Chase 23 - 見出された標的

 
 ……貴重な情報をご提供下されたこと、心より感謝申し上げます。しかし、貴方が既に十二分にご存じのことと私は信じて疑いませんが、貴方の下された情報が本当に正しいものであることを、貴方ご自身が私たちに対し証明して下さらない限り、私たちはそれに基づいて行動を起こすことは致しませんし、また出来ません。その旨万が一ご失念であれば、改めてご理解下さいますよう、何とぞよろしくお願い申し上げます。そして貴方がこの申し出に従って、速やかに私たちにとって有用な情報の裏付けをして下さることを願って止みません……
 この文面を読み通すと、その人物は唇だけを歪ませて皮肉な笑いを浮かべた。
 あの女、相変わらずの慇懃無礼振りだ。しかし、その高飛車な態度もこれ以上は続けられるまい。こちらに頭を下げ、自分がこちらの後塵を拝するのを認めざるを得なくなる時もさして遠くはない。
 その人物は、椅子に凭せ掛けた体を二度三度と揺すった。また唇が歪む。
 そしてもう一人の邪魔者をもう一度、それも完膚無きまでに潰す日も……
 お望みならば機会を与えてやろう。それが決着のための早道だと言うのなら。
 椅子を蹴るように立ち上がったその人物は、しかしそう考えていたのとは対照的に、苛立った様子で室内を歩き回った。自分の側に動かせる駒を揃えるために、もう少し時間が必要だという動かし難い事実があった。
 親指の爪を噛みながら、もう片方の手でその人物は机の上のボタンを押した。十秒と間をおかずに若い男が部屋に入って来ると、人物の脇へと近付いた。その表情はやや緊張の色を帯びている。
 爪を噛むのを止めないまま腰掛け直すと、その人物は机の上からペンを取り、タッチパネルに文を書き付けた。ほとんど殴り書きと言ってもよい文字を、側に寄った若い男が読みとる。そして言いずらそうに口を開いた。
 「……それは、最大限急がせています」
 再び書き殴られる文字。
 「はい、確かに……しかし」
 三度文字が書かれると、乱暴にペンが机に置かれた。その音にびくりとしながらも文字を読む男の顔に、驚愕の色が走った。
 「そ、それは!」
 人物は何も書かずに男の顔を横目で睨んだ。そして彼を追い払うように手を泳がせた。
 それ以上何も言うことは出来ず、男は頭を下げると一、二度振り返りながらも部屋を出ていった。
 人物は錠を解除すると引き出しを開けた。その中にさらに鍵の掛かった黒鉄色の小箱。小さな鍵を骨のように細い指先が開く。
 ワインレッドのビロード張りの箱の中。中央のくぼみに鎮座している、銀色に光る金属の小片。人物はそれを何の感情もなく摘み上げた。そして立ち上がると、背後にあるクローゼットの扉を引いた。
 

 「まいったまいった」
 丼の載った盆を携えて木津が戻ってくる。
 「明らかに行列してるところに、わざわざ行くからですよ」と箸を止めて安芸が言う。
 「抜き差しならないほどラーメンが喰いたいっていう気分の日だってあるのさ」
 「いえ、止めませんけれど」
 「止められても今日は喰う」
 そう言いながら木津は椅子の背に手を掛けた。丁度その時、安芸の腰から聞こえてきた呼び出し音にその手が止まった。
 「お客さんですね」と、腰の受信器のスイッチを切って安芸が立ち上がった。
 「何でメシ時に来るかねぇ。しかもわざわざこういう気分の時に」
 「お客さんの相手しないでラーメンにしますか?」と安芸が微笑しながら言う。「その代わりに大物を喰い損ねるかも知れませんけど」そして自分は箸を置くと、「止められても食べますか?」
 「大物が来なかったら恨むぜ、進ちゃん」
 湯気を上げるラーメンに未練がましい視線を落としながらも、木津はテーブルに置いた盆を再び取り上げた。
 

 駐車場へ続く廊下で、前を走る背中に安芸は呼び掛けた。
 「由良さん! 情報は?」
 足は止めずにちらりと振り返ると、はずんだ息の下から答えが返る。
 「いえ、まだ何も」
 「変ですね」と首を傾げる安芸。
 「おばさん、出し惜しみしてやがんな」
 駐車場の開かれたドアから三人が駆け込むと、そこには既に準備を完了しているマース1とキッズ1の青と赤の車体があった。
 「饗庭さんがいませんね」と安芸。
 「ほっとけ」簡単に言い捨てて木津はコクピットに身を滑らせ、キー・カードをスロットに差し込むと、すぐに通信機のスイッチを入れた。
 「真寿美! 姫! 状況は?」
 それに応えたのは、真寿美でも紗妃でもなく、久我の声だった。いつも通りの冷静な口調で示された状況を、しかし木津はすぐには理解できなかった。
 「ホット・ユニット搭載車両、単機でE181を北方向に走行中。『ホット』本人である可能性が高いものと思われます。待機中の全車両は当該車両並びに運転者の身柄の確保に当たって下さい」
 「馬鹿な!」
 久我の指示を聞いて、真っ先にそう声を上げたのは木津だった。
 「何だそりゃ、奴が一人でって……」
 「しかもE181を北って、ここに向かってるってことですか?」と紗妃が言った。
 それらの声の中に、久我の次の指示が入ってきた。
 「指揮はキッズ0、補佐にアックス3」
 真寿美が思わずキッズ0のコクピットに目をやった。そこで木津はまだ半ば呆然としたような表情のままでいる。
 「仁さん……?」
 「……お望みだと言うんだったら、今日という今日はけりを付けてやろうじゃないか」
 他の誰にもほとんど聞き取れなかったつぶやきに続いて、怒声にも似た木津の指示が飛んだ。
 「行くぞ!」
 

 五両が続いて駐車場を飛び出していったのを見て、久我は一度浮かせた腰を椅子に落ち着け直すと、今自分が下した指示を思い返した。いや、指示そのものにではなかった。思いを巡らせていたのは、その時の久我自身についてだった。声を震わせることなどもなく、これまでと同様にあくまで冷静に言い切ることが出来ただろうか、と。
 そしてこの事態に際して、予想を遙かに超えるような緊張と動揺とが自分の中に走っているのを感じ、それと同時に、同じく自分の中にまだ残っていた甘さを意識して、わずかに久我は唇を噛んだ。
 今更言うまでもなく、あの人は元からああいう人ではなかったか。傍目には無謀とも言えるような選択肢を、何のためらいもなく選んでしまう人ではなかったか。そして私はそこに付け入ることも出来たのではなかったか。
 久我の視線の先には、当局への通信回線を開くボタンがある。しかし久我はそこへ手を伸ばしはしなかった。
 それでは済まない。彼と同じように。
 だが、と久我は考える。ここでこんな形で決着をつけるようなことを、あの人がするはずがない。あくまでこれは私の放った言葉への応えに過ぎない。「ホット」の存在をアピールし、そして私たちに手掛かりを与えるためのデモンストレーション以外の意味をあの人が与えているはずがない。しかし、速度の面以外ではホット・ユニットはVCDVの相手ではないだろう。ならば、あの人はこの包囲をどうやって切り抜けるつもりなのだろう……
 「……聞こえた」
 飢えた獣の唸るが如き低い声が聞こえ、久我は我に返ってディスプレイ・スクリーンに向き直った。
 

 「どっちだ?」
 周囲の壁にまた建物に反響している爆音の中を、速度を落とすことなくB−YCが、そして出力の差のためにわずかに遅れて四両のVCDVが走り抜ける。
 「左……えっ?」
 真寿美は前方に戻した視線をもう一度ナヴィゲータの画面に投げる。直前まではっきりと目標の位置を示していた輝点が、今は忽然と消えていた。
 真寿美の言葉の頭だけを聞いた先頭の木津は、強い横Gをものともせず左に曲がった。と、B−YCは初夏の日差しを反射して舞う白銀色の小片の中へ飛び込んだ。
 ひどい雑音に妨げられながらも、安芸の声が辛うじて聞き取れた。
 「チャフだ……」
 それには構わず、遮二無二木津は走り抜ける。その後ろを走っていた紗妃が少し眉をひそめ、併走する真寿美に話しかける。
 「急ぎすぎてる?」
 やはり雑音の中から聞こえる応え。
 「うん」
 木津の心中を察して余りあるだけに、真寿美は曖昧な返事しか出来なかった。
 紗妃はS−ZCに一瞥をくれると、変形レバーに手を伸ばした。
 S−RYがハーフに変形し、進路を徐々に路肩側に寄せていく。
 それに気付いた真寿美の足がスロットル・ペダルからわずかに浮いた。
 「紗……」
 呼び掛けかけた真寿美は、だがS−RYの指が真っ直ぐ前方を、木津のB−YCの方を指しているのを見て、再びペダルに踏力を加えた。
 少しずつ離れていくS−ZCの尾部。そしてG−MBの鼻面が近付いてきた。
 つまる距離に気付いた由良が横を見ると、既に安芸のG−MBはハーフに変形していた。
 「こちらはマース1と周囲の哨戒にあたります。よろしいですかリーダー?」
 まだチャフによる障害で雑音が解消されないが、それでも安芸の言葉は聞き取れた。そしてその言葉の最後が特にはっきりと由良の耳に響いた。
 由良は声を大にして応答する。
 「了解、任せます。こちらは先行してキッズ・チームのサポートに当たります」
 了解を意図するかのように、ハーフの右腕が軽く前に振られた。
 再度加速して先行する二両を追う由良機を見ながら紗妃が、乗機を停止させた安芸に言った。
 「この辺に『ホット』が隠れているかも知れないですね」
 だが安芸の答えは否だった。
 「えっ? じゃあ周囲の哨戒って……」と、自分はそのつもりだった紗妃。
 「隠れ蓑を意図しているのなら、こういうチャフの撒布はそんなに効果的じゃありません。自ら行動範囲を限定することになりかねませんし」
 安芸の言葉を聞きながら、紗妃は有視界哨戒を続けるG−MBの動きから目を離さない。
 「むしろ潜んでいるなら武装装甲車か人型の可能性の方が高いでしょうけれど、それにしてもこのやり方は……」
 「目的が見えない、ですか」
 「ええ、だから哨戒役と言うよりは、一種の囮かも知れません」
 くすりと紗妃は笑いながら変形レバーに手を伸ばした。
 ごく軽いモーターの音と共に、警戒姿勢をとって青龍が立ち上がる。
 「安芸さんも損な性格ですよね」
 青龍と背中合わせに立ち上がった玄武のコクピットで、視線を周囲へ投げ続けながら、安芸も微笑を浮かべて言った。
 「紗妃さんもね」
 「私が、ですか?」
 「本当は仁さんの方について行きたいところだったんじゃないですか?」
 「木津さんに、ですか?」と応える声は微笑を帯びていた。「それは真寿美ちゃんに任せます」
 「やっぱり損な性格ですね」
 「私のはミーハーなファン心理ですけど、真寿美ちゃんは立派に恋愛感情になってますから、最初からレベルが違いますよ。でも、こういう場面でする話じゃないですね」
 「確かに」
 舞い落ちるチャフが、そびえ立つ二つの機体に降りかかり、軽い音を立てては路面に落ちていく。
 

 「くそっ! どこだ?」
 メイン・ルートから少し外れた、廃工場の長大な外壁が延々と続く一角に飛び込んだところで、爆音は大きな反響を最後にかき消すように聞こえなくなった。
 真寿美は木津の声に、ナヴィゲータの画面を見るが、まだチャフの影響があるのか失探を示す警告が出たままだった。
 返らない答えに苛立つかのように、白虎が立ち上がり左右を見回す。
 そこへG−MBが姿を現し、横様に滑りながら止まる。足まわりから立ち上る白煙。
 反射的に木津は衝撃波銃の照星の中にG−MBを捕捉していた。
 「仁さんいけない!」
 真寿美の叫びに、トリガーを絞る寸前で止まっていた指がぴくりと震えた。
 一瞬凍り付いた由良だったが、すぐに状況を把握すると言った。
 「アックス1とマース1はチャフ撒布地点で現状哨戒中。私はE181に戻ります」
 「E181……」
 「リーダー、許可願います」
 木津の応答がない。その代わりに白虎がRフォームに戻された。
 「ついて来い!」
 キッズ0を追ってキッズ1、アックス3が次々に急加速する。
 脇道からメイン・ルートに躍り出すと、その一瞬後には計器盤の表示が操縦安定警告色を伴って最高速度を示していた。
 真一文字に唇を結び、目を正面に見据えながら、木津は勘付いていた。これが一種の挑発、「ホット」による挑発だということに。
 だが何への? 誰への? 俺か、それともLOVEの他の誰かか? 木津の脳裏を怜悧な表情をした一つの顔がかすめていった。
 「インサイト!」
 弾けるような真寿美の声に続いて、木津の耳にも遠く、だが反響ではなくはっきりと、ホット・モーター・ユニットの発する爆音が聞こえてきた。
 続くのは安芸と紗妃を呼び出す由良の声。
 「ルートE181、区域1355付近で目標発見。至急合流願います!」
 チャフによる妨害も晴れたか、明瞭な音声で了解の応答が返る。
 だが、紗妃の次の言葉はこうだった。
 「ナヴィゲータに反応がありません」
 はっとして由良も自分の計器盤を見た。確かにナヴィゲータの画面には、ルートE181を走る自分たちの輝点は三つ存在している。だがその先にあるはずのもう一つの輝点が、紗妃の言葉通り見えなかった。
 由良は木津と真寿美にその旨を告げた。
 あっと小さな声を上げた真寿美。それに対して、木津はこう叫んだ。
 「そんなもの要るか! そこに奴のケツが見えてるんだ!」
 真寿美も由良も我に返ったようにナヴィゲータから視線を外した。
 「でも」と真寿美がつぶやいた。「なかなか距離が縮まりませんね。こっちだって全速を出してるのに」
 由良がそれを受けて言う。「……ホット・ユニットっていうのは、あんなにパワーが出るものだったんですか」
 そこに舌打ち一つ。次の瞬間、宙に舞う白虎の両腕から衝撃波が繰り出される。
 遙か先を走る「ホット」の横で、後ろで衝撃波は路面をゆがませただけだった。
 「仁さん、落ち着いて」
 そう真寿美は言いたかった。しかしやはり唇を動かすことは躊躇われた。
 進路を横にずらしたG−MBの脇に変形を戻しながら着地したB−YCが、全力を叩き込まれて猛然と速度を上げる。そして出力に劣るG−MBを瞬く間もなく引き離し、S−ZCに並んだ。
 やがて「ホット」の走る先に見慣れた建物の頂部が姿を現した。LOVEの社屋だった。
 「貴様、どうする気だ?」
 相手に聞こえているはずもない言葉を、木津は叩き付けるかの如くに吐き出した。
 追う真寿美と由良の表情にも、少しく不安の色が浮かび始めた。
 が、その時「ホット」が右に急転舵した。その先には立ちはだかる黒鉄色の姿。
 「玄武?」真寿美が叫んだ。「饗庭さん?」
 「追え! 奴を止めろ!」
 指示の体を成しているとは言い難い木津の怒鳴り声に、ようやく玄武がRフォームに変形し走り出した。
 嘘のように鋭い加速を見せるG−MB。しかし彼我の差は広がり、そして追ってくるB−YCとの差は見る間に縮まった。
 もはや舌打ちすらせずに、木津は横すれすれのところでG−MBを追い抜く。
 その時、木津は車体に軽微な衝撃を感じた。そして見た。饗庭の玄武がB−YCのルーフに片手を突き、その速力を借りて前方に飛ぶのを。飛びながら左腕を「ホット」へと伸ばし、二度衝撃波銃を撃つのを。
 玄武の着地する音、衝撃波が路面に跳ねる音。「ホット」の車体を捉えた音は聞こえない。代わりに車輪の甲高い軋りと、ホット・ユニットの更なる爆音。
 再び「ホット」は右へと姿を消す。
 「逃がすかあっ!」
 そこに真寿美の声が響く。
 「仁さんだめ! 止まって!」
 意表を突かれた木津は反射的にブレーキ・ペダルを踏んでいた。卓越した制動性能を誇るB−YCは、「ホット」の消えた横道の手前数十センチの位置に、その白い車体を静止させた。
 S−ZCが、続いて二両のG−MBがB−YCに並んで止まる。
 遠ざかり消えていくホット・ユニットの音。
 そのまま奇妙に長い十数秒が過ぎた。
 「……真寿美?」
 木津に名を呼ばれて真寿美ははっとした。
 「何故止めた?」
 「……前にも同じことがあったのを思い出して……それで思わず」
 「同じことって何だ?」と、不気味に抑えられた口調の問いが続く。
 「小松さんが撃たれた時みたいに、横道で待ち伏せを……」
 「……してなかったよな?」
 事実を突き付けられて、真寿美は言葉を返せずにコクピットでうなだれた。
 その耳に木津の溜息がいやに大きく響いた。
 「引き上げる」
 木津の指示に、ややあって簡単に了解を告げる安芸の声が受信機から聞こえてきた。
 

 スクリーンの中に示された車両の画像に、阿久津は興味深そうな顔つきで見入っていた。
 向かいあったソファでは、久我が静かにその様子を見つめながら、両手を膝の上で組んで阿久津の言葉を待っている。
 画像を順に送ったり戻したり、拡大したり縮小したりとディスプレイのスイッチを動かしながら、阿久津は時折「ふむ」だの「なるほど」だのといった声を漏らす。そして何度目かの「ふむ」の後、ようやく阿久津は顔を上げた。
 「なかなか懐かしいものを見せていただけましたわい」と言うその表情は、裏にある事情はそっちのけにして、純粋に興味を満たされた者のそれだった。だがもちろん久我が得たかったのはそんなものではなかった。
 「お分かりになりますか?」
 「饗庭の兄者も意外にやりますな。単なるやる気なしと思っとりましたが」と言いながら、阿久津は車両の映し出されたスクリーンを指差した。「やる時はやると。これだけはっきり撮ってもらえるとは思いませなんだ。これなら間違いっこありません」
 そして何も言わずにいる久我に、阿久津は待たれていた答えを告げた。
 「正真正銘、昔通りのホット・ユニット搭載車両に間違いなしですぞ。ユニット自体と、それからそれに合わせてフレーム周辺にも相当手が入っているものと思いますがな。ベースは量産車を改造した競技車両です」
 「製造元と型式記号は確認出来ますか?」
 確認などするまでもなく、阿久津はすらすらと要求された情報を口にした。それを久我は紙に書き留め、そして腰掛けたままながら、いつもよりは深く頭を下げた。
 「ご協力に感謝します」
 が、それを聞いた阿久津の表情もまたいつもとはやや違っていた。
 「よろしいのですな?」
 久我はそれには答えずに席を立った。
 「コーヒーはいかがですか?」
 

 同じ頃、昼時を過ぎて人気のなくなった食堂に、ラーメンをすする音が虚しく響いていた。そこに落ち着いた靴音が近付いて来た。
 「木津さん?」
 靴音の主が呼び掛けると、湯気の立つ丼に被っていた顔が上げられた。
 「何だ、姫か」
 「何だは失礼ですよ」
 紗妃は笑いながら木津の向かいの椅子を引いて腰掛けた。
 「で、何だ?」と丼に箸を突っ込んで木津。
 そのご機嫌麗しからざる口振りにも笑みを崩すことなく、紗妃は言う。
 「食べ終わるまで待ってます」
 ちらりと怪訝そうな視線を紗妃に投げると、木津は止めていた箸を動かした。
 しばらくして口から空になった丼を離してやや乱暴にテーブルに置くと、脇にあったコップの水を一気に飲み干した。
 「ちゃんと味わってますか?」
 訊ねられて問いの主の存在を思い出したかのように、木津は紗妃に顔を向けた。
 「あ、ああ……多分な」
 木津の答えを気に掛けた様子もなく、紗妃は丼とコップの載った盆を片手で取り上げると、もう片方の手で隅にあった灰皿を木津の前に引き寄せて立ち上がった。
 「片付けて来ます」
 木津はポケットの煙草を探りながら、黙ったままで頷いた。
 半分も吸っていない煙草が灰皿でもみ消された時、紗妃がアイスクリームのカップを手に戻ってきて、再び木津の前に腰掛けた。
 カップの蓋を取り、ひと匙すくうと、次の煙草に火を点けようとした木津に言った。
 「真寿美ちゃんの気持ち、酌んであげてください」
 火の点かなかった煙草をくわえたまま、木津は問いで返す。
 「何のことだ?」
 そうは言ったが、木津自身全く話が見えていないわけではなかった。帰還後、目の前の「ホット」を取り逃がすきっかけを作ってしまった真寿美に、木津はどうしてもいつもの調子で接することが出来なかったのだった。そんな自分の態度に、真寿美が弁解することもなくただ辛そうな表情をしていたのも木津は見ていた。
 舌の上でアイスクリームが溶けるのを待って紗妃が続ける。
 「目の前で人が怪我をしたり、もっと言うと亡くなったりするのは見たくないです。そうじゃないですか?」
 木津はその言葉に一つの面影を思い出していたが、何も言わずに煙草の灰を落とした。しかし紗妃の次の言葉に、思わず木津は反応を返していた。
 「特に自分の好きな相手だったりしたら」
 「だからなおさらだ」
 次のひと匙を口へ運ぼうとする紗妃の手が止まった。今の言葉のつながりが見えないといった顔だった。
 一方の木津は、能面のような無表情。
 「あ、えーと……」
 右手にスプーンを持ったまま、左のこめかみに人差し指を当てて、紗妃はそんな木津の顔を見つめる。逆にそれを見た木津が少し表情を崩した。
 「さまになってないぞ」
 「ですよね」
 言いながら紗妃はスプーンを口へ運ぶ。
 「……そうか」と木津は灰を落としながら煙草から目を離さずに言った。「姫だったら知ってるはずだよな、俺のいわゆる『事故』ってやつも」
 スプーンを持つ手を止め、紗妃は静かに頷き、そして言う。
 「ごめんなさい」
 次の瞬間、はっとしたように紗妃の頭が上げられた。何かに気付いた顔。
 木津は紗妃の顔にわずかに投げた視線を煙草へ戻し、落としたばかりの灰をまた落とそうとした。再び貼り付けられる無表情の中から、木津は小さく言った。
 「あいつには言うな」
 「真寿美ちゃんだって、『事件』のことは知ってます」と紗妃は言い返した。「だから、もしかすると気が付いてるかも知れません。木津さんが『ホット』を追っている、本当の理由にも」
 「だからってどうなるものでもあるまいに」
 「本当にそう思ってますか?」
 思い掛けずも厳しい口調に、木津は思わず顔を紗妃に向けた。口調と同じく厳しさを覗かせている顔。
 双方ともしばし言葉を発しなかった。
 やがて紗妃が少し寂しげに口を切った。
 「木津さんの時間は、あの『事件』からずっと閉じてしまっているんですね」さらに、ゆっくりと首を横に振りながら「時間だけじゃなくて、気持ちまで」
 木津はややうるさそうに煙草を吹かす。
 「木津さん」と、紗妃は椅子に掛け直すと、改まった調子で訊ねた。「『ホット』への復讐が終わったら、どうするんですか?」
 「真寿美もおなじ事を訊いてきたよ」と、多少調子を和らげて木津は応えた。「そうだ。全部承知の上でな」
 紗妃は驚いた顔で木津を見つめた。
 「その上で、奴の件には協力すると言われた。終わったら、はそれから考えようってな」
 身動きすることも忘れたまま、紗妃は木津を見つめて続けている。
 「……そうだったんですか」
 「閉じてるって言われりゃ、確かにそうかも知れないけどな」言いながら木津は煙草をもみ消した。「否定はしないさ。開ける鍵がなかったようなもんだからな」
 「それじゃあ、『ホット』がその鍵……」
 「になるかどうか」
 木津は煙草の最後の一本を箱から取り出すと、空き箱をテーブルの上に立て、真上から掌を叩き付けて潰した。その音にびくりと肩を震わせた紗妃に、木津はにやりとして見せながら続けた。
 「こうなるのが俺か奴か分からないしな」
 「そんなこと!」と乗り出した上体を戻して紗妃が言う。「……真寿美ちゃんの前では言わないで下さい。お願いですから」
 「冗談さ」と木津は加えた煙草に火を点け、長く吸った煙をゆっくりと吐くと、人差し指で潰れた箱をはじき飛ばした。箱はくるくると回りながら紗妃の前まで滑った。
 「こうなるのは奴の方に決まってる。だが正直な話、その後は考える気になれないな、実際に終わってみるまでは」
 硬い表情を見せたままの紗妃が言った。
 「真寿美ちゃんだって、早く終わって欲しいと思ってるはずです。それに木津さんを思ってのことですから、今日のことはもう責めないで上げて下さい」
 「ああ、そうするよ。姫に免じて」と煙草をくわえた唇に笑みを浮かべて木津は言った。「それとその溶けかけのアイスに免じてな」
 言われてカップに視線を落とした紗妃は、思わず落胆の声を上げる。
 スプーンの先は、液体と化したアイスクリームの中に没していた。
 

 

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