、有名な”人形の街”です。

久月、善徳などの大手がビルを連ねます。





やがて日光街道は、江戸通りとなって、蔵前橋通りと交差します。

蔵前は、江戸時代、幕府の米蔵が軒を連ねていた所です。

日光街道(江戸通り)沿いに歩いて行くと、左手に”ポケモンGO”の任天堂
ビルがあり、その右隣に、江戸時代から続く
「駒形どぜう」が見えます。





(「駒形どぜう」については、2011/8の「散歩の寄り道:どじょう鍋」を見てね。)

更に進むと、駒形橋交差点で、江戸通りと雷門へ向かう道との分岐点です。



この交差点の右手に、馬頭観音を本尊とする写真の
「駒形堂」があります。




江戸時代、舟で浅草寺に参詣に来た人達は、先ず、隅田川沿いの駒形堂で船を降りて、駒形堂にお参りしてから浅草寺へと向ったそうです。

駒形堂の脇には、写真の
「浅草観音 戒殺(かいさつ)碑」が建っています。



その説明版によると、「浅草寺の霊地である当地では、魚鳥の殺生を
禁ずる」旨が碑に彫られているそうです。

駒形堂を見てから、江戸通りを外れて、駒形橋交差点を左斜め前に進んで、浅草雷門へ向かいます。



有名な
「浅草雷門」の前は、大勢の外国人の観光客と、日本人の
”お上りさん”でごった返しています。





ちなみに、門の脇に立つ雷神像が雷門の由来だそうです。



江戸時代の旅人は、旅の安全を祈願して、浅草寺に寄ってから、日光街道を進んだのでしょう。

日光街道は、雷門に突き当たると右折し、東武浅草駅の右側の道を進んで行きます。





日光街道は、隅田川に並行しているので、ビルの切れ目からは、
スカイツリーと隅田川が見えます。



間もなく、言問橋西の五差路の信号がありますが、この信号の左斜めの
道が日光街道(吉野通り)です。



日光街道(吉野通り)を少し進むと、右手に、写真の
「待乳山聖天」
(まつちやま しょうてん)があります。





昔は、この聖天のある隅田川沿いの小高い丘から周囲が見渡せたので、
江戸名所として浮世絵にも描かれ、近隣の吉原などの花街からの参拝で
賑わったそうです。

以前は、この吉野通りは山谷通りと呼ばれていましたが、「山谷」は”ドヤ街”として有名になってしまったので、「吉野」に変更したらしいです。



吉野通りは、吉野橋で、写真の
「山谷掘公園」の遊歩道と交差します。








案内板によると、江戸時代、山谷掘は隅田川へ注いでおり、吉原へ向かう
猪牙舟(ちょきぶね)が堀を上っていたそうです。

”ドヤ街”の名残りでしょうか、吉野通りには、2,000円〜2,500円くらいの安い旅館やビジネスホテルが軒を連ねています。











この低料金が受けて、最近は、外国人のバックパック旅行者に人気だと
聞いたことがあります。

やがて、吉野通りは「泪橋」交差点に出ます。



昔は明治通りは川だったので、日光街道は、ここに架かっていた
「泪橋」
渡りました。

江戸時代、この先の小塚原刑場で処刑される罪人が、ここで家族と別れを
したのが「泪橋」の由来だそうです。

また、泪橋は「あしたのジョー」の舞台でもあります。

(「あしたのジョー」のフィギアについては、2014/8の「吉原界隈散策」を
 見てね。)


「泪橋」の交差点を渡ると、日光街道は、間もなくJR常磐線・地下鉄の
「南千住駅」の左脇に出ます。







歩道橋で線路を越えて、南千住駅を右手に見ながら、左手のJR常磐線の
線路脇の
「小塚原回向院」へ向かいます。



回向院(えこういん)のお寺を探しますが見当たりません?


よくよく見回すと、何と!ビルの1階が回向院でした!



小塚原の回向院は、両国の回向院が手狭になったため、両国の別院として創建されました。

ビルの入口には、吉展ちゃん誘拐事件の地蔵尊があります。



ビルの1階の入口の壁には、写真の
「観臓記念碑」がはめ込まれています。





これは、杉田玄白、前野良沢らが、ここで刑死者の解剖を見学して、
「解体新書」を翻訳出版したのを記念して作られたものです。

寺の右奥の小さなお堂は、安政の大獄で捕らえられ処刑された橋本左内の墓です。





また、寺の一番奥の大きな墓は吉田松陰で、”松陰二十一回猛士墓”と
彫られています。





他にも、安政の大獄で処刑された大勢の志士達や、ねずみ小僧次郎吉らの墓もあります。



「小塚原回向院」を出て、すぐ左にあるJR常磐線のガードをくぐると、
「小塚原刑場」跡の「延命寺」があります。







江戸時代、ここ「小塚原刑場」は、品川の「鈴が森」刑場と共に、二大刑場といわれました。

(「鈴が森刑場」については、2011/9の「東海道を歩・品川宿」と、2012/3の「バスで行く東海道・第一回」を見てね。)

明治になっても斬首が行われ、明治12年には”明治の毒婦”と呼ばれた
「高橋お伝」がここで斬首されました。

刑場の一角には、刑死者の菩提を弔うための写真の
「首切り地蔵」
建てられています。





また、首切り地蔵の手前には、下の写真の大きな「題目石」があり、
”南無妙法蓮華経”と刻まれています。



小塚原刑場が開創されてから220年の間、埋葬された遺体は、何と!、
20万人余だそうです!

実は、”埋葬”とは名ばかりで、浅く穴を掘りその上に薄く土を掛けただけ
だったので、雨水に洗われて手足が土中から現れ出ることがよくあった
そうです。

怖っ!ぞ、ぞ〜・・・

「小塚原回向院」の前の国道4号(日光街道)を横切って、JR常磐線の
「南千住駅」前に戻ると、写真の芭蕉像がありました。





その横の地図によると、旧日光街道は、南千住駅前から少しだけ国道4号
(日光街道)と並行した後に、国道4号に合流しています。



旧日光街道を少し歩いて国道4号に合流した地点の向い側に、写真の
「素盞雄(すさのお)神社」がありました。











上の写真は、赤ちゃんの初宮詣の際に奉納する「子育ての祈願絵馬」です。

下の写真は、昔、母乳の出ない婦人が、皮を煎じて飲んだという
「子育てのイチョウ」です。



「子育ての祈願絵馬」を奉納して、このイチョウの木に掛けて祈願する
のだそうです。

素盞雄神社から少し進むと、間もなく、千住大橋を渡ります。







千住大橋を渡ると、左手の脇に小さな公園があり、そこに写真の
「奥の細道 矢立初めの地」の石碑がありました。



石碑には、

「千住という所にて舟を上がれば、(みちのくの)前途三千里の想い胸に
塞がりて、幻の(様にはかない)巷に離別の泪を注ぐ。

 ”行く春や 鳥啼き 魚の目は泪”

 是を矢立の初めとして、行道なお進まず。 人々(弟子たち)は、途中に
 立ち並びて、(芭蕉の)跡影の見ゆる迄はと見送るなるべし。」

と、奥の細道の一節が刻まれています。

芭蕉は、住んでいた深川の庵から、小名木川を舟で千住まで来て、千住から「奥の細道」の歩きをスタートしました。

矢立初めの石碑の横には、写真の葛飾北斎の富嶽三十六景「千住花街より眺望の富士」の浮世絵とその説明板が建てられていました。





更にその小さな公園から、川沿いの遊歩道に下りて行くと、護岸の壁には、写真の絵がペンキで描かれていました。





それは、芭蕉とその弟子の曾良の「奥の細道 旅立ちの地」の旅姿でした。

川沿いの遊歩道から国道4号に上がります。

国道4号は、千住大橋を渡った最初の信号を直進ですが、千住宿は、
右手の「千住宿 奥の細道」と、茶色の上に黒色で大きく書かれた巨大な
横看板のある狭い道に入って行きます。




日本橋から千住宿までは、約9キロです。


01:千住へ

        
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