Chase 22 - 解かれた指

 
 その日の午前中、二度目に久我の執務室に入ってきた真寿美は、コーヒーのポットが既にほとんど底を突き掛けているのに気付いて、重い体をコーヒーメーカーの載る小テーブルの前へと進めた。
 まだ頭痛のさめきらない真寿美ははっきりと意識しはしなかったが、午前中だけでポットが空になるということは、今までにはなかったことだった。
 ドリップのコーヒー殻を払う真寿美に、久我は暫時席を外す旨を告げて立ち上がった。
 「はい。すぐお戻りですよね?」
 「はい」と答えながらドアの前まで進むと、そこで久我は立ち止まり振り返った。
 「具合が良くないのなら、午後から帰っても構いません」
 思いがけない言葉を聞いて、真寿美は手元を狂わせる。ミルに入るはずだったコーヒー豆が床に散らばり、ばらばらと音を立てる。
 「あっ……ちゃぁ……す、すみません」
 そんな真寿美に、久我は静かに同じ言葉を繰り返した。
 「い、いえ、大丈夫です」
 真寿美は床のコーヒー豆を追っていた視線を久我の顔へと移す。そこに真寿美が見たのは、予想していたいつもの淡々とした表情でも、また不機嫌さの影でもなく、むしろ奇妙なまでに穏やかな顔だった。
 自分の顔を見つめる真寿美にそれ以上は何も言わず、久我は執務室を出ていった。
 真寿美もそれ以上は考えずに、こぼした分の豆をミルに追加して、スイッチを押した。カッターの回る音に導かれるように、芳香が立ち上ってきた。
 

 医師がライトを消す。それが合図ででもあったかのように、横たわっていた木津は体を起こすと、ものものしい検査機器の中をくぐり抜けて来た。
 「お疲れさまです」と医師。「結果は十分もあれば出ます。よろしければそちらでお待ちいただいても結構ですが?」
 「ああ、そうさせてもらうよ」と伸びをしながら木津。が、その表情が曇った。「で、言い忘れてたんだが、一つ気がかりなことがあってさ」
 医師の眉がひそめられた。
 「何か自覚症状がおありでしたか?」
 「自覚症状と言うわけじゃないんだが……実は」
 木津はそこで言葉を切った。
 「……いや、結果を見てからにしよう」
 医師の表情に落ちた不安の影は、それを聞くと一層濃くなった。
 神妙な面持ちで検査室を出ていく木津を見送ると、医師は検査機器の裏側に回り、資料の吐き出されるのを待った。
 一方の木津は、隣の部屋に入って丸椅子に腰を下ろすと、場所柄煙草を吹かすわけにもいかず、手持ち無沙汰そうにドアを見つめている。やがてそのドアが開いて、資料を手にした医師が入ってきた。その足取りはどことなく不安げなものに思われもした。
 「木津さん、まさかと思いますが……」
 木津がゆっくりと頷くのを見て、医師は資料をライトボックスと机との上に広げた。
 ライトボックスのスイッチが入れられると、そこには木津の頭部が浮かび上がった。
 医師がペンの先でその上の一点を指した。
 「瘤、ですか?」
 「ああ、昨夜真寿美にしこたま殴られた」
 「……先に申し上げておきますが」と、淡々とした口調で医師は言った。「検査上、何ら問題はありませんでした」
 と、木津が表情を一変させる。その頬には神妙さに代わって悪戯する子供のような笑みがあった。
 「ま、そうだろうな。ただ、殴られた時に、例のギプスが外れたらどうすると言っちまった手前、一応は確認しておこうと思ってさ」
 医師もつられたように笑う。
 「つまりは冗談、と」
 「ま、そういうこと」
 医師は今度は机の上の資料から一枚を抜き出すと、その中の図を指し示して口を切ろうとした。が、インタホンからの女の声がそれを遮る。
 「久我です」
 医師と木津は思わず顔を見合わせる。
 「お邪魔してもよろしいですか?」
 俺がここにいるのを知ってる口振りだな、と思いながら、木津は問い掛けるような医師の視線に頷き返した。
 「どうぞ」と医師。
 ドアが開く。入ってきた久我は、座っている二人の横に真っ直ぐ進んだ。
 医師が脇から椅子を引き出して勧め、久我は礼を言いながら腰を下ろす。
 「検査はお済みですか?」
 医師は今しがた木津に見せようとした資料を、久我と木津の間に広げ直し、再びペンを取った。
 「今木津さんに説明しようとしていた所だったのですが……」と切り出すと、図を指し示して簡潔に説明をした。曰く、木津の言うギプス、即ち傷痕に喰い込んだ小片を固定する充填剤のひけは、当初の予想をやや下回っており、このペースが保たれれば、次回の施術は予定の三カ月以上先になるであろう。
 「そいつぁ重畳だね」と木津。「ただ、俺としては」と、その目が久我に向けられる。「早いとこその追加の手術をしなくて済むような体になりたいんだがね」
 「間もないうちに、ご期待に添えるものと思います」
 「本当か?」と、半分以上は信じていない口振りの反応を返す木津。「今まで、出ていくたびにスカだったり影武者だったりだったからな。それとも、向こうも影武者の役者が尽きたかい?」
 机の上の資料をかき集め、ライトボックスのスイッチを切ると、医師は何も言わずに席を外した。ここからの話は自分の領域外だと言うような態度だった。
 わずかの間そちらに向けられていた久我の目が木津の方へ戻された。
 「間もなく『ホット』の側から何らかの行動を起こして来るであろうことは間違いありません」
 木津は無意識のうちにポケットに煙草を探る自分の手に気付いてそれを止め、言った。
 「確か前に、あんたは『ホット』が何かやらかす前には結構な空白の期間があるもんだと言ってなかったか? その段で言えば、昨日の今日おっぱじめてくるってことはないだろうに」
 「今日明日中にとは言いません」と久我が切り返す。「しかし、今度は決して長い期間をおくとは考えてはいません」
 木津の片方の眉が上がった。
 「考えていない? それはあんたがか?」
 久我の表情は変わらない。
 「そうです」
 「どの程度当てにしてていいんだかね」
 「これまでの出動で随分失望されてこられたことは重々承知しています。しかし、あなたの存在が『ホット』に対して相当のインパクトを与えていることもまた事実です」
 「持ち上げるなよ」あまり愉快ではなさそうな顔で木津。しかし言葉を返さない久我の目を見て、この女がそんな意図で言葉を発するような人間ではなかったことに改めて思い至った。
 「それは……俺がいるから、ってことか?」
 「B−YCに搭乗しているのがあなたであることは、あちらも認知していると思います」
 「で、奴の目的が何であれ、その邪魔をするのに一枚かんでるのが俺だってことが、奴を焦らせてる、と言うんだな?」
 「そうです」と久我は頷いた。「あちらの目的が何であれ」
 久我の今の切り返しに、ふと思い付いて木津は訊ねた。
 「そう言えば、奴の目的ってのは一体何なんだ? 考えてみたこともなかったが」
 「何故お考えになられなかったのですか?」
 思いがけない久我の問い掛けにわずかに浮かんだ不審の色は、すぐに冷笑に取って代わられた。
 「決まってるじゃないか。奴の都合なんか関係ないからさ」
 久我は音もなく立ち上がって言った。
 「結構です」
 そして呆気にとられている木津を振り返ることもなく、部屋を出て行った。
 「って、おい、俺の質問はどうなったんだよ?」
 

 あの人の目的……
 執務室への途を歩きながら、久我は木津の問いを思い返していた。
 あの問いに答えられはしない。あの人の今の行為に、目的など存在しないのだから。あの人はただ自分を駆り立てる動機に闇雲に身を任せているに過ぎない。
 その時、何の前触れもなく、阿久津の言葉が脳裏をよぎった。
 「だが方向は違うとは言え、ディレクター殿のやってることは、実際のところ、あちらさんと大差ないのではありませんかな?」
 久我の顔色が変わった。誰かが居合わせたならそれに気付いたであろう程に。が、緩んだ足取りを元の速さに戻し、額に掛かる髪を払いのけるように仰向けた頭を軽く振ると、久我は部屋への途を急いだ。
 私のしようとしていること、していることは、あの人と同じなどではない。私には、少なくとも目的はある。あの人とは違って。
 そう胸中で言う久我の足が、今度は完全に止まった。
 あのことは、「目的」なのだろうか? 行動の方法に多少の違いがあるだけで、阿久津主管の言う通り、私も「動機」だけで動いているのではないのだろうか?
 職員の一人が頭を下げながら久我の脇を通っていく。それで我に返った久我は、もう一度頭を軽く振ると、再び歩を進めた。
 今になってどうこう考えるべきではない。もうここまで進んできたのだから。しかし、あの程度のことでこれほどに動揺するとは、私もまだどこかしら甘い部分が残っているらしい……
 それ以上は考えることなく、久我は執務室へ戻った。
 扉が開くと、まだ真寿美がそこにいて、散乱したコーヒー豆を探すのに躍起になっていた。他人には決して気取られないような微苦笑を一瞬だけ浮かべると、久我は真寿美に適当なところで切り上げるようにと声を掛けてデスクに腰を下ろした。
 

 インタホンから、いつもとは違ってやや重い声が聞こえてくる。
 「峰岡です」
 木津が応えると、静かにドアが開いて、真寿美が入ってきた。
 「おはようございます」
 「ちっす」と、ベッドの上で上体を起こし、敬礼よろしく額の脇に添えた右手をぱっと前方に払って見せると、木津は言った。
 「二日酔いの具合は……って、聞くまでもないな、その顔は」
 「そんなにひどい顔してますか?」真寿美は両の掌で頬を覆って言う。「ディレクターにも言われたんですよ、調子悪かったら帰ってもいいって」
 「いいとこ幸いで帰っちまえばいいのに」
 苦笑しつつ、真寿美は言う。
 「そう言えば、仁さん今朝は検査だったんですよね。どうでした?」
 「ああ、何の問題もないどころか、むしろ順調だったらしい」
 そこで一旦言葉を切って、真寿美に腰掛けるよう促し、真寿美がそれに従うと再び話し始めた。
 「昨日作ってもらったたんこぶも影響はなかったしさ」
 「たんこぶ、ですか?」
 「……覚えてないか?」
 「え、え、え、え? 作ってもらったって、まさか、あたしがですか?」
 狼狽する真寿美に目を細める木津。
 「ご、ごめんなさい! 全然覚えてないですけど、ごめんなさい!」
 「あ、頭は下げるな。また気分悪くなるぞ」
 言いながら木津は片手を伸ばし、いつもの勢いで下がってきそうだった真寿美の額を押さえて止めた。
 「で、その話を聞いてる最中におばさんが押し掛けてきてさ」
 木津の手を離れて上げられた真寿美の顔には、「あれ?」という表情が浮かんでいる。
 「あ、あの時仁さんの所に行ったんですね」
 「でさ、近いうちに『ホット』とのけりを付けるようなことを言ってったんだけど、何かそんな兆候ってあったか?」
 また「あれ?」という顔の真寿美。
 「……いいえ、そんな感じは全然なかったですけど」
 「そりゃそうか」と木津が言う。「おばさんがそんなバレバレの態度なんか見せるわけないよな」
 「あ、そう言えば」
 「ん?」
 「全然関係ないかも知れませんけど、今日、コーヒーの売れ行きがよかったんですよ。一時間半で完売でした」
 「いつもに比べて上手く入れられたとかじゃないよな?」
 「そうじゃないと思いますけど」
 「……関係なくはなさそうだな」
 「仁さん、探偵か何かみたいですね」
 「それじゃ、次の商売は探偵にするか」
 「次の?」
 木津は小さく笑って言った。
 「奴とのけりが付けば、俺がここにいる理由もなくなるしな」
 はっとした真寿美は、少しうつむき加減でぽつりと言う。
 「そう……なんですね」
 「ん?」
 再び上げられた真寿美の顔には、微笑が浮かんでいた。
 「考えてもみませんでした、終わった後のことなんて」
 「実を言うと俺もそうだ」
 木津は例の溶けかけたようなパンダのキーホルダーを摘んで胸のポケットから白虎のカード・キーを引っ張り出すと、くるくると振り回した。
 「今までそれしか考えてこなかったからな」
 真寿美は無意識に目を机の隅に向ける。あのポートレートはまだ同じ場所に伏せられていた。
 ややあって、木津が自分の視線を追っているのに真寿美は気付いた。
 「どうした? 黙り込んじゃって」
 「あの、仁さん?」
 「ん?」
 「えっと……あの、ですね、もし、もしですよ? もし『ホット』のことが無事に終わったらなんですけど……」
 「無事には終わりそうもないか?」ごく穏やかに木津が口を挟んだ。「まあ、向こうも自分の命が掛かってると分かれば、そういうことになるかも知れないな」
 話の腰を折られて、真寿美は寂しげに笑いながら言う。
 「そんなこと言わないでください」
 「もしを連発したのはそっちだろ?」
 「そういう意味じゃないんです。仁さんは絶対無事に一件落着まで行けます」
 「んじゃ、どういう意味だ?」
 「……その後のことです」
 真寿美の視線が、また裏返しのポートレートに向けられる。今度は木津もそれにはっきり気付いていた。
 真寿美は視線をそのままに、なかなか続きを切り出そうとしない。
 先に言い出したのは木津の方だった。
 「見たんだよな? それ」
 視線を床に落とし、顔だけを向き直らせた真寿美は小さく頷いた。
 木津も先を続けなかったが、それは真寿美とは違って、言うべき言葉を探すのに手間取っているといった様子だった。
 ようやく開かれた口から出てきた、表情を消した台詞はこうだった。
 「……もういない奴だけどな」
 「……知ってます」
 「そうか……」
 真寿美は一度閉じた目を開いて、木津に向けた。その顔は真剣なものだった。
 「だから、協力します。『ホット』のこと」
 「ああ……悪いな」
 「そんなこと言わないでください」と真寿美が繰り返した。「あたしが今出来るのは、それだけですから……今は」
 木津は薄い笑みを浮かべると、言った。
 「ありがとう」
 真寿美は黙って首を横に振った。
 「で、その後の話は……」木津がそう言いさすと、真寿美がそれをかき消すように、
 「みんな終わってからにしましょう」
 「それでいいのか?」
 「はい」
 応える真寿美は笑っていた。
 

 結局その日が終わるまで勤務を続けた真寿美は、終業の時刻にまた久我の執務室に顔を出した。
 「帰りますけど、何かありますか?」
 「特にありません。お疲れ様」
 そう応える久我の声がややかすれているのに真寿美は気付いた。
 「えーと、コーヒーはまだありますか?」
 その午後も、真寿美は都合三度コーヒーを入れ替えていた。
 「ええ、大丈夫です。それより、自分の二日酔いの方を気になさい」
 真寿美は舌先を覗かせて苦笑いをする。
 「それじゃ、お先に失礼します」
 部屋を出て行く真寿美の背中が閉じるドアに遮られて見えなくなると、久我はカップの底に残ったコーヒーを一気に呷り、長い息を吐きながら作業中の画面に目を落とした。
 が、それもほんのわずかの間だけで、久我はカップを手に立ち上がると、コーヒーのポットの前に立った。
 注がれるコーヒーはやわらかな湯気と共に芳香を立ち上らせていたが、久我はもうその香気は感じてはいなかった。ただ機械的にコーヒーを胃の中に流し込んでいる、といった感じでさえあった。
 デスクに戻ると、今度もまた味も何も感じてはいないかのようにカップを傾ける。そして視線はさっきまでと同じく、作業中の画面に注がれた。
 その画面には、わずか数行の文章が記されている。いや、正確には、書かれているのは車両の型式記号とアドレスで、文章は一行だけだった。その文章を、昨日からもう何度目になるか分からないが、久我は目で追った。
 『どこから攻めるも貴女次第です。結果はいずれにしても同じだと予め申し上げておきますが。』
 久我は机に肘を突き、片手に額を埋めた。
 これ以上何を迷うことがあるのだろう? 私はこの時をずっと望んでいたのではなかったか? いつか必ず終わらせなければならないと思っていたことではなかったか? もう戻ることは出来ないのだから。
 頭の中でそれに続く「しかし」を、無理矢理久我はかき消した。
 と、その時インタホンから声がした。
 「ディレクター殿いるかい?」
 久我は顔を上げると、空になった右手で画面の表示を切り替えた。
 「どうぞ」
 声の主の木津が入ってきた。
 「忙しいか?」
 「構いません」
 木津はソファの方へ行きかけて、訊ねた。
 「コーヒー余ってるか?」
 「どうぞ」と応えながら、真寿美にも同じようなことを言われたのをふと久我は思い出した。そして自分のカップを手に取ると、自分もソファへ向かい、木津が腰を下ろすのを待った。
 木津は客用のカップに半分だけコーヒーを注ぎ、もう半分をミルクで満たして一口すすってからようやくソファに腰掛けた。
 久我は黙ったまま木津が口を切るのを待っている。その様子をちらりと見ると、木津はカップをテーブルの上に置いた。そして口調はいつも通りのままで、
 「二つほど訊いておきたいことがあってさ」
 「何でしょう?」と応える久我の口調もそれに劣らぬほどの平静さを保っている。
 「まず一つ目。今朝のあんたの話の根拠を知りたい」
 「今朝の、とおっしゃいますと、近日中にあなたの最終目的は達せられるであろうと申し上げたことですか?」
 「その通り。何でああまではっきり言いきれるのかが知りたくてね」
 「そしてもう一つは?」
 「いや」木津は首を横に振った。「一つ目を聞いてからにしよう」
 久我の視線がテーブルに置かれたカップに落とされる。その手が静かにカップを口許へと運ぶ。
 「当局が内応者の調査を始めたのはお話し申し上げたと思います」
 「ああ、ずいぶんと前にな」
 「その結果が徐々に出始めています」
 「そいつぁちょっとばかり安易すぎるんじゃないか?」と木津が冷笑に近い表情を見せながら言った。「締め上げたら簡単に吐いたってのは無しだぜ。その程度の連中が、当局の根っこまではまり込んでバレずにいられるはずがないじゃないか」
 「その通りです。内応者個別の取り締まりの結果という意味ではありません」
 「それじゃあ、どういう意味での結果なんだ?」
 「『ホット』はこの調査以来、当局という重要な情報源への足がかりを失いつつあります。それによって行動が起こしにくくなってきているわけです」
 「堀が埋まってきたんで浮き足立つだろうって話か……結構気の長い話じゃないのか、それはそれで」
 「いえ、必ずしもそうとは言い切れないと思われます」
 「てぇと?」
 「例えば、私たちはこれまで『ホット』に対しVCDVで対応してきましたが、『ホット』は必ずこれに対して新規開発を以て応じてきました。つまり『ホット』は自分の妨害者を静観できる人物ではないということです」
 黙ったまま聞いている木津の眉間には縦皺が寄っていた。どうも納得できないという風な表情だった。
 「それは一般論過ぎないか?」
 「そうは思いません」
 久我の応えに木津の片眉がぴくりと上がる。
 「どうもそこんとこが分からないんだよな……あんた、なんでそう断言できるんだ? 『ホット』とお知り合いでもあるまいに」と言いかけた木津の表情が固まった。
 「あんた……まさか個人的に奴を知ってるんじゃないだろうな?」
 答える久我の口調は相変わらず平然たるものだった。
 「当局から捜査の一部を委託されている以上、必要な情報は得ています」
 「だからそうじゃなくってさぁ」
 口先を尖らせる木津に久我が言う。
 「そこに至る経緯はどうであれ、私たちはあなたに『ホット』を追う、いえ、追い詰める手段を提供するということになっていました。それではご不満ですか?」
 「どうのこうの言わずに黙って従ってろってわけか?」
 「現在に至るまで結果を導き出せていないのは私の力不足もあります。それについては申し訳なく思っています。ご信頼いただけなくなって来ているとしてもやむを得ないとも思います」
 「あんたに下手に出られるのも、それはそれで不気味だな」と苦笑いの木津。「まあいい。もう一度は信じておくことにするさ」
 軽く頭を下げる久我。
 「それで、もう一点は?」
 「ああ、この分だと随分と先の話になりそうだが、一応訊いておくか」
 木津はそこで言葉を切った。
 久我は黙って続きを待つ。
 「……『ホット』が無事くたばってくれたら、俺はどうすりゃいいんかね?」
 久我の眼差しをよぎった微かな疑問の色合いが、一瞬の後に濃さを増した。
 「俺がここにいる理由の根本に奴がいる以上、奴がくたばったらそれまでってことになるだろ?」
 「テスト・ドライバーとしての勤務を続けることをお望みならば、LOVEの正規の所員として契約をすることも可能です」
 「そいつぁありがたいな。だが」にやりとしながら木津は言う。「それまで俺がしゃんとしてればいいけどな」
 久我は黙ったまま木津の顔を見つめている。
 「さっき、真寿美に言われて初めて気がついたんだ。終わった後ってのがあるってことにさ。そんなこと考えてもいなかったから、済んだら気が抜けちまうんじゃないかと思ってな。まあ、あんたに言う話じゃないんだろうけど」
 そう言った時、真寿美の面影を思い出した自分自身に不審を抱きながら、ソファの肘に両手を当てて腰を浮かせ、尻の座りを改めると、ポケットの中でキーホルダーを弄びながら木津は訊ねた。
 「それに、ここ自体はどうなるんだ? 奴の一件が終われば、ここに与えられてる捜査権だって召し上げになるんだろ? MISSESも解散ってことになるんじゃないのか?」
 久我はすぐには返事をしなかった。
 木津がコーヒーを一口すする。
 「今後」と、ややあってから久我は口を切った。「当局から新たに甲種手配対象者の捜査支援を求められないとも言えません」
 「そいつぁ俺には関係のない相手だな」
 「そうです」と簡単に久我が言う。
 「それじゃ俺は本気にはなれないだろうけど、ここの心配は必要ないってわけか。ま、俺が心配しなきゃならない必要もないだろうけどな」
 「峰岡が何か申し上げましたか?」
 「真寿美が?」
 頷きもせず久我は続ける。
 「峰岡に何かお聞きになったとおっしゃいませんでしたか?」
 「いや、別にMISSESのことじゃないさ。個人的な話だ。多分な」
 「そうですか」
 「ああ」
 残りのコーヒーを空けた木津は、空になったカップを手に立ち上がった。
 「お邪魔様」
 「もうよろしいのですか?」
 「ああ」
 久我も立ち上がって言った。
 「あなたのご期待に添うようなお応えは差し上げられなかったと思いますが」
 「俺自身よく整理が付いてないところだったしな、事後のことなんかは」
 久我は軽く頭を下げ、再び頭をもたげると淡々とした口調のまま言った。
 「事が終わるのも、さほど遠い先のことではありません。全てはそれからでもいいのではないでしょうか?」
 木津は肩をすくめた。
 

 木津の出ていった後、久我は空になった汚れきったカップを満たしもせず、デスクの椅子に身を預けていた。
 あの人のことが終わったら……
 それは久我もまた考えていないことだった。 私もあの人を止めることだけを考えてきた。それは木津さんと同じ。そしてその理由の半ばも彼と同じ。だが、と、これまで何度と無く胸の中で押し留めてきた言葉が思い返されてきた。あの人の行動の動機も、裏返せば私たちと同じと言えなくはない。
 結局、と久我は思う。阿久津主管の言った通り、私たちは皆同類なのかも知れない。
 気怠げに立ち上がると、久我は窓の前に立ってブラインドの隙間を細い指を宛って拡げ、外を覗いた。殺風景な工場区域を夕闇が覆い始めている。その中を一つ二つと帰りの車の前照灯が走り去っていく。
 久我はしばらくの間そのまま闇に飲み込まれていく風景を見つめていた。
 

 

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