Chase 26 - 爆破されたLOVE

 
 その日は朝から気温だけはそこそこ高いものの、薄曇りのどこかすっきりしない空模様だった。
 朝食の後片付けを終え、一通り身支度も整えた真寿美は、開いた窓からもう一度空を見上げた。そこにあるのは起き抜け一番に見上げたのと何の変わりのない空だった。
 今朝の天気予報は、これも昨夜からの予報と何等変わりなく、今日一日このまま良くも悪くもならないと言っている。
 せっかくの日なのにちょっともったいない気はするけど、まあいいか。雨に降られるんじゃなければ、そうは変わらないし。それに今日の本当の目的は、天気なんか関係ないし。
 窓を閉め錠を下ろすと、真寿美はテーブルへととって返した。そこには弁当箱が三つ、蓋をされ包まれるのを待っている。
 その中身を真寿美はもう一度確かめた。その口から小さく「よし」という声が漏れる。
 弁当箱一つ一つに丁寧に蓋がされ、重ねられると、カラフルなナプキンに包まれた。さらにそれを籐のバスケットに入れると、クローゼットの姿見の前に立ち、自分を包む服の方を確認した。木津にどこのお嬢様かと言われた秋の時とは違って、今日は若草色の七分袖のブラウスにストーンウォッシュのデニムのパンツ、肩に羽織っているのはオフホワイトの目の粗い薄手のセーターという軽快な出で立ちである。今度はどこのお子さんかとでも言われるだろうか。
 真寿美の口から再び「よし」が漏れた。それを合図に、弁当入りのバスケットといつものショルダーバッグ、そして玄関口のフックから車のキー・カードを取り上げると、真寿美はドアを開いた。
 いつものようにエレベーターには乗らず、部屋のある三階から地下の駐車場までを、階段で弾むように駆け下りる。パステルイエローの小さな車体は、昨夜の帰りに洗車を済ませたこともあって、埃一つかぶっていない。
 真寿美はドアを開け、後ろのシートに荷物を入れると、運転席に小さな体を滑り込ませ、エンジンを始動させた。
 

 同じ曇り空の下、木津のアパートに向かって真寿美が車を走らせている頃、工場区域の端を目指して走る車の列があった。
 この季節にあってさえどこかしら荒涼としたものを感じさせる廃工場やその跡地を抜け、見るだけで何者かの見当が付きそうな黒塗りの二台と、後に続くワゴン車は、やがてその施設が活動していることを伺わせる、車の多く停まる駐車場の横を抜け、いささかくたびれたビルを後ろに控える「特殊車両研究所」の表札を掲げた門をくぐって止まった。
 門の脇、守衛所の前に立っていた一つの人影が、それを認めて頭を下げた。
 グレーのスーツに身を包んだその女は、久我涼子であった。
 先頭の車から降り立った三人の男たちは、この出迎えにいささか驚きを禁じ得ない様子ではあったが、しかし久我の礼に応えることはしなかった。
 リーダー役を務めるにはやや若すぎるように見える男が、紋切り型の台詞と共に捜査令状を取り出して久我の鼻先に突き出した。
 その内容に目を通すでもないまま、久我もまた紋切り型の台詞で男たちを迎え入れる。そして客用駐車場の場所を指し示した。
 二番目に立っていた男が振り返り合図をすると、三台の車が順に駐車場に向けてゆっくりと走り出す。
 久我はその様子にほんの少しだけ遣った視線を戻すと、全く感情のこもらない口調で再度来訪を労う言葉を口にした。男たちは今まで当局では会ったことのない者たちばかりだったが、久我の落ち着き振りに一様に戸惑いを覚えているようだった。
 久我の目がわずかに動く。後続の車の乗員たちのうち何人かが小走りに駆け寄ってきた。
 「ではご案内申し上げます。こちらへ」
 振り返る久我の醸し出す雰囲気に圧倒されたか、気後れさえ感じられる一団は押し黙ったままその後について歩き出した。
 

 何度来ても分かりにくい場所だと真寿美は思う。ナヴィゲータ画面からの案内があるからいいようなものの、そうでなければ今日のように昼間に来ても必ず迷っているに違いない。表通りから入って小さい角をいくつ曲がったことか。そしてようやく目標の建物が姿を現した。
 明るいうちに来るのは初めてだったが、その建物のみすぼらしさを見て真寿美は唖然とした。思わずナヴィゲータの画面を見て場所が間違っていないかと確認してしまった。しかしどうやら間違ってはいないらしい。確かにあんなエントランスだったような気がしなくもないし。
 幅のあまり広くない道の端ぎりぎりに車を寄せて降りると、真寿美はエントランスに入る。管理人室の窓は閉め切られ、もう何ヶ月も開けられたことがないようだった。一応はまともに動いているエレベータに乗って、木津の部屋のある階へ。
 隅に砂埃の溜まった廊下を歩き、目的の部屋の前で立ち止まる。表札は出ていない。少しだけ躊躇したが、多分間違ってはいないだろう。真寿美はドアチャイムを押した。
 応えはすぐに返った。
 「入ってます」
 返す言葉に詰まった真寿美はその場に呆然と立ち尽くす。と、ドアが開いて木津が顔を出した。
 「何を朝から飛んじまってるんだ?」
 「……仁さんのせいですよぉ!」
 「よし、じゃあ行くか」
 「うやむやにしないでください」
 笑いながら走り出す木津を真寿美は慌てて追った。
 エレベータ・ホールの前で追いついてきた真寿美に木津が言う。
 「しかし、今日はまた秋の時と全然違う格好してきたな。どこのお子さんかと思った」
 「あ、やっぱり」
 「何が?」
 エレベータのドアが開く。
 「そう言われるんじゃないかって思ってたんです」
 「承知の上だったのか」と、乗り込みながら木津。「でも、そっちの方がいつもの雰囲気に近いんじゃないか?」
 「お子さま風が、ですか?」
 「厳密に言うと少し違う」
 「大まかに言うと合ってるんですね?」
 「真寿美、おまえ突っ込みを覚えたな」
 ドアが閉じ、ゴンドラがゆっくりと降り始めた。
 「で、厳密に言うと?」
 「有無を言わせないし……」苦笑いの後、木津は言葉を継いだ。「そんな格好してる方が、いつも元気にぱたぱたしてそうで真寿美っぽいってことさ」
 「えーと……今のは」
 「ほめてると受け取っていいぞ」
 真寿美は屈託のない笑顔で言った。
 「ありがとうございます」
 軋りながらドアが開く。エントランスの向こうには、空を映した小さく丸い車体がつやのない黄色を覗かせている。
 

 最初に姿を見せた三人がソファに腰掛け、残りの男たちはその背後に立つ。見る者に威圧感を与えるはずのその様に、たった一人向かい合って座る久我は怯む様子も毫も見せることはなかった。むしろいつもとは勝手が違うことに更なる戸惑いを覚えているのは、捜査官たちの方だった。
 捜査令状をテーブルの上に拡げると、リーダー役の捜査官が口を切った。
 「この通り捜査を執行します。ただ、強制捜査ではありません。基本的には当方の要求する資料その他を任意提出していただく形になります」
 「基本的に、とは?」
 急に切り出された問いに、捜査官は一瞬口ごもると、答えにならない答えを返す。
 「字義通りの意味です」
 「お続けください」
 無表情の久我に促され、捜査官は用意された原稿を読むような調子で言葉を継いだ。
 「ただし一部資料に限っては任意ではなく必ず提出していただきます。拒否される場合は強制執行に切り替えます」
 「結構です」
 同じく無表情な声で久我が割り込んだ。思わず言葉を切った捜査官が久我の顔を見る。だがそこには声同様何の表情も見出だせない。
 「ところで」と、腰掛けた内の二番目の男が口を挟んだ。「本日ご協力いただけるのは、久我さんお一人だけですか? 相当量の物件をご提出いただくことになるのですが」
 「これまで当局の捜査支援に当たっていたMISSESの全ての記録は、資料化されていないものを含め私が管理しています。特に人手を介する必要はないと思います」
 「資料化されていないものもあるわけですね?」
 掛けたカマに見事に食いついてきた捜査官に、久我は応える。
 「いくつかあることは否定致しません。もしお求めの物件にそうしたものがあったら、いかが致しますか?」
 ソファに座った三人目の男、前の二人よりは幾分年嵩の、恐らくは二人を監督する役目を担って来ているのであろう男が言う。前の二人とは違う低い声で。
 「資料化されていなくても何らかの形で記録は残されているはずですね?」
 「記録というのは、厳密に言うと少し違います」と久我。「記憶に残っているだけです」
 「記憶?」若い方の二人が鸚鵡返しに。だが年嵩の男は冷静だった。
 「有形の記録は全て抹消済みということと理解しますがよろしいですね?」
 「それは正しくありません」はっきりと久我は応える。「抹消したのではなく、最初から記録していないだけです」
 「その真偽は強制捜査によって確かめさせてもらいます」
 「結構です」という久我の応えは、今までの無表情ではなく、どこか余裕めいたものを感じさせた。「ですが、その前に御要望の物件を御呈示願えますか?」
 左右からの視線に急かされるようにして、二番目の捜査官は鞄から一冊の薄いバインダを取り出すと、開いて久我の前に出した。それと同時に、捜査官たちの視線が一斉に久我に注がれる。
 バインダを受け取った久我は、その中の三ページばかりのリストに一通り目を通すと、顔を上げて視線を真っ向から受け止め、何の感情をも交えずに言った。
 「大半は御期待に添えるものと思います」
 「全てではない?」
 「残念ながら一部有形で残されていないものがあります」と言う久我はもちろん残念そうな素振りなど微塵も見せてはいない。
 「どの物件が該当するか教えてください」
 そう求めた二番目の捜査官は、久我がこちらに向けてバインダを差し出すのに気を取られてか、内ポケットから取り出したペンを床に落とした。屈み込む男の代わりに、最初の捜査官が自分のペンを手に久我に対した。
 

 休日ならば一苦労どころでは済まないはずの駐車場への入場も難なく済ませ、真寿美と木津は車を降りた。
 車の屋根越しに聳える珍妙な建物の群を見て、木津は言った。
 「もしかしてここって遊園地ってやつか?」
 「もう少しかわいい言い方もあるんですけど」と苦笑いしながら真寿美。「それでも大体合ってます」
 丁度やってきたエントランス行きのカートに木津を押し込んで、その後から真寿美が飛び乗った。
 徐々に近付く構造物を眺める物珍しそうな顔の木津に、真寿美は訊ねる。
 「ここは初めてですか?」
 「こういうところ自体初めてだ」
 「ほんとですか? だって……」
 言いかけて、しまったという顔をする真寿美。だが木津は後半を聞かなかったような返事をした。
 「ほんとほんと。だからお手柔らかに」
 真寿美は一転いたずらな笑みを浮かべる。
 「いーえ手加減しません。腰が抜けちゃうまで遊んでもらいます」
 「……今の台詞、何か卑猥だぞ」
 「はい、今の発言はセクハラです。ペナルティ加算しますからね」
 そう言いながら真寿美は木津の背中をどんどんと叩いた。
 「ど、どうしたんだ真寿美? おまえ今日異様に戦闘的じゃないか?」
 「お子さまはこういう場所では戦闘的になるんです。それに、行き先を任せてくれたのは仁さんですからね。覚悟してください」
 木津は自分の顔に浮かぶ笑みが引きつっているのに気付いた。
 やがてエントランスの脇に止まったカートからさっさと飛び降りると、真寿美は振り返り木津に言う。
 「チケット買ってきますから、そこでおとなしく待っててください。はしゃいでどこか行っちゃだめですよ」
 「へいへい」
 何歩か歩き掛けて真寿美はくるりと向き直り、木津がその場を離れずに煙草をくわえたのを見て頷き、再び向きを変えると駆け出した。
 あれは本当に子供だな、そう木津は思いながら遠ざかる後ろ姿を眺めた。が、それが行列の中に埋もれて見えなくなると、木津の思考は別のものに奪われる。
 奴も今度こそ本気で来る、か。おばさんの読み通りに運べば御の字ってところだな。そう言えば、おばさんが奴について言ったことが完全に外れるというのは、これまでなかったんじゃないか。信用しておけば二年越しの決着を付けられそうだ。二年越しの……
 木津は天を仰いだ。あれからもう二年になるのか。何もかもが暗転してしまった一年と、それを覆そうと動き続けた一年。その一年が終わったら、その後は…… 殺人犯扱いになるのか死体になるのか、どっちにしたって明るい未来じゃないな。それに何より、あいつが帰ってくるわけじゃない。そう思うと、皮肉な笑みがこみ上げてきた。仇討ちの終わりは、生きていようが死んでしまおうが、俺の終わりでもあるみたいだな。
 と、唇の煙草の感触が不意に消えた。我に返ると、片手にチケットを、もう一方の手に木津のくわえていた煙草を持って真寿美が立っていた。
 「何ぼんやりしてたんですか?」そして答えは聞かずに「ぼーっとしてると、これ鼻に差し込んじゃいますよ」と煙草を木津の顔に近付けた。それを奪い取ると木津は言う。
 「あのー、真寿美さん、あなた本日戦闘的なのを通過して凶暴なのでは?」
 「はい、それに気が付いたら行きましょう」
 「分かった分かった! 分かったから引っ張るなって!」
 

 物件の提出は順調に行われつつあった。
 久我は自らの言葉通り、提出必須とされたものを含め、要求された有形の資料を自分一人で揃え、捜査官たちに確認させた。そして最初にソファに腰掛けた三人の指示に従って、残りの捜査官たちが資料を決して丁寧とは言えないやり方で次々と梱包していった。
 立ち働く捜査官たちには目もくれず、久我は呈示されたリストを見ては列挙された資料を次々に出していく。そうして昼前にはリストのほとんどに収集済みのチェックが入った。
 年嵩の捜査官がバインダを手にとってページを繰ると、それ毎に上から下まで、まるで記録されている事実以上のものを読み取ろうとでもするかのように、あるいは次の攻め方を思案しているかのように見入った。
 久我はそれを黙ったまま見つめている。
 資料の詰め込まれた箱を運び出す音を背景に、その沈黙は昼休みのチャイムが鳴っても続いた。
 やがて最後のページを見終えた捜査官は、最初のページを開きなおすとバインダをテーブルに置いて言った。
 「ここまではご協力に感謝します」
 感情のこもらない謝辞に頭を下げた久我は、それ以上に感情のない言葉を返した。
 「お続けになりますか?」
 言われて捜査官は腕時計に目を遣ったが、それは明らかに次の台詞を引き出すためのジェスチュアでしかなかった。
 「いや、もう昼も回ったようですし、一旦ここまでにしましょう」
 「こちらの食堂でよろしければご案内差し上げますが」
 「お願いしましょう」
 

 真寿美は腰を下ろすと、持参のバスケットから取り出した包みをテーブルの上で開いた。姿を現す三段の弁当箱。上から順に蓋を外され、少しふらつきながら座り込んだ木津の前に並べられる。
 「結構しんどいもんだな」
 「朝ご飯食べてないからですよ」と満面の笑みを浮かべて真寿美が言う。「そう思って、がんばって作って来ました」
 「はい、ありがたくいただきますです」
 深々と頭を下げる木津を、真寿美が慌てて止めた。
 「だめーっ! お弁当箱に顔を突っ込まないでくださいっ!」
 すんでの所で止められた木津は、顔を上げるとサンドイッチを一つ摘み上げた。
 「でもしんどいのは別の理由だぜ」
 アイスティーを注いだカップを差し出しながら、問い掛けるように眉を上げた。
 「自分でコントロールしてるんじゃないと、どうにも不安でさ。予想外の横Gとか加減速ってのは……」
 そう答えると、木津はサンドイッチを一口に頬張った。
 真寿美の眉がまた訊ねるように上がる。動く木津の顎を見る目。
 木津は言葉を発する代わりに、おかずの箱に置かれたフォークで細工切りをされたウィンナーを突き刺して、サンドイッチを飲み下したばかりの口へと運ぶ。
 どうやら答えを待つ必要はなさそうだった。
 「でもVCDVに比べたら全然大したことないじゃないですか。それでもだめなんですか?」
 「大小の問題じゃなくて、体が動きに前もって反応するかどうかだからさ」
 「先に構えてちゃスリルがないですけどね」真寿美は笑いながら、自分もサンドイッチを一切れ取り上げた。「それじゃ次はおとなしめのにしましょうか?」
 

 他の捜査官たちを資料と共に先に当局に戻らせた後、執務室に残った例の三人は、それまでと同様にソファに陣取り、コーヒーとその淹れ主とを前に、慌ただしくペンを動かしたりキーボードを叩いたりしている。
 そんな様子と相俟って、そこは一種事情聴取の場のようになっていた。
 専ら質問を浴びせてくるのは年嵩の男。だが久我はいずれの質問に対しても淀むことなくはっきりと答えていく。
 やがて想定していた質問が尽きたのか、男は途切れた質問の合間に若い二人に視線を遣る。二人はややあってそれぞれに手を止めると、視線でそれに応えた。
 年嵩の男が倦んだように久我に告げた。
 「ここまでに、誤りはありませんね?」
 「ありません」久我は静かに、だがきっぱりと答える。
 「それならば結構です」と捜査官。「お尋ねする内容は、今回は以上です」
 「今回は、ですか?」と訊ね返す久我の口調は疑義を含んだものではなかった。
 「証拠分析の結果如何では、追っての調査にご協力いただくこともあり得ます」
 頷く久我に、いきなり世間話のような口調になって捜査官が言った。
 「ところで、VCDVの実物を拝見させて頂きたいのですが? 特一式は知っていますが、他のモデルがどんなものかも、捜査の予備知識的に知っておいた方が有利ですから」
 「残念ながら」今度は久我が想定済みの台詞を切り出す番だった。「現在全車両が解体整備作業に入っています。捜査支援の任を解かれた今がいいきっかけでしたので」
 「なら仕方ありません」
 この言葉で、若手二人が手元の道具を片付け始めた。今の話が世間話などではなかったことをそれが裏付けてしまっていた。
 若手二人が、そして年嵩の男が立ち上がる。
 「では以上とします」と、今日最初に話を始めた若手の一方が言う。「失礼します」
 「では表までお送り致します」
 久我が腰を上げ、三人をドアの方へ導いた。
 

 薄暮の中、決して多くはない園内の人波は、それでも鎮まることを忘れたかのようにさざめいていた。
 「来ました!」
 真寿美が少女のように目を輝かせる。その指差す方を見ると、華やかな電飾と軽やかな音楽を伴って、マスコットキャラクターやら何やらを満載した山車がゆっくりと近付いて来る。
 周囲にははしゃぐ子供の声。手を繋ぎ、腕を組みあるいは互いの体に回して立つ男女。
 そんな中にあって、木津と真寿美は言葉を交わすことも相手に触れることもなく、山車を見つめていた。
 

 執務室のドアが開く。
 入ってきた久我は特に疲れたような様子も見せず、応接のテーブルへと歩み寄ると、そこに置かれたままになっていた押収物件一覧の写しを手に取り、そのままソファに体を預けるとページを繰った。
 その選定が当局独自の発案によるにせよ、「ホット」の入れ知恵によるものにせよ、それらの物件は押収され分析され、その場でどう曲解されたところで、MISSESに、そして久我の行動に何等の影響を与えるようなものではないはずだった。
 写しを揃え直してテーブルに置き、久我は一つ息を吐いた。
 恐らくはこれであの人の初手を封じることは出来ただろう。だが今日の感触では、あの人がこの捜査の結果に何かを期待しているようには思えなかった。これは次の手段への単なるステップに過ぎないのだろうか。だとすれば、次に講じられる手段とは? それが力を以ての直接的な手段であれば、それに応じるという形で、今度こそあの人を完全に止めてしまうことが出来るだろう。ようやくあの人の振りかざす狂気の矛先をこちらに向けることが出来たのだから。あとはこれまでの二年近く復讐に餓えてきたあの男をあの人に向けて放ちさえすれば、それで全ては終わるはずだ。あの男の復讐と共に、私のそれも。
 ふと久我は喉の渇きを覚えた。思えば今日は振舞いはしたものの、自分自身は全くコーヒーを飲んではいなかった。
 テーブルの上には、聴取に残った三人が使ったコーヒーの簡易カップが、片付けられないままに並んでいた。
 コーヒーメーカーに目を遣る。サーバーの底にわずかに残ったあの分量では、一杯分にも満たないだろう。峰岡がいれば、こういうことはないのだが。
 腰を上げた久我は、使用済みのカップを三つ重ねて屑物入れに落とし込み、コーヒーメーカーから下ろした空同然のサーバーを片手に、執務室を後にした。
 

 残る車の影もほとんどなくなった夜の駐車場に、二人が乗ったカートが静かに停まった。
 降りるなり木津はげっぷを一つ。
 「やだ、仁さん」
 真寿美の声に木津は身構えたが、予想していた攻撃はなかった。
 「おいしかったですか?」車へと歩を進めながら真寿美が訊ねる。
 「今日の昼飯にゃ負けるけど」
 「そういうことにしておきましょう」
 「あ、かわいくねーの」と言いながら、木津は真寿美が昼間見せた攻撃性が影を潜めてしまっているのに気付いた。
 だが木津は、そしてまた真寿美も何も言わず、車の場所へと歩き続けた。
 やがて視界に入った見慣れた車体は、がらんとした中に取り残され、遠い照明にぼんやりと黄色い影を浮かび上がらせていた。
 助手席のドアの前で真寿美が立ち止まり、木津へと向き直ると言った。
 「今日は楽しかったですか?」
 「ああ、おかげさんで」答える木津は、事実満更でもなかったという顔をしている。
 「よかった。あたしも楽しかったです」そして少し面を伏せ気味に続けた。
「仁さん、今日のお礼を言いたいんですけど」心なしか早口だった。「でも、その前にもう一つだけお願いしてもいいですか?」
 「ああ」と答える木津の怪訝そうな表情は、陰になってはっきりとは見えない。
 真寿美はうつむいたまま言葉を続けない。
 「どうした?」
 「すごくわがままなお願いなんですけど」
 「だから何さ?」
 「……あの、ですね」ようやく顔が上がる。「仁さんが、七重さんのこと忘れられないのは分かってます。だからずっととは言いません。ただ一分、ううん、十五秒だけでいいですから……」言葉の最後は絞り出すようだった。「恋人の役を、やらせてください」
 木津が返事を出来ずにいると、真寿美がまたうつむいて、ぽつりと言った。
 「……ごめんなさい、変なこと言って」
 そして木津に背を向けると、運転席の方へと早足に歩き出す。
 が、その肩を木津がつかんで止めた。
 真寿美の体が舞うように翻った。
  その両腕が木津の首に回され、肌と肌が触れ合う。
 真寿美は木津の目を正面から見据える。
 「いいん……ですか?」
 木津は自分がかすかに頷いたような気がした。そして次の瞬間、自分の唇が真寿美の唇に塞がれるのを感じていた。それは木津にとっては、二度と記憶の中から呼び覚まされることはあるまいと信じていた感触であり、また記憶の中にあるのと変わることのない感触だった。
 やがて唇は離れていったが、巻き付けた腕はそのままに、真寿美は木津の胸に頭を凭れかけさせていた。
 そこに小さく聞こえた電子音に、真寿美ははっとしたように木津から体を離した。
 「十五秒計ってたわけじゃないよな?」
 「いいえ、電話です」答える真寿美は顔を曇らせている。
 「電話?」
 真寿美は車のドアを開けると、計器盤に組み込まれた電話の表示を見た。
 「研究所から……?」
 「何かあったな」と、ドアから木津も半身をねじ入れてくる。
 受信のボタンを押し、真寿美が名乗ると、向こうからは聞き慣れた声が、聞き慣れない口調で呼びかけてきた。
 「おお真寿美ちゃん、やっとつかまった!」
 「阿久津主管?」
 「阿久っつぁんだって?」
 「仁ちゃんも一緒か、そいつぁ助かった」
 「何か、あったんですか?」
 興奮気味に阿久津は答えた。
 「え、え、え、え?」
 狼狽する真寿美。
 そして木津は阿久津の言葉を理解することが出来ずに聞き返した。
 「何だって? 阿久っつぁん、もう一言ってくれ。何があったって?」
 「いいか、落ち着いて聞けや。久我ディレクターの執務室で爆発があった。ディレクターは重傷で、今医務室で手当を受けとる。他のMISSESの面子には連絡済みで、みんなこっちに向かうと言っとる。おまえさんたちも出来れば急いで来てくれ。いいかな?」
 答えを待たずに電話は切られた。
 真寿美の青ざめた顔が木津を見上げる。その唇は小さく震えていた。
 

 

←BEFORE  : ↑INDEX  :  NEXT→