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03:浦和


現在の浦和は大都会ですが、江戸時代には、本陣1、脇本陣3、旅籠15の小さな宿場町だったそうです。

・浮世絵



英泉作の浮世絵は、浦和宿を臨む浦和台地からの眺めで、噴煙は浅間山です。

「木曽路名所絵図」によると、「空晴れたるときは ここ(浦和宿)よりも 浅間山見ゆる」とあるそうです。

う〜ん、浦和の街から、浅間山の噴煙が見えた、とはね〜!

浮世絵の中央の小さな橋が高台橋、橋の向こうに更に小さく見える家並みが浦和宿です。

右手の二人の人物は、刀を差した侍と荷物を担ぐ供の者です。

左手は、荷を乗せて馬を引く馬子(まご)、そして馬の後ろにいるのは、肥料にする馬糞を掻き集める村の子供だそうです。

 馬糞集めネ〜!

 江戸時代は、徹底したエコとリサイクルだったんですね〜!

浦和宿の名物は、当時、二・七市で売られていた焼米と織物だったそうです。

・玉蔵院(ぎょくぞういん)





関東10壇林(だんりん:仏教の学問所)に数えられたという有名な真言宗の寺です。


・浦和本陣跡



浦和本陣は、明治時代に建物は取り払われ、現在は、写真右の白い案内板のみです。

囲いの中の石碑は、本陣跡の碑ではなく、明治天皇の大宮氷川神社行幸の際に行在所となった場所としての記念碑です。






(「中山道 浦和宿」の碑)

・二・七市

 2と7のつく日の月6回、浦和宿では、市が立って賑わっていたそうです。


 
その市が立っていたという常盤公園の入口に、写真の「野菜を売る女性のブロンズ像」がありました。



(常盤公園)


・郭信寺(かくしんじ)




 
本堂、地蔵堂、鐘楼などがあり、木造の鎌倉時代の阿弥陀如来像で知られます。


 
寺の入口に「さつま芋の紅赤発祥の地」の案内板がありました。


 
この辺で、盛んに芋が栽培されていたということは、江戸時代は、この辺り一帯は畑だったんですね〜。

・針ケ谷の庚申塔


 
 大原陸橋東の交差点の中の三角形で
 囲んだガードレール?の中に、写真の
 庚申塔がありました。

・一本杉碑



 ここにあった一本杉は、江戸時代には、高さ18メートルの巨木で、遠くからの目印だったそうです。

 写真の一本杉の碑と、その案内板がありました。

 案内板によると、1860年に、水戸藩士・宮本佐一郎が、丸亀藩浪人・河西祐之助に口論の末殺されます。

 この際、負傷した河西は、同じ年に起きた桜田門外の変(大老・伊井直弼への襲撃事件)の逃亡者と間違われて捕えられ、その取り調べを知った宮本佐一郎の息子・鹿太郎は、河西の居所を突き止めます。

 1864年、仏門に入ろうと江戸へ向かう河西を、鹿太郎と3人の助太刀が、ここ一本杉で待ち伏せ、父の仇を討った、とあります。

 この仇討ちは、幕末最後の仇討ちとして、当時、かわら版、はやり歌などで中山道界隈に広まったそうです。

 へ〜!
 
江戸時代の最後の仇討ちなんだ〜!

・女郎地蔵


 
当時の刑場跡であることを示す「三界万霊」の供養塔です。

 さいたま新都心駅の前の歩道上にひっそりとありました。



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