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多摩川を歩く (その34) (二子玉川C:玉電砧線の廃線跡)  2022.9.26




(写真は、玉電が描かれたマンホール:玉電砧線の廃線跡にて)


自宅の新横浜から、市営地下鉄のあざみ野駅で東急田園都市線に乗り換え「二子玉川駅」で下ります。


前回は、二子玉川駅の西側の商店街を散策しました。

今回は、商店街から更に西へ伸びる「玉電砧線の廃線跡」を散策します。

 



先ず、食事をするために写真の「玉川 やなぎや」に入ります。






「玉川 やなぎや」は、多摩川沿いに一軒だけ残る、天保2年(1831年)創業の老舗の料亭です。

この店の元女将のご主人は、娘が通学していたときの二子玉川小学校のPTA会長で、妻もPTA役員をしていた関係でご一緒したことがあります。

この元女将は、現役のときに「ブラタモリ」に出演されて、料亭が堤防の外に残ることを許された経緯について、詳しくタモリに説明されていましたので、

記憶に残っておられる方もあるかも知れません。

(料亭が堤防の外に残ることを許された経緯については、「多摩川を歩く・玉川陸閘」を見てね。) 

     


















                                    
食事を終えて、「玉電砧線の廃線跡」の散策に出掛けます。


明治40年に開通した「玉川電気鉄道」(通称”玉電”)は、渋谷と二子玉川を結ぶ路面電車でした。

「玉電」のうちの「砧線」は、関東大震災の復興のために、多摩川の砂利を都心方面へ運搬する目的で敷設され、現在の二子玉川駅と砧本村の間の2.2キロを走っていました。

また、近隣住民の通勤通学手段としても利用されていました。

しかし、その後、車社会の到来とともに路面電車は姿を消すこととなり、昭和44年、玉電は世田谷線を除き全線廃止となりました。



現在の二子玉川駅の辺りに始発駅があり、駅前の玉川通りを横切って、世田谷信金の脇の細い道を走っていました。

そのまま進むと、左側に並行してレンガ敷き遊歩道が出現しますが、これが砧線の軌道の跡です。





遊歩道には下の写真の様に、「吉澤駅←砧線中耕地駅→二子玉川駅」のタイルが埋め込まれていて、その脇には「砧線 中耕地駅跡」の石碑が立っています。



ここから先は、砧線の軌道の跡が遊歩道になっています。



(遊歩道のマンホールの蓋に描かれた玉電砧線。)



(砧線の軌道の跡に建つオブジェ)



(車道との境界にも砧線の玉電の電車の絵が)



左へ急カーブして多摩堤通りへ出てきました。



(吉澤橋交差点)



多摩堤通りを横断し、野川に架かる「吉澤橋」までやって来ました。

玉電砧線の電車はここを鉄橋で渡っていました。





(吉澤橋の電車のレリーフ)

説明版によると、この橋は、大正13年の玉電砧線の開通に合わせて架けられた鉄道橋だそうです。



(吉澤橋の「玉電と吉澤 記念碑」)



(玉電が吉澤鉄橋で野川を渡る風景:昭和36年)



吉澤橋を渡って更にう砧線の軌道跡を進みます。





(三角公園付近の玉電砧線軌道跡)



三角公園の先で、道路は二股に分かれますが、左は砧下浄水所外周道で、右が玉電砧線軌道跡の道です。



右側の道に入り更に進むと、鎌田二丁目南公園に突き当たりました。

この辺りに、玉電砧線の終点の砧本村駅(きぬたほんむらえき)があったみたいなのですが、駅跡を思わせるものは何も残っていません・・・

来た道を戻ります。

吉澤橋交差点まで戻って来ました。

そう言えばこの直ぐ近くに「静嘉堂(せいかどう)文庫」があるのを思い出しました。

右折すればスタート地点の二子玉川駅ですが、直進して「静嘉堂文庫」へ向かいます。