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多摩川を歩く (その22) (二子橋:川崎側)  2022.9.12




(「下野毛の渡し」の碑)


 

多摩川の土手の左側にずっと続いていた等々力緑地と桜並木が終わり、再び、炎天下の堤防歩きとなりました・・・



















海から15キロポイントです。

河口から水源まで全長138キロだから、先は長いなあ〜・・・





写真は、「宮内の渡し」の碑です。 

大正6年、1口10円の出資金を宮内の村人が出し合って、舟を買って渡しを始めました。

宮内以外の人は有料として、村人が、東京の市場へ野菜を出荷するのに使われました。

その後、大正14年に二子橋が出来て、利用者が半減したましたが、更に、昭和10年の丸子橋開通で、宮内の渡しは廃止されました。





上下の写真は、「宮内排水樋管(ひかん)」で、浄化された下水をここから多摩川に流しています。















上の写真は、「下野毛」の信号ですが、多摩川の対岸の東京側は「上野毛」です。

川崎市の「下野毛」と世田谷区の「上野毛」とは、江戸時代は同じ「野毛村」でした。



上の写真の写真の右手の碑は、「下野毛の渡し」の碑です。

1651年、この辺りを蛇行していた多摩川は、洪水を防ぐために、人為的に流れを真直ぐにする工事が行われました。

その結果、ここ「野毛村」は分断され、「上野毛村」(東京側)の農家の人は、川を挟んだ無人の飛地(川崎側)の畑を耕作することになってしまいました。

つまり、毎日、自分の畑に行くために、この「下野毛の渡し」が必要になったのです。

その後、無人だった飛地の畑が何者かに荒らされる様になったため、仕方なく、上野毛村(東京側)の農家の人が飛地に移り住むようになり、
無人地帯に13軒の農家が建ちました。


この新しく出来た川崎側の農家は、東京側にある善養寺の檀家であったことから、墓参りや親戚付合い等にもこの渡しが必要でした。

そして、川崎側の農家の人達は、往きは東京側で消費される野菜を積んで行き、帰りは、東京側の下肥を汲んで戻る様になりました。



大正時代には、川崎側の農家が1日交替で船を出す様になりました。

この際、地元の人は無料で、一般の人からは2〜3銭の渡し賃を取っていたそうです。

昭和時代に入ると、川崎側の河川敷にゴルフ場が出来ました。

しかし、このゴルフ場の事務所は東京側にあったため、ゴルフ客のために、この「下野毛の渡し」は使われ続き、何と!、このゴルフ場の渡しは、
今でも使われているそうです!


驚き!

東京側のゴルフ場の事務所の受付コーナーを川崎側に設ければ、このゴルフ場の渡しは廃止出来るのに何故?

まあ、歴史的な遺跡を保存するというのならそれでも良いとは思いますが・・・







土手の左手の大きな建物は、「アマゾン物流センター」です。



やがて、自動車専用道路の「第三京浜」の橋梁が見えて来ました。







第三京浜の橋梁をくぐって進んで行きます。

















写真は、「諏訪排水樋管(ひかん)」で、浄化された下水をここから多摩川に流しています。



写真は、「諏訪の渡し」の碑です。

ここの渡しも、前述の渡しと同様に、東京側の農家の人が、川を挟んだ対岸の飛地(川崎側)の畑の耕作に通うためのもので、40軒の農家が交代で船を出していました。

そして、大正14年、これから向かう「二子橋」の開通でこの諏訪の渡しは廃止されました。



「二子橋」が見えて来ました。







東急田園都市線の架橋の下をくぐります。







「二子橋」を渡ります。















橋を渡り終えると田園都市線の「二子玉川駅」です。



二子玉川駅から乗車して、あざみ野駅経由で新横浜に帰宅しました。