車の窓越しに見上げる社屋には、暗いせいもあって、爆破による損傷の痕をはっきりと認めることは出来なかった。
がらんとした駐車場に、木津は車を飛び込ませる。
転げ出るように車を降りた真寿美は、社屋を再び見上げる。割れた窓からわずかに煙が立ち上り、ただでさえ煤けた感じの壁をさらに汚している。
木津もそれに目を遣ると、言った。
「大したことはなさそうだな」
真寿美は黙ったままでいる。
「とにかく行くぞ、ほら」
木津は真寿美の背中を突き押して、非常ドアへと急がせた。
二輪車置き場を通り過ぎるとき、見慣れたメタリック・グレーの大型の二輪車と、その横にそれよりは形の小さいキャンディ・レッドの二輪車が並んでいるのが見えた。
「進ちゃんと姫はもう来てるみたいだな」
真寿美は震える指でドアの暗証番号を押すが、入力エラーで二度拒否された。
木津が真寿美の両肩に手を置く。
「落ち着け」
左手を添えながら一つ一つのキーを押し直す。最後の確認キーに、小さな電子音と硬質な機械音が返り、今度こそ施錠が解除されたことを二人に報せた。
ドアを押し開け、木津は通路に身を躍らせる。だがドアの閉じる音の後に自分の足音しか聞こえないのに気付き、振り返る。真寿美はドアの所に立ち尽くしたままだった。
「どうした?」
ほとんど聞き取れないほどの真寿美の声。
「……怖い」
「何が?」
答えはない。
木津は引き返し、真寿美の正面に立った。
「何が怖いんだ? まだどこか爆発するんじゃないかとか思ってるのか?」
「……そうじゃないです」
「じゃあ何だ?」
「……ディレクターが……」
と、真寿美は木津の拳に軽く頭を叩かれて首をすくめた。
「重傷だとは言ってたけど、それ以上は何も言ってなかったろ?」と言いながら、木津は真寿美の背中を押した。
「とにかく行くぞ。考えるのはその後でいい。ほら」
なおも鈍りがちの足取りの真寿美を引きずるように、木津は廊下を走った。
医務室の前には五人の影が沈黙のうちに寄り集まっていた。その一つが、近付く足音に気付き、沈黙を破った。
「木津さん、真寿美ちゃん」
「状況は?」と木津は紗妃に訊ねる。
「まだ何とも……」
今にもへたりこみそうな真寿美を紗妃の横に座らせて、木津は今度は阿久津に問う。
「どういうことなんだ?」
「当局の連中が帰って間もなくだ。爆発は執務室の中であったらしい。たまたまディレクター殿は部屋を出ていて直撃は免れたんだが、飛んできた壁やら何やらを背中にしこたま喰らってな」
木津は思わず自分の後頭部に手をやった。
「今、うちの連中と小松君に現場の調査をさせとる」
「うちのって、阿久っつぁんとこの?」
阿久津の目が険しい光を帯びた。
「……このタイミングの良さで、当局の連中にやらせられるか?」
木津は黙ったまま腕を組むと、医務室のドアを見つめた。
木津と同じように腕を組んで、安芸は壁に寄り掛かっている。その横で落ち着かない様子で両の拳を打ち付けている由良。その向かい、妹の横で腰を下ろした饗庭は目を閉じたままでいる。が、眠っているのでないことは時折唾を飲み込んで動く喉元からも分かった。
長く長く続く、廊下の灯火のほんの微かなちらつきさえも聞き取れそうな程の静寂。それを早足の靴音と、聞きつけて振り向く衣擦れの音とが破った。
近付いてきた小松が木津と真寿美に小さく頷くように会釈すると、阿久津に言った。
「A棟は全部チェック完了です。爆発物はなし。他の棟には部外者の立ち入りはなしです。監視カメラの記録から間違いないです」
「そうか……」
「A棟内でも、他のフロアへの影響はとりあえず無いようです。もっとも正確には検査が必要ですが」
「巻き添えを喰ったのはディレクターだけなのか?」と問う木津は、この場ではさすがにおばさん呼ばわりはしなかった。
小松が首を横に振った。「巻き添えじゃあない。こいつぁ明らかにディレクター殿を狙ったもんだ」
全員の視線が一斉に阿久津に集められる。その一つ一つを見返すと、言った。
「爆発の中心は執務室だ。その一つだけとっても証拠としちゃあ十分だ」
「『ホット』が直接久我ディレクターを狙った、ということになりますね」と安芸。
「え?」紗妃が面を上げる。「MISSESの指揮を執っていたのが久我さんだって、『ホット』は知っていたんですか?」
何故か言い淀む阿久津の代わりに木津が言った。
「そりゃそうだろ。ディレクターは当局に何度も顔を出してるんだし、あっちに面が割れてたところで不思議はないさ。ところで、事が起こってからどれぐらい経つ?」
阿久津が腕時計を見て答える。
「三時間……半ってとこか」
「長いな……」
そう言いながら木津はまた医務室のドアに視線を移す。と、かちりと小さな音を立ててそのドアが開いた。
他の視線も一斉に動き、姿を現した医師に注がれた。医師は天井を仰いで一つ息を吐いてから、徐に口を開いた。
「ひとまず生命に別状はないでしょう」
そこここから安堵の声が漏れた。
「ただ」医師が再び口を開く。「怪我自体はかなり厄介なものでした。ドアのガラスが粉々に吹き飛んだのを背中から後頭部にかけて浴びていまして、その摘出と止血に時間と手間が掛かりました」
木津はまた自分の後頭部に手を当てた。
「で、意識は?」と阿久津が訊ねる。
「じきに戻ると思いますが、鎮痛剤の投与もありますので、すぐに現場復帰という訳にはいかないでしょう。しばらくはこちらで経過観察ということになります」
「左様ですか……」と阿久津は応えると、翳りの差した顔に向けて言った。
「対応の体制を作らにゃあいかんな。とりあえずは場所を移すか」
阿久津の事務室に続く作業部屋。無骨な作業台は、八人が取り囲むと手狭であった。
椅子を携えて最後に部屋に入ってきた阿久津が、その様子を見てすまなそうに言った。
「窮屈で申し訳ないが、そういう部屋じゃないもんでな。我慢してくれや。それで、まずは誰がディレクター殿の代役を務めるかを決めておかんとな」
「その役目は阿久津主管がされるんじゃないんですか?」
紗妃の問いに、阿久津は首を横に振った。
「技術屋の儂が音頭を取るってのは、畑も筋も違うだろう。ここはアックス・リーダーに任せるべきなのかも知れんが、由良君は帰任命令が出とるそうだしな」
「それに戦略的指揮と戦術的指揮とでは違いがありますからね」と安芸が言った。「戦略的指揮者が現場に出てしまうと、判断が難しくなるでしょうから」
「難しいことはよく分からんが」阿久津が遮ったところに、木津の言葉が続く。
「難しいことなんかないだろ。要は奴を捜し出して叩いちまえば終わりなんだから。進ちゃんの言う現場の指揮者だけでいい」
「いずれにせよ誰かしら必要なことにゃあ違いあるまい。そう言えば、確か任務を継続するかどうか、お主たち自身で決めろと言われてるそうじゃないか。誰が残るか残らんかが知れんことにゃ、それも決めようがない」
阿久津は居並ぶ顔をぐるりと見渡す。
「一週間かけて決めろと言われとっただろうが、そう悠長なことも言っておれなくなったな。とりあえず今の時点で腹を括っとるのは誰と誰だな?」
迷うことなく五つの手が上がった。
その中には阿久津の、そして多分他のメンバーも予想しないものがあった。
「由良君……?」
末席に集まる視線。そこには決然と挙手を続ける由良がいた。
「でも由良さん、当局に……」
「当局には戻りません」と手を下ろしながら言い切る由良。「戻りません」
「どうして……ですか?」
訊ねた真寿美は、答える前に由良が歯を食いしばるのを見た。
「今までも組織の硬直や『ホット』との癒着を見せられてきましたが、今回のことは決定的です。当局にはもう……戻れません。いえ、もう戻りません」
「それで」と、聞いているのが辛くなったか阿久津が頭を振った。「小松君と饗庭君はどうするね?」
小松が迷いの表情を浮かべながら饗庭の方を見る。饗庭は目を閉じ腕を組んでいたが、その腕が解かれ、ゆっくりと挙げられた。
紗妃が思わず驚きの声を上げた。そして阿久津も木津も、さらには由良も、声こそ上げなかったが驚きを禁じ得なかった。
饗庭は黙ったまましばらく挙手を続けたが、やがて挙げた時と同じく静かにその手を下ろした。
「小松君は」阿久津が平静を装って言う。「負傷続きで体がきつかろう。無理はせん方がいいかも知れんな」
「いや」思わず小松は口走った。「そんなことはないですし、そうだとしてもこれで万事収まるなら問題ないですし、それに一人で静観しているのも悪いですし」
「何のことぁねえな」と木津。「結局全員参加か。おばさんも草葉の陰でさぞ喜んでるだろうぜ」
「今だから聞き流せる冗談ですね」真寿美が何か言いそうなのを見越して、安芸が苦笑しながら言った。
「それじゃあ、後はめでたくアックス・リーダーに任せて、こっちは裏方に引っ込ませてもらうとするか」と阿久津が腰を上げた。「VCDVも早いとこ組み上げちまわんとならんからな」
が、ドアを開けようとした阿久津の手が空振りする。外からドアが開けられ、一人の所員が顔を出したのだった。
「木津さん、いらっしゃいますか?」
「ああ」
木津が答えながら顔を向ける。
「今医務室から連絡がありまして、久我ディレクターがお呼びなのですぐに来て欲しいとのことでした」
「え?」
そこにいる全員が反応を示した。
「意識が、戻ったんですか?」立ち上がり、身を震わせながら真寿美が訊ねる。
「でも何で俺を?」
戸口に立っていた阿久津が木津の所まで戻ってくると、意味ありげな口調で促す。
「直々に言いたいことがあるんだろうて。ほれ、急いで行って来んか」
医務室の扉の前に立つと、ここに来るまでに山ほど湧いて出ていたはずの疑問符が悉く霧散してしまった。
インタホンのスイッチを押して名乗る木津に、中から抑えた声で入るようにとの返事。
ドアを静かに押し開けると、例の剽軽な看護婦が神妙な面もちで出迎えた。
「どうだい?」
「お待ちかねです。目を覚まされて、状況の説明を聞かれるとすぐに木津さんをご指名でしたから」
「そうか……」
「私は外しますから、何かあったらすぐにインタホンで呼んでください」
そして看護婦の指し示したカーテンの方に歩み寄ると、声を掛けた。
「入るぞ」
答えなのか呻きなのか分からないが、声が聞こえた。
カーテンを引いて、木津はベッドの脇に立つ。ベッドの上には、シーツを丸めて置いたような白一色の盛り上がり。だがよく見れば、その一端に包帯を巻かれ顔を木津と反対の側に向けられた頭部の存在が識別できた。傷の治療のために後頭部の髪は落とされてしまったのだろう。
「気分はどうだい……って、いいわきゃないよな、そりゃ」
答えはなかったが、横たえられた頭部がわずかに動いた。
「しかし『ホット』も随分と派手な真似をしやがるぜ。あんたも災難だったな」
「……いいえ」
しわがれきった声ではあったが、その応えははっきりしたものだった。
「いいえ、あの子に比べればこんな……」
「あの子?」
問い返す木津に答えは返らない。だが一時たりとも忘れはしなかった名が木津の口をついて出た。
「まさか、七重のこと……か?」
久我が微かに頷いたように見えた。
「やっぱり知ってたのか」と言いさして、木津は気付いた。「でも何であんたが七重を『あの子』だなんて呼ぶんだ? まさか知り合いだったのか?」
向こうを向いたままで久我は答える。
「七重は……相馬七重は、私の従妹でした」
「従妹?」
そう言えばそんなことがあったかも知れない。自分自身はメカニックにてんで疎い七重が、その方面に強い従姉がいると言っていたようなことが。
「従妹……か」木津は繰り返す。「そうか……知り合いどころか血縁関係だったとはね。てことは、順調に行ってりゃ、あんたとは親戚になってたんだ。結構笑えるかもな」
だが笑いはせずに、脇からスツールを引き寄せると、木津は腰を下ろした。
「それじゃあ、あんたにとっても『ホット』は従妹の仇だったってわけか。で、そのためだけにVCDVだのMISSESだのって大掛かりなことをしたんじゃあるまいな?」
「それだけではありません」
「まあそりゃあそうだろう」
「いいえ」
久我の否定に、木津は思わず見えない久我の顔を見ようとした。久我は顔を向こうに向けたまま続ける。
「いいえ、あなたの思っていらっしゃるのとは違います。あの子の、七重のためだけではありません」
そう言って久我は寝返りを打とうとしたが、体は思うように動かない。木津が止めた。
「無理するな、俺がそっちに行くから」
スツールを片手に立ち上がった木津を、今度は久我が止めた。
「いえ、そのままで……」
「どっちなんだ」木津は苦笑する。
「そのままでお願いします」と久我。その声は少し震えを帯びている。「きっと、私は醜い表情を見せてしまいますから」
久我らしからぬ台詞にとまどいながらも、木津は再び腰を下ろし、黙って次の言葉を待った。
続いたのは、沈黙。
木津は横たわる久我の後ろ姿を、頭に巻かれた包帯を見つめ、それが動きを見せるのをひたすらに待った。が、動きはない。
「無理するな」木津は言いながら立ち上がった。「手術の後だ。また今度聞かせてくれ、体調がそこそこ戻ったらな」
「待って」
敬語を交えない久我の口調が、踵を返しかけた木津をもう一度振り返らせた。
「七重のためでは……ありません」
立ったまま木津は久我の背中を見下ろす。布団の中にあってさえ、それが強ばっているのが感じられた。
「私自身のためです」
「あんた自身の?」木津は腰掛けるのも忘れて言った。
唾を飲み込む久我。呻きが漏れる。
「痛むか?」
久我はそれには答えなかった。
「お気付きかも知れませんが、私個人として『ホット』とは面識があります。いえ、面識以上のものがありました」
「まさか奴も親戚だなんて言うんじゃあるまいな?」
「あの人は、かつて私の同僚であり、競争相手であり、そして……夫でした」
「夫?」
木津は思わず素頓狂な声を上げていた。しかし久我の声は不思議な程冷静だった。
「でも、今のあの人は壊れています。そうさせてしまったのは私かも知れません」
木津はやっと腰掛けると、身を乗り出してその意味を訊ねた。
「私とあの人は、同じ所で共に特殊車両の研究開発に携わっていました。お互いに方向の違うものを目指して競争心を持ちながら、相手の能力を認め合っていました。ただもう一つ違ったのは、あの人が私に認めていたのが、技術者としての能力だけだったということです。人間性でも、女であることでもなく」
言葉が切れたが、木津は何も言わない。その顔は少し久我の背中から背けられていた。
「私たちが結婚して間もなく、研究の審査があり、今のVCDVにつながる私の試案が公式に採用されることになりました。その時の対案だったのがあの人の案件でした。詳しい内容は知ることが出来ませんでしたが、あの人の口振りから私の技術を踏み台にしたことは伺えました」
「それで臍を曲げたのか」
「でもそれは尋常ではありませんでした。踏み台にしたつもりの相手に敗れ、しかもその相手と既に意味もないのに一緒に暮らしているということも精神的な負担になったのでしょう。それ以来あの人は自分を受け入れないもの全てに極端な反応をするようになりました。その一方で続けた研究は道を外れ、一般には受け入れ難いものになっていきました。それが受け入れられないことでまた……」
「悪循環ってやつだな」吐き捨てるように木津は言った。「その腹いせに馬鹿どもを集めて騒いでたのか。元女房のあんたにゃ悪いが、ガキだな」
「そうですね……」久我がつぶやく。「どうしようもない子供だったんです。人の想いを酌むことが出来ないほどの、それどころか人の全てを否定してしまうような子供」
「でも、それだけか?」と木津が訊いた。「あんたが元亭主を追いかける動機にしちゃあ、ちょっと弱い気がするんだが」
久我は明らかに答えあぐねていた。が、顔を隠すかのように身を強ばらせると、今までよりも明瞭さを欠いた口調で語り始めた。
「あの人が私の全てを否定するために選んだのが、七重でした」
「え?」
久我はまた言葉を切る。だが木津もその先の想像がついたのか、先を促しはしなかった。
「あの人は、一度私たちの所に顔を出したあの子を見て、おぞましい感情を抱くと同時に私への意趣返しを目論みました。私の前で露骨にあの子の気を惹こうとしたんです。私が止めてももちろんそれは聞き入れようとはしませんでした。それどころか、やり口はエスカレートする一方でした。そうやって、あの人は私の感情を踏みつけにしました」
また言葉を切った久我は、自嘲を感じさせる口振りで言った。
「きっとあなたはそんなものがあるとは信じられないでしょうが、女としての私の感情を、そんなやり方で踏みつけたんです」
木津は両膝に肘を突いて頭を垂れた。
「つまりは饗庭の兄ちゃんの読み通り、あんたも私怨で動いてた、と。しかもとことん感情的なもんで」
「否定は……しません」
「で、七重は?」
「あの子も最初は冗談だと思っていたようですが、あまりに露骨になるので、ある日はっきりあの人に言って断りました。自分には既に先を約した相手がいる、と」
木津のスツールが軋んだ。
「……その後の顛末はあなたご自身が体験された通りですが、きっと裏側の真実はご存じないでしょう。あれは、あなた個人を狙ったものでした。あの人は七重の言葉に出てきた相手が誰であるかを調べ上げ、そして排除しようとしたんです」
無意識に片手を後頭部にあてがい、木津はあの日のことを思い出した。
マシンのことなど分からないくせにピットまで降りてきて、横でにこにこしながら俺の作業を見ていた七重。コースへマシンを出す時も俺の後ろに続いて。
そこに無人の小型トラックがマシンめがけて突っ込み、マシンに乗り上げて止まる。
何を思ったのか、先に逃がしたはずの七重が俺の背中に回った。
「仁! 逃げて!」
その声が爆発音にかき消される。
首筋に破片を浴びた痛みよりも、吹き飛ばされのし掛かってきた七重の体の軽さの方が遙かに痛かった。
かき抱いた七重はただ目を閉じているようにしか見えなくて、でも背中に回した手にはぬるぬるとした血の感触があって、呼び掛けには応えることがなくて。
「何で……? 何で七重がこんな? 何で俺が……?」
呆然と繰り返す俺に応えるかのように、ホット・モーター・ユニットの爆音が。はっとして振り向くと、この一件を見届けて悠然と去っていく、そんな車の影が遠ざかる。
俺は直感した。あの「ホット」が……
「その後間もなく」という久我の声に、木津は我に返った。「あの人は研究所と私の許を去りました。あの事件の捜査の手があの人に伸びたわけではなかったのですが」
「あんたが告発するってのは考えなかったのか? やったのが旦那だってことは分かってたんだろ?」
久我はそれに答える代わりに言った。
「あの事件は、私が行動を起こすきっかけになりました。あの人を止める行動の」
だがそこで久我は口ごもる。
「あの人が狙っていたのはあなたです。でも死んだのは七重だった。あの人自身の行動の結果がそれだったのに、あの人は七重の死の原因があなたの存在にあると思っています。私に対してこのような手段を用いて来たということは、あの人は、次はあなたの命を奪う気でいるはずです。しかも、恐らくは私の技術理論を使って」
「あんたの理論って、つまり奴もVCDVを持ってくるってことか?」
久我は頷いた。
「上等じゃないか」簡単に木津は言った。「受けて立つまでさ。どうやら話がとんとん拍子に進みそうで、うれしいじゃないか」
「……お怒りに、ならないのですか?」
いきなりの久我の問いを、木津は理解できなかった。
「何を?」
「もうお分かりでしょう、私があなたをここにお呼びした理由が」
「ああ、あんた自身の仇討ちのためだろ? それがどうした?」
「私は、あなたを利用していたんです。私怨のために、自分が直接手を下せない復讐のために、あなたの感情を利用していました」
「だったらそういうことにしておけばいい」と言う木津は穏やかな顔をしている。「あんたがどう考えていようが俺には関係ない。俺は俺で奴に七重と、そして俺自身の復讐をする。それだけのことさ。それがたまたま結果としてあんたの復讐になるなら、あんたにしてみりゃ棚から何とかってやつだろ?」
そして木津は久我の背中に笑い掛けた。
「それだけのことさ」
が、久我の背中が急に震え出した。木津は掛けようとした声を呑んだ。震えは次第に、そして明らかに嗚咽になっていった。その中からか細い声。
「……ごめん……なさい」
木津は立ち上がって笑った。
「思い上がるなよ」
そしてベッドを回ると、久我の正面に立った。久我は布団に顔を埋めたが、震える肩は見えない表情を代弁して余りあった。
だが木津は笑顔を崩さずに言った。
「あんたの感情と理論と機体は利用させてもらうさ。だがな、けりを付けるのは俺だ。あくまで俺が、俺自身の考えと俺自身の手でな」
震えながらも久我は布団の中で頷いた。
「しかし」と、木津が言った。「俺と同じ所に同じような傷を同じ相手から喰らうってのも因果なもんだな」
木津は布団の、久我の頭の埋まっている辺りに手を伸ばす。が、何にも触れずにその手を引っ込めた。
「まあいい」
そして踵を返すと、振り返って言った。
「あんたはせいぜい養生してろよ、久我さん」
戻ってきた木津に、真寿美が真っ先に問いを発した。
「ディレクター、どうでした?」
見回せば無言ながら同じことを問うている視線がいくつも木津に注がれている。
「大丈夫だ。長話できる程度だから」
「何の話だったんですか?」
それには答えず、木津は阿久津に言う。
「リーダーの件だけどさ、俺がやったんじゃまずいか?」
由良が木津を見た。ちらりとそれを見返すと、木津は続ける。
「リーダーでも囮でもいいから、とにかく俺が陣頭指揮を執ってれば、奴は黙っちゃいないだろうさ。こっちが黙ってても、奴は必ず来る。請け合うぜ」
不安そうな面もちの真寿美。その横から紗妃が訊ねる。「どうしてですか?」
木津はにやりと笑う。
「涼子ちゃんの霊感。あれって良く当たるだろ?」
「涼子ちゃん?」思わず安芸が声を上げた。
「あれ? 違ったっけ、ディレクターのフルネーム」
「いえ、合ってますけど……」
「で、どうだ?」と木津は全員を見回した。
「儂は反対だな」阿久津が言った。
「どうして?」
「お主は『ホット』だけを相手にしとりゃよかろうがな、こっちにもあっちにも他のメンバーがおる。そっちはどうする?」
「んじゃリーダーは遠慮しとく。その代わり囮の役と奴の相手は譲らないぜ」
「仁さん」
一旦帰宅する車の中で、真寿美が助手席の木津に呼びかけた。
「ん?」
「囮って、どういう意味ですか?」
「相手を誘いよせ、おとしいれるために利用するものや人。以上国語辞典の定義より」
「そうじゃなくってですね」
乾いた笑いと共に真寿美は切り返すが、その後どちらからも言葉はなかった。
真夜中を過ぎてもまだ「内橋」からは都市区域の華やかな灯火が見て取れる。
「仁さん……」と再び真寿美。
「何じゃいな?」
「危ないことしちゃ駄目ですからね」
木津は答えない。
「駄目ですからね」繰り返す真寿美。
木津はにやりと笑い、真寿美の頭を掌で軽くぽんぽんと叩いた。
「結婚、するつもりだったんだ、七重とは」
「今でもですか?」
特に動揺した様子もなく問い返す真寿美だったが、言ってみてから慌てていた。
「あ、ごめんなさい、変な意味じゃないんです。ぼけっとしてました、ごめんなさい」
木津もぼんやりと答えた。
「どうなんだろうな……」
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