当局とMISSESの包囲を脱した「ホット」の行方は、強制捜査部隊の事実上の全滅を受けて張られた非常線の効果もなく、そして非常線からの報を待っていたMISSESの待機の甲斐もなく、杳として知れなかった。
当局の被害に比して、MISSESのVCDVはいずれも外装の小破といった軽微な損傷を受けたに止まっていたが、それは「ホット」とその麾下の部隊が脱出において、当局はともあれMISSESとの交戦を敢えて避けていたことの証左とも考えられた。
再び眼前に居並んだ渋面の列の中から、前回も噛み付いてきた男がまた久我に迫ったときに切り出してきたのがそのことだった。
「どう見ても、あんたらと例の甲犯との間にネゴのある証拠じゃないか?」
久我は言葉を返さなかったが、その態度は例によって別段困った風も何も表してはいなかった。
「それにだ」
男がさらに食ってかかる。
「やり方は違うにしろ当局の中に食い込んで来てるのは同じじゃないか!」
久我はそれに一顧だに払った様子を見せず、テーブルに肘を突いて正面に腰掛けている幹部に尋ねた。
「それで、ご用件は?」
テーブルを平手で叩く音。続く怒声。
「馬鹿にしてるのか貴様!」
幹部はそれを手振りで押し止めると口を切った。前回とは異なり、やや重めの口調。
「結果として『ホット』とその徒党を取り逃がしたこと、さらにアジトの場所という重要な情報がその価値を失ったことは、当方としては認めざるを得ない事実です」
当方としては、という言葉に置かれたアクセント。幹部は続ける。
「ですがその一方として、今彼が申し上げた疑念が生じているのも、残念ながらまた事実なのです」
明らかに久我の反論を待って言葉を切った幹部は、だが期待を裏切る久我の沈黙を自分なりに解釈して続けた。
「いえ、ご不快は承知の上です。御社にこれまでも出動要請や特一式の納入という形でご助力頂いていますからね。そして出動の際は毎回それ相当の実績を上げて下さっているのも分かっています。ただ、ただですよ、今回はちょっと状況が……」
冷ややかな目で居並ぶ幹部達を眺めながら、久我は『ホット』の行動の本当の目的を推し量ろうとしていた。
今まで話していた幹部が言葉を切って、何らかの反応を久我に促すかのように揉み手を始めた。
相当の間を置いてから、久我は落ち着いた声で反応を返した。
「お疑いの要因は、一つが私たちの損害が極めて少なかったこと、もう一つが私たちが『ホット』の追跡を遂行できなかったこと、の二点と考えてよろしいのですか?」
幹部達はやや口ごもる。顔を見合わせる者もある。端にいる例の噛み付く男は、今さら何をといった顔で腕を組んだ。
ややあって、中央の幹部が答えた。
「まあ、そういうことになります」
「今挙げた要因はいずれも現場からの報告によるものと見られますが、それを受けてあなた方が判断なさったものと考えてよろしいですね?」
幹部は曖昧にながら肯定の答えを返した。
一つを除いていずれもその答え同様に曖昧な幹部たちの顔を一渡り眺め回すと、久我は今度は逆に相手に続きを促すようにはっきりとした沈黙を守った。
幹部たちも、言葉を選んでいるのかなかなか先を続けようとしない。
そのまま一分近くが過ぎようとした時、端の男がまた声を上げた。だがそれは久我に向けられたものではなかった。
「何をのんびりやってるんです! 既決事項なんだから、はっきり言ってやればいいじゃないですか!」
その乗り出した上体を止めるように、隣にいた男が腕を伸ばして、落ち着くようにと言葉を掛けた。
茶番を見ているが如き久我の視線は、それでも動かされることはなく、幹部の口許に留められている。それがようやく開かれた。
「前回」と端の噛み付き虫を示しながら、「彼があなた方と甲種八八〇八番一〇九三一号との間に何らかの繋がりがあるのではないかと前回申し上げた時は、当方としては何等その証拠を得てはおりませんでした。しかし、今回は状況証拠的なものとは言え、それを裏付けかねない事態が出来しておるわけです」
聞きながら久我は思った。あの人は単に内応者によって自分への利益を導いていただけではなかった。私たちへの不信を芽生えさせる土壌を作ることも考えていたのだ。
「そうなると」と幹部が続ける。渋面は半ば以上和らいでいた。「当方としても、これまでのご協力を決して無視するわけではありませんが、実質的な貢献度と言うか、当の甲種手配者に直結するものが得られて来なかったことも確かではありますし、内部での信頼度がややもすると揺らぎがちになって来ますのでね」
幹部はそこでまた言葉を切ったが、久我は言葉を返そうともせず、平然と相手を見据えている。その視線を受けて幹部は目を伏せた。だが執拗に沈黙を守る久我を前にして、とうとう最後まで言わざるを得なくなった。
「つまりですね、以下の件を承服頂きたい、というわけです」
そして小さく合図をすると、隣の男が前に置いた一枚きりの資料を久我に差し出した。
久我は左手でそれを引き寄せて、挙げられた項目に目を通す。
その様子を注視していた幹部連の表情があるいは困惑に、あるいは不審に、またあるいは恐怖にひきつった。
久我の顔には、冷淡な笑みがあった。そして発せられた声にさえも笑いが感じられた。
「これが当局の判断された最善策と理解してよろしいのですね?」
見回されたどの首も、はっきりと縦に振られることはなかった。
久我は繰り返す。
「よろしいのですね?」
少し吃りながら、次席の男が返す。
「必ずしも最善とは言えないかも知れませんが、現時点では最も妥当な判断かと」
久我の面がわずかに伏せられた。が、今度ははっきりと、くすりという短い笑い声が聞こえた。
その顔が再び正面に向けられた時、笑いを感じさせるものは表情からも声からも完全に消え去っていた。
「分かりました」
あっさりと言われた回答に、幹部連は揃って安堵の息を漏らした。が、隠しきれてはいなかった当惑が、続けられた久我の言葉に顕になった。
「一つ確認させて頂きたいことがあります」
その日の夕刻になって、MISSESではディブリーフィングの召集が掛けられた。
だが久我は出動の経緯についても結果についても何一つ確認することはせず、代わりに発したのはこの言葉だった。
「明日から一週間を休暇期間とします」
全員が全員自分の耳を疑った。
「え、え、え、え?」と真寿美は久我と他のメンバーの顔を交互に見ながら慌てる。
「休暇……ですか?」
紗妃と安芸が揃っておうむ返しに訊ねる。
由良と小松は唖然とし、そして饗庭と木津は露骨に不審の表情を示していた。
しかし久我は通常の指示と何等変わりない口調でもう一度同じ台詞を繰り返した。
「何で?」と木津が問う。「何で今のこの状態で、休みだなんて話が出て来るんだ?」
「今日の午前中、当局から次の指示を受けました」淡々と久我が切り出す。「まず、支援出動行為の停止。当局からの出動指示発令自体が停止されます」
またも全員が耳を疑った。
「何だそりゃ?」
木津の声を聞きもせぬ素振りで続ける久我。
「次に、これに伴いこれまでMISSESに認められていた準逮捕権限の停止」
何か言い出そうとした木津が、ふと口を噤んだ。その横には中途半端な真寿美の表情。
「三点目として、派遣人員の召還。正式な通達は追ってあるとのことです」
由良が呆然となる。その唇が震え、かすかに歯が鳴った。
「四点目。特種機動隊での特一式特装車の運用停止。ただし特種機動隊の活動は継続されます。この件に関しては、同時に特一式特装車の制御プログラムをも含んだ詳細なメンテナンス・マニュアルの提示をも求められています」
もはや誰も目立った反応を返さなかった。だがそれも久我の次の言葉が発せられるまでのことだった。
「そして最後に、当局のLOVEに対する捜査執行」
「え、え、え、え?」
非常な当惑を顔に浮かべた真寿美が思わず口走った。それを皮切りに、小松が、安芸が、そして紗妃が口々に久我に問う。
「どうしてそんな指示が出たんですか?」
「まるでうちが犯罪者みたいな扱いじゃないですか」
「何の容疑でですか?」
久我はそれらの顔を、そして何も言わずに自分を見ているもういくつかの顔を見回すと、当局での顛末を平然と語った。
「我々と『ホット』が通じている?」
安芸が理解できない言葉を聞いたかのようにつぶやいた。
木津が冷笑しながら「てめぇらのことは棚に上げやがったな」
「それで、反論はされなかったんですか?」
紗妃の問いに、久我は当然の如くに答えた。
「その必要はありません」
「捜査の結果が出れば、自ずと明らかだからねえ」と小松が言ったが、久我は別段それを肯定する様子は見せなかった。
「で、その捜査はいつ?」
「明日です」
「何を探すつもりなんだかね」と、小馬鹿にした口調で木津が言う。「てめぇらの役立たずの言い訳か何かか?」
「辛辣だねえ」と小松。
「でも」木津は言葉を継いだ。「願ったりじゃないのかい? これでうちは当局お構いなしに動き回れるんだからさ」
「それは認められたんですか?」安芸が久我に質す。
「認められたというのは、厳密に言うと少し違います」
「お、久々に聞いたぞその台詞」
木津の茶々は当然ながら無視された。
「準逮捕権限が停止されたことは、即ちMISSESが違法な車両及びその運転者に対して行う行動の公式性が喪われたことになります。その意味では行動は認められたものとはなり得ません」
隅で饗庭が小さく頷いた。
「しかし、『ホット』が私たちに対し何らかの行動を起こしてきた場合、これに対抗する手段を私たちが保持しているという事実に変化はありません。これは当局と言えど認めざるを得ないところです」
今度は木津が大きく頷いた。
「つまり、自衛としての行動に限っては許されるということですね?」と紗妃。
「当局の一応の見解はそうなりました」
「自衛ね」と木津。「向こうの出待ちかい」
「ただし、明日の結果如何によっては、その見解に変化が生じる可能性も否定はしません。何故なら」
木津は久我の視線を一瞬感じたような気がして顔を向けたが、久我の目はまた全員に向けられていた。
「今回の当局の決定が『ホット』の誘導によるものであるのは確実だからです」
高く口笛が響いた。
「それは……」真寿美がいつもとは違うかすれた声で言いかける。
「言うまでもないな」と木津が言った。その口振りは、待ちかねていたものがようやく眼前に現れたといった風だった。
「『ホット』の前回からの行動は、私たちを攻撃目標とするための準備行為と認めます」久我がこれまでにない落ち着き方で言った。「従って当局の捜査結果が正当なものとなるとは必ずしも期待できません。自衛を含め、VCDVを用いた一切の行動が制限もしくは禁止されることも考えておく必要があります」
木津が二度三度と舌打ちをした。
そこで珍しく饗庭が口を開いた。
「その場合、『ホット』某からの暴力行為があれば、当局の特種機動隊がこちらを保護するんですね?」
「当局の職務上はそういうことになります。ただしこれまでの状況から、当局の技量を過信することは出来ないと思います」
久我の答えが饗庭の眉間に皺を刻ませる。
「こうした環境下で、今後みなさんには活動していただかなくてはなりません。ただ、『ホット』が明確な行動を起こすのは、当局が今回の措置を実施した上、明日の捜査の結果をまとめてからと考えられます。そこで、その間みなさんには休暇を取っていただき、今後MISSESとしての業務を継続するかどうかを考えておいていただきます」
この最後のくだりを聞いて眉間の皺を消した饗庭。その向こうで由良が居場所を無くしたように訊ねた。
「あの……私は?」
「当局からの辞令もこの一週間の内に届くはずです。休暇後の復帰で構わないでしょう」
由良は大きな溜息を吐いてうつむいた。
「最後に申し上げておくと、明日の捜査においては、結果が明らかになるまでみなさんを煩わせることはありません。休暇中は懸念なさらないようにお願いします。以上です。何か質問は?」
木津が腰を上げながら言った。
「俺が抜けると言ったらどうする?」
だが久我の表情を見て、木津は苦笑した。
「お見通しだもんなぁ」
「仁さん?」
「開いてるぜ」
応えながら木津は七重の写真を裏返して机に伏せた。
部屋に入ると、真寿美は顔をしかめた。
「うわ……空気がこもっちゃってるじゃないですか。暖かくなってるんですから、窓ぐらい開けましょうよ」
そして手ずから机の脇の窓を開く。言葉通りの暖かい風がわずかに吹き込み、机の上から数枚の紙片を床に飛ばした。
椅子から身を屈めてそれを拾う木津に気付いて、真寿美は詫びを言ったが、その紙片の中に、裏返しにはされているが、写真があるのに気が付いた。
「仁さん、お休みはどうするんですか?」
「どうするって言われても……どうしようか?」再び紙片を机に伏せながら木津。
「あたしに訊かないでください」と真寿美は笑う。「あたしだってまだ決められてないんですから」
「しかし、真寿美が休んだら誰がおばさんにコーヒーを淹れるんだ?」
「自分でやるから大丈夫、だそうです」
「あ、一応訊いたわけね」
「それはもうしっかりと」そして「そっかぁ、そうですよね、決まってないですよね」
「真寿美ちゃんの陰謀コーナー! か?」
真寿美はまた吹き出しながら、「デートのお誘いって陰謀なんですか?」
「デート?」
真寿美は軽くうなずいて言った。
「今度は邪魔が入らなさそうですし」
「その次は空気が重かったしな。分かった、受けて立とう。で、いつ?」
「受けて立とうって、果たし合いじゃないんですから。明日はどうですか?」
「了解だよ。行き先は?」
「あたしが決めちゃっていいですか?」と、真寿美は悪戯っぽく微笑んだ。
それにいささかひるみながら木津は
「……いいです」
「それじゃ、楽しみにしてて下さいね」
そう言って踵を返す真寿美を、木津は呼び止めた。
「あのさ、さっきおばさんが言ってたMISSESを続けるかどうかって話だけど」
「はい?」真寿美の頬に浮かんだ笑みは変わらなかった。「あたしは続けますよ」
木津は黙ったまま真寿美の顔を見つめた。
真寿美の方は小首を傾げて木津を見返す。
やがて木津はゆっくりと言った。
「そうか……」
「はい」
一点の曇りもない返事だった。
その頃の詰所には、饗庭兄妹の姿があった。
「ディレクターがまさかあんなことを言い出すなんて思わなかったなぁ」紗妃が言った。「あれ、兄貴への当てこすりじゃない?」
「そのレベルで動く人じゃあるまい」
脇の椅子に座る兄のつぶやくような声を、テーブルに腰掛けた妹の険のある声が追う。
「冗談よ。で、兄貴はどうするの? 納得いってなかったんでしょ?」
「ああ」
「ああじゃなくって」
饗庭は答えなかった。紗妃も答えを促しはしなかった。
しばらくの沈黙を挟んで、饗庭が言った。
「お前はどうするつもりだ?」
「私は」テーブルから降りる紗妃。結んだ髪が跳ねる。床に当たって靴音が短く高く響く。「辞めないわよ」
饗庭の視線が壁から紗妃へと移される。
「何故?」
「やりかけで放り出すのが嫌だから」
簡単に紗妃は言ってのけた。
「それだけか?」
兄の言葉に紗妃は怪訝そうな顔をする。
また少しの間を置いてから饗庭は続けた。
「見届ける気なのか?」
怪訝な顔は変わらない。
「木津さんのことを」
紗妃の顔に微笑が浮かんだ。
「ああ、それもあるかもね。でも木津さんだけじゃない。真寿美ちゃんのこともね」
興味なさげな表情の饗庭に、紗妃は再び問いかけた。
「兄貴はどうするの? 辞めるの?」
返事はなかった。
終業のチャイムが鳴った。
真寿美は居心地悪げな顔で周囲を見回しながら立ち上がった。
「あの、それじゃ……」
「いいなあ」隣の席の先輩女性社員が言った。「一週間お休みかぁ」
「す、すいません……」
「いいのいいの。来年はあたしも十年目の長休もらえるから、その時に借りは返してもらうわ。だから後は任せておいて」そう言うと、手のひらで真寿美の背中をどんと叩いた。
真寿美は頭を下げて暇を告げると、小走りに階段を下りて更衣室のドアを開いた。
早くも帰宅組で混雑の始まった中、真寿美は一つの背中を見付けて声を掛けた。
「紗妃さん」
解かれた腰までの髪を揺らしながら、事務服のブラウスを脱いだ細い背中が振り返る。
「あ、お疲れ様」
紗妃は自分のそれとちょうど向かい合わせになるロッカーに真寿美が来ると、訊いた。
「今日はこれからどうするの?」
「もう帰るだけ。明日は予定あるけど」
「それじゃ、ご飯食べて帰らない?」
「うん、いいよ。どこで?」
「私のお気に入りのフレンチでどう?」
「了解。ナヴィのデータ転送よろしく」
紗妃がくすりと笑った。
「え?」と振り返る真寿美。
「ううん、今の言い方、何だか木津さんみたいだなって思っただけ」
「そ、そう?」向き直った真寿美は少し頬を赤らめていた。
「あ、もしかして明日の用事って、デートでしょ。木津さんと」
「えへ」
「そっかぁ」衣擦れの音をさせながら紗妃がつぶやく。「それじゃ、あんまり遅くなっちゃダメね。あとお酒も」
最後に付け加えられた一言に、真寿美の表情が強ばった。
「あの……あの時、あたし、ほんとにそんなに……ひどかった?」
「明日は失敗しないようにね」
紗妃がまた悪戯っぽくくすりと笑った。
「その木津さんも、休みの間は自宅に戻るんでしょ?」
頭を抱えていた真寿美は、その問いに表情を一変させて答えた。
「うん、明日はあたしが木津さんのお部屋まで迎えに行くの」
「迎えにって、普通は逆じゃないの?」と、支度を終えた紗妃が振り返った。
「うん、でも仁さんずぼらだから」
「そういう問題じゃないような気がするんだけど……」
駐車場に出た二人は、ヘルメットを抱えたウィンドブレーカ姿の背中を見つけた。
「安芸君も今日は早いんだね」
真寿美に声を掛けられて振り返る安芸。
「ああ、峰さん。紗妃さんもお揃いで。連れ立ってどこかお出掛け?」
「これから淑女の晩餐会です」と紗妃。
「……はあ」
「何かな今の間は?」真寿美が切り込む。
「気のせい気のせい」
「ところで安芸さんはお休みの予定は?」
「久々にツーリングでも行こうかと思ってます。アックスが出来て以来忙しくてご無沙汰してたから」と、片手でヘルメットをぽんぽんと放りながら安芸が答える。
「そろそろいい時期ですもんね。私もそうしようかな」
「え、紗妃さんオートバイ乗れるの?」
「安芸さんと違って中型だけどね」と真寿美に答えると、今度は安芸に「というわけで、ついていったら迷惑ですか?」
「全然。ただ今のところ計画も何もないけど、それでよければ」
「いいですよ。計画は全部お任せです。出発はいつ?」
「明後日の朝のつもりです。それじゃ、明日の夕方までに計画は送ります」
「よろしくです」
このやりとりを見ながら、真寿美は言った。
「本当に誰も気にしてないみたいよね、明日の捜査のことなんか」
「ディレクターが懸念無用って言ってるんだからいいんじゃないかな?」と安芸。「あの人が言うと、どういうわけか信頼出来てしまうから不思議なんだけど」
「それじゃ安芸さんも継続組なんですね」
「も?」
「私も、です」
「あたしも」
「峰さんは訊くまでもないけど」
頬を膨らませる真寿美を脇に、安芸は紗妃に尋ねた。
「で、饗庭さんは?」
紗妃は溜息混じりに答える。
「兄貴ですか? 相変わらずはっきりしないんですよ。私も訊いてみたんですけど、辞めるとも辞めないとも言わなくて」
「そうですか……」受ける安芸も溜息混じりに。「饗庭さんも腕は確かなんだけど、意に添わないことを続けるのは辛いだろうから」
「でも」真寿美が口を挟んだ。「今までの饗庭さんだったら、こんな話を聞いたらすぐにでも辞めちゃったんじゃないかな。それを今回は考えてたんでしょ?」
「煮え切らないだけよ」紗妃が切り捨てる。
「由良さんが当局に戻った上に饗庭さんが抜けるとなると、かなりきついことになりそうだからね」安芸が言った。「残ってもらえれば心強いんだけど」
「久我ディレクターはそのあたりをどう読んでいるんでしょうね?」と紗妃。「『ホット』のグループだってまだまだ相当の数が残っているのに、それに対して何人残るか……」
「休み明けにははっきりするでしょ?」真寿美が簡単に言った。
「そうね」
その頃、久我の執務室。
「で、お受けになるつもりなんぞはございますまいな?」
阿久津の問いに、久我ははっきりと答えた。
「もちろんです」
阿久津が確かめたのは、当局の指示の内四点目の後半についてだった。
久我の答えに満足そうにうなずくと、さらに問い質した。
「それで、如何にして切り抜けられるお考えか? 引き渡しがなければ、逆に口実を与えることになりますぞ」
「提出資料の収集と作成には十分な時間をかけて下さい」
久我の言葉に一瞬合点のいかない顔を見せた阿久津は、すぐににやりとした。
「承知しました。たっぷり一ヶ月かけることにしましょう。その間に」
久我がうなずいた。
「ただ一つ気になるのは」と阿久津。さっき浮かんだ笑みは、今は苦いものに変わっている。「向こうさんがペケを出してきたら、ディレクター殿は構わんのかも知れませんが、真寿美君やら饗庭の姫さんやらといった、元々関係のない人間にもケチを付けることになりかねんてことですがな」
「その判断をも含めて、各個人に業務継続の是非を任せました」淡々と久我が応える。
「みんながみんな、そこまで考えとるとは思えませなんだがな」
久我の応えの代わりに、別の声がインタホンから聞こえてきた。
「ディレクターいるかい?」
「万事承知でやっとるのはこの御仁ぐらいでしょうな」と阿久津が言った。
久我はインタホン越しに、声の主の木津に打ち合わせ中である旨を伝える。
「ああ、だったら構わない。休み中は俺も自宅に戻るからさ、こっちの部屋はどうするかって訊きに来ただけだ」
「貴重品等を残して置かれないなら、そのままで構いません」
「鍵もかけないでいいのか。あと、白虎のキー・カードも置いて行かなくていいな?」
久我がふと考えるような素振りを見せた。だがそれもわずかの間のこと、すぐに肯定の答えを返した。
「了解だよ」と言う軽い口調を変えず、木津はもう一言を付け加える。
「明日、まかり間違っても白虎を押収させたりしないでくれよな」
久我の返事を待たずに、「それじゃまた来週!」と言い置いて木津は立ち去った。
阿久津が一つ息を吐いた。
「なるほど、そういう懸念もなくはありませんな」
口中剤を取り出して口に放り込み、奥歯で二度がりがりと噛むと、阿久津は言った。
「この間に、VCDVも休暇ってことにしておきますかな。全車両の解体補修をやるいいチャンスですからな。手始めにG−MB以外の三両からいきますか」
久我が軽く頭を下げる。
「ご賛同いただけたようですし、早速今夜からでも手を着けるとしますかな」
久我の顔に疑問の意を見て取ったか、阿久津は付け加えた。
「明日の朝から露骨にバラし始めたんでは、言い訳が付きますまい。それに」
言葉を切った阿久津は、うつむき加減に、頻りに手指の爪をこすっている。
「不似合いなセンチメンタリズムと嗤って下すっても構いませんが……激務に赴く連中には、少しでも多く手を掛けてやりたいなんていう気持ちも無くはないもんでしてな」
「よろしくお願いします」
そう言った久我の声がどこか優しく聞こえたのは、阿久津の気のせいだったのだろう。
「それから、全車両のメイン・キー・カードのバックアップはいつでも破棄出来るよう準備をお願いします」
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