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多摩川を歩く(その5)(大師橋) 2022.6.9





(写真は「大師橋」)

 

前回は、「多摩川沿いに河口から源流を目指して歩く旅」を、「多摩川河口」の標柱のある場所からスタートしました。



そして、最初の橋である「多摩川スカイブリッジ」をくぐり、写真の2番目の「大師橋」までやって来ました。 



大師橋の脇に、写真の「羽田の渡し」の碑がありました。

案内板によると、この渡しは、江戸から川崎大師への参詣ために賑わったそうです。



「羽田の渡し」は「六郷の渡し」の様な幕府管理の渡しではなく、ここ大師河原村が運営する渡しでした。

この辺り一帯の新田を開墾した名主が「六郎左衛門」だったことから「六郎左衛門の渡し」と呼ばれていました。

この羽田の渡しは、「旧大師橋」が開通した昭和14年に廃止されました。

え?、昭和14年!、え〜っ!、と言うことは、この「羽田の渡し」は昭和に入ってからも現役だったんだ!

驚き!




「首都高大師橋」(首都高速横羽線)の下をくぐると「大師橋」(産業道路)の入り口がありました。



(首都高横羽線と産業道路が立体化する地点については、文末の注釈をご参照ください。)

昭和14年開通の「旧大師橋」の老朽化が進んだため、架け替え工事が進められ、平成9年に現在の「大師橋」が完成しました。



明るい雰囲気の綺麗な橋です!



「旧大師橋の親柱」は、上の写真の様に、現在の大師橋の入り口に保存されています。

川崎側の「現在の親柱」は、堤防すれすれの低い位置にあるので、多摩川沿いの遊歩道を右折してそのまま橋を渡れます。



親柱は、上の写真の様に大理石に「だいしばし」と書かれています。



これに対し、東京側の「現在の親柱」は、高い防潮堤を越えた位置にあるので、多摩川沿いの遊歩道に下りるには、
下の写真の「大師橋取付陸橋」という別の橋の急な階段を下りて行く必要があります。 




東京側の親柱は、この「大師橋取付陸橋」との繋目にあり、こちらは、下の写真の様に漢字で「大師橋」と書かれていました。





橋の中央のレリーフの説明版によると、この橋は、中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る斜張橋だそうです。



















橋の上からは、上の写真の自動車の交通安全を祈祷するための、「川崎大師」のインド風の祈祷殿が見えます。

また、下の写真の様に、川崎大師の大本堂の大屋根の上部も微かに見えます。



そうだ!、久しぶりに川崎大師に立ち寄ってお参りしてから帰ろう。



大師橋から下りて、多摩川沿いに進みます。











写真は、旧新日鉄水門です。









上の写真は、河川防災ステーションです。





写真は「大師の渡し」の碑です。



川岸には背丈を超すアシが続いていて近づけませんが、上の写真の赤丸印のアシが繁る辺りの川岸は、川崎市ではなくて、
何と!、対岸の大田区の「飛び地」なのです。


この岸辺は、下の「多摩川の汽水域」の左下の赤丸印に示されている通り、川崎市の堤防の下にあるにも拘わらず、対岸の大田区の土地なのです!



(多摩川の汽水域:インターネット「六郷川の四季」から)

通常は県境は川の真ん中なのですが、上の地図から分かる様に、多摩川の場合は、都と県の境界線は非常に複雑で、

そのため「飛び地」が多数存在します!


私は、以前から、多摩川の「飛び地」に非常に興味をもっていました。

多摩川の両岸には、「等々力」や「丸子」などの同じ地名が点在します!

例えば、世田谷区の「等々力渓谷」と、川崎市の「等々力競技場」は、江戸時代は同じ等々力村でした。

等々力村は、江戸時代には一つの村だったのですが、多摩川の氾濫により、村の中央を流れる様に流路が変わり、村が分断されました。

「大師の渡し」の「飛び地」も、小さいですがこの様な理由によるものだと思われます。



土手を下りて川崎大師へ向かいます。










(注)「首都高大師橋の下をくぐり大師橋を渡る」:下記の地図を参考にして注釈を読んでください。


    昭和43年に、この大師橋の東京側の200メートル川下に「首都高速横羽線」の橋梁が出来ました。

    そして現在は、私には奇妙な風景に映るのですが、この東京側で200メートル離れていた「一般道大師橋」と「首都高大師橋」は、川崎側で
立体構造となり重なって、産業道路(一般道大師橋)は、首都高横羽線(首都高大師橋)の下に潜り込みます。







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 06:川崎大師 へ

            
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