Chase 21 - 振り払われた涙

 
 修理台に横たえられた白虎を一目見るなり、阿久津は顎に手をやってうなった。
 「こいつぁあまた……何とも派手に抉りおったな」
 「あんまり言うなよ」と木津。そして振り返る。そこに由良の姿はない。
 「ああ、訳は聞いとる。それにしても」と阿久津はもう一度損傷箇所を見つめる。「正直な話、かなり危ないところだったぞお主」
 「へ?」
 「一番内側の防衝板まで飛んじまっとる。これでもうちょっと銃の出力が上がってたら、お主、コクピットと心中しとったところだ」
 「……ほんと?」
 「本当も真実も本気も真剣だ」
 木津はシャワーの後の乾ききっていない頭をばりばりと掻いた。跳ねる飛沫を避けるようにして阿久津が言葉を継ぐ。
 「こいつぁあますます由良君には言えまいて」
 「まあ誰も言わないだろうがさ。本人の姿が見えないってのに、みんながみんな、まるで腫れ物に触るみたいな調子だぜ」
 「ディレクター殿はいかがかな?」と皮肉な口調で阿久津が言った。
 「さあな」と木津。「ま、おばさんが何を言おうが言うまいが、由良にはこたえるだろうけど」
 阿久津は修理台のステップをゆっくりと上がりながら言った。
 「こっちの領分じゃあないが、アックス・チームの戦力減も厳しかろうな。これで由良君がめげちまうと、後はやる気なしの饗庭の兄ちゃんだけになっちまうからな。安芸君も苦労が絶えんわ」
 それを見上げながら、腕を組んだ木津が訊ねる。
 「白虎も早いとこ修理してもらわないと、その穴埋めが出来ないしな。どの程度掛かりそうだ?」
 損傷部分に突っ込んでいた首を引き抜いて、阿久津が答える。
 「最優先でやっても一週間は掛かろうな」
 「そんなに?」
 「躯体部の結構深いとこまで来とるからな。ここまで来ると、部品の交換だけじゃ済まんのだよ。それにこいつみたいなワン・オフの車両にゃ、市販車みたいに交換部品のストックがあるわけでもないし」
 「……一週間か」
 「もっとも、あと修理せにゃならんのは由良君の玄武だけだっちゅうことだし、作業負荷はさほどじゃなかろうからな」
 「玄武の方はどうなんだ? 現場じゃ相当いってるように見えたけど」
 「予備調査させたところによれば、肩のユニットがいかれとるのと、あとは装甲のガタだけだ。乗員のケアに比べりゃ、遙かに楽な仕事だな」
 木津は天井を仰ぐと大きく息を吐いた。
 

 久我の執務室から詰所に戻った安芸は、由良の姿を探したが、大柄ではないががっちりとした体躯と、その上に載っている丸顔は見当たらなかった。
 「由良さんどこにいるか知りませんか?」
 訊ねられた饗庭は一言否定の答えを返しただけだった。
 「そうですか……」
 「ディレクターのお呼びですか?」
 振り返ると、黒髪をなびかせて声の主が詰所に入ってきた。
 「いえ、そうじゃないんです。ただ、どこに行ったんだろうと思って。紗妃さんは見かけませんでしたか?」
 首を横に振りながら紗妃は腰掛けた。
 「戻ってきてからは見てないです。でもディブリーフィング召集がかかれば……」
 「ああ、それなんですが」と安芸が言葉を挟んだ。「今回は全員でのディブリーフィングはしないそうです」
 意外そうな顔で問い返す紗妃と、わずかに反応を見せただけの饗庭を見て、つくづく対照的な兄妹だと安芸は思いながら言った。
 「僕と峰さんとは話を聞かれましたけど。後は当局からの報告を待って、とりあえずはそれで済ませるみたいです」
 「珍しいですね。出動後のディブリーフィングがないなんて、確かここに来てから初めてです」
 「アックス・チームが出来てからでも初めてですよ」と安芸。「やっぱりこういう形しか採れないんですね、あの久我ディレクターでも」
 紗妃が少し首を傾げるが、すぐに合点のいった顔になる。
 「そうですね。全員集まれば集まったで肩身が狭いでしょうし、かと言って一人だけ外すのもなおつらいでしょうしね……」
 その背後でいきなり饗庭が立ち上がり、二人には一顧をだに払わず、無言で詰所を出ていった。
 「あれにも困ったものですけど」と紗妃。「アックス・リーダーとしては使いにくいメンバーでしょう? 兄貴って」
 安芸は答えずに微苦笑して腰を下ろした。だが紗妃の目が答えを促すように注がれているのを見て、言葉を選ぶようにして言った。
 「寡黙だから、時々コミュニケーションに困ることはあるにはありますけどね」
 紗妃は天井を仰ぐと小さく息を吐いた。
 

 件の由良が姿を現したのは、木津の立ち去ってしばらく後の作業場にだった。だが作業台には近付くことはなく、出入口の端から中を窺うだけだった。そしてその視線の先にあるのは、自分の乗機ではなく、誤射だったとはいえ自分が傷付けてしまった白虎だった。
 作業者は黙々と白虎の周囲で立ち働いている。彼らの話し声から白虎の損傷状況を伺い知ることは出来なかった。しかしそれでもなお由良は白虎を見つめ続けた。抉られた脇腹に視線が届いたとき、由良の目にはその場面が浮かんだ。
 残る一体の人型に向けて衝撃波銃の銃口を向けたハーフのG−MB。人型は遠巻きに牽制の挙動を続けた。と、その両腕の銃口がG−MBと、同時に白虎にも向けられた。反射的にトリガーを引いた由良の指。人型は自らは撃つことなく回避し、そこから猛然とG−MB目がけて突っ込んできた。
 白虎が銃撃を始めた。それを避けつつ、人型が撃つ。同じく回避しつつ由良が再びトリガーを引いたその時だった。無理の生じていたG−MBの左肩がコントロールを失って大きく横に振れた。衝撃波の発する銃口は、白虎へと向いていた。
 木津がG−MBの異常に気付いたのは、白虎の躯体が抉られる衝撃を感じてからだった。バランスを失う白虎に辛うじて膝を突かせ、転倒だけは免れると、木津はG−MBを見た。その左腕は、自らの放った衝撃波の反動で肩先からぐらぐらと揺れ動いている。
 G−MBの顔が白虎に向いた。
 コクピットの由良は目の前の事態をすぐには呑み込めないようだった。
 「き、木津さん……」
 「構うな!」
 そこまで思い出すと、由良は目を固く閉じて頭を横に振った。と、肩に置かれた手に、由良はびくりと大きく体を震わせた。
 振り向くと、阿久津がいつもと何ら変わりない口調で話しかけてきた。
 「そんなとこから覗いとらんで、入ってくればよかろうに」
 由良は阿久津の表情を見ることが出来なかった。目を伏せたまま、うわずりながらこう答えるのがやっとだった。
 「いえ……いいんです」
 阿久津の片方の眉が少し上がる。
 「お主の玄武なら、明後日にゃ修理完了しとるぞ。心配無用」
 由良は何も応えず、曖昧な表情を浮かべ、それに気付いた阿久津はもう一度眉を動かしたが、本当に由良が訊きたかったのであろう白虎の状況については何も触れなかった。
 しばらくしてから、絞り出すような小声で一言礼を言うと、由良は足早にその場を立ち去った。
 残された阿久津はその後ろ姿を見ながら一つ息を吐いた。
 

 「お呼びですか?」
 真寿美が執務室に入ると、珍しく久我はデスクで手を止めていた。その視線がゆっくりと真寿美に向けられる。
 「安芸さんと由良さんをここに呼んでください」
 そんなことか、と真寿美はやや拍子抜けな面持ちだったが、すぐに久我の意図するところを汲み取った。
 「由良さんは帰ってきてから誰とも顔を合わせてないみたいです。探してこなくちゃ」
 久我は答えずにカップのコーヒーを飲み干した。それに気付いて真寿美はおかわりの要否を訊ねるが、久我はそれに問いで返す。
 「あとどの位残っていますか?」
 「えっと……あと四杯分です」とコーヒーメーカーをのぞき込みながら真寿美が答える。「入れ替えますか?」
 「二人との話が済んでからお願いします」
 「分かりました」
 一礼して真寿美は部屋を出ていく。
 ドアが閉じると、久我はデスクの上に視線を戻した。そこには阿久津が出してきたB−YCの修理見積書が開かれている。
 もう一度久我はそのページを繰った。木津が聞いたのと同じく、そこには修理に要する期間が一週間と記されている。さらに、続けて今回の件で明らかになったB−YCの構造上の不備についても何点かが挙げられている。
 久我は目をゆっくりと閉じると、安芸と真寿美から聞いた話を思い出していた。今度の人型は、前のものよりもはっきりと性能が上がっていると感じられる。二人は口を揃えたようにそう言っていた。
 開発のペースが上がってきている。VCDVに匹敵する機体を出してくるのも時間の問題だろう。それは即ちあの人との……
 久我は自分自身でさえ気付かない程に小さく、一つ息を吐いた。
 それから間もなく、インタホンから声が聞こえた。
 「安芸です。入ります」
 今日二度目のこの部屋に入った安芸は、促されるままにソファに座ると、そのまま待つようにとの久我の言葉に、あと誰が呼ばれているのかを察して、黙って頷いた。
 久我はデスクで資料に目を通し、また作業用のディスプレイ・スクリーンの中を何やらかき回している。その様子を眺めるともなく眺めながら、黙ったまま安芸は待った。そしてこれから久我の切り出す内容に想像を巡らせようとした。この組み合わせで呼び出されれば、普通は叱責なのだろうが、久我ディレクターの場合それは考えにくかった。でなければ誤射の件の事情聴取だろうか? それもまた可能性は薄かった。だったら……
 安芸からほとんど十分近く遅れて、インタホンから声が聞こえた。ごくごく小さく、そしてぼそぼそとした声が。
 「……由良です」
 「お入りなさい」という久我の応答は、間髪を入れずに発せられた。その口調は決して厳しいものではなかったが、しかし聞く者に有無を言わせぬような響きを帯びていた。
 ドアが開き、安芸が視線を移す。
 憔悴し切った表情の由良は、決して大柄ではないその体を一層小さくして入ってきた。
 視線は中にいる二人のどちらをも捉えない。
 だが気にした様子もなく久我は掛けるように勧めた。
 わずかに上げられた由良の目はソファを見、そして安芸の隣に小さくなって座った。
 作業に一区切りを付けた久我がゆっくりと立ち上がり、二人の方へ歩み寄る。その手には資料も何も携えられてはいない。
 腰を下ろすと、前置きの一つもなく久我は切り出した。
 「来ていただいたのは、アックス・チームの編成に関してのお話のためです。今回、アックス・リーダーを安芸さんから由良さんに引き継いでいただこうと思います」
 安芸の想像をも完全に超えていたこの言葉に、思わず由良も頭を上げた。
 「え……?」
 かすれた由良の声が、辛うじてそれだけを言う。
 久我は繰り返すことなく、よろしいですねと同意を求めただけだった。
 安芸は了解の意を告げる。その横顔に由良の視線が向けられた。
 それに気付いて安芸が由良の顔を見返す。その表情は既に全てを納得しているかのようなものだった。
 一人取り残されたような焦燥を覚え、思わず由良は口を開いた。
 「どういう……ことなんですか? 安芸リーダーの代わりに、私が、なんて、何故なんですか? それも、こんなことの後に……」
 「ローテーションです」
 簡単にそう久我は答えた。
 「でも……でもそれだったら、派遣人員の私より、LOVEの正社員の饗庭さんが……」
 久我は殊更口調を変えることもなく言う。
 「饗庭さんはあなたよりMISSESでの経験は短いです。それを考えれば、ローテーションという意味であなたが任に当たるのが妥当だと思います」
 開きかけた口を閉じながら、由良はうつむいた。その様を無言で見つめていた安芸が久我に視線を向けると、再びはっきりと了承の意を告げた。
 なおも顔を上げない由良に、久我がゆっくりと目を向け、そして問う。
 「由良さんもよろしいですね?」
 応えはない。顔も上げられない。
 久我は静かに待った。
 優に一分は続いた沈黙を、ほとんど聞き取れないほどにかすれた由良の声が破った。
 「……務まる、でしょうか?……私に」
 と、不意にその顔が上がり、声が大きくなる。
 「僚機を撃って損傷させた私に、指揮官が務まるでしょうか? 務まるんですか?」
 この豹変にも久我は全く態度を変えぬまま、静かに訊ねた。
 「あなたは、ご自分が当局の指揮官に何とおっしゃったかご記憶ですか?」
 この問いを聞いて合点のいった表情をした安芸の横で、問いかけられた当の由良はやや呆然とした様子でいる。唇は動かない。
 久我が静かに続けた。
 「任務中の被害は、出動中の各員がその責を負う。だから指揮官の責任問題が任務遂行の妨げになることなどない。そう言われたはずです」
 由良の唇が肯定の言葉を返すかのように微かに動いた。
 「そのように言えるならば、MISSESのリーダーとしての基本的な姿勢はご理解頂けているものと思います」
 由良の喉が動く。
 久我は口調を変えずに言った。
 「では、次回の出動時から由良さんにアックス・リーダーをお任せします」
 由良は久我の顔を、半ばすがるような表情で見つめていたが、やがてその首が、うなだれるかのように縦に振られた。
 「……分かりました」
 安芸がその言葉に一つ小さく息を吐いた。
 

 久我の決定を安芸から聞いた饗庭は予想通りに簡単に了解の応答を返しただけだった。その分の補填をしようというわけではなかっただろうが、木津が反応を示した。
 「へえ、ローテーションねえ。進ちゃん、アックス出来てどのくらいになるっけか?」
 「今年で喜寿ですね」
 「おいおい……」
 安芸と共に詰所に戻っていた由良は、しかしこの台詞にも笑うことはなかった。もっとも安芸自身は笑わせるのが目的の単なる冗談で言ったつもりではなかったが。
 木津は冗談のつもりで続きを始める。
 「そのペースでローテーションしてたら、饗庭兄ぃには順番が回ってこないじゃないか」
 「サイクルが米寿に伸びたらどうします?」
 「よせって」
 「どっちにしても、仁さんには回りませんよ」と、微笑を帯びた視線を木津に投げると、安芸は言う。「仁さんは単独で動き回る方がきっと合ってます」
 「そうかね?」やはりにやりとして、煙草を一つ大きく吹かす木津。「それ、俺がわがままだとか言ってるか?」
 「違うんですか?」
 「し、失敬だな君は。そんな風に言われたのは、生まれてこの方」急に真面目な口振りになって木津は言う。が、ここまで言って声が小さくなった。「……数百回」
 「ほら」
 「ま、まあそれは置いといてだな、いつから交代なんだって?」
 由良の方を見てから安芸は答える。
 「別段引き継ぎもありませんから、今度出動命令があった時、ですね、事実上は」
 「なるほど……しかし、その次回がいつになるやら」
 「そういえば最近『ホット』の直接指揮のケースも無くなりましたね」
 「昨夜はそれらしい話だったんだけどな」
 「木津さん」
 思いも掛けなかった声に、木津と安芸、そして由良までが振り返る。
 声の主は表情の感じられない視線を木津に注ぎながら、再び口を切った。
 「私怨、なんですか?」
 「あ?」
 沈黙。
 「木津さんが『ホット』を追うのは、私怨が理由なんですか?」
 再び、沈黙。
 木津は煙草をもう一度大きく吹かすと、
 「それがどうしたい?」
 饗庭は無表情のまま木津の顔を見据えている。それに同じく表情を出さない視線で応じると、唇に小さくなった煙草をくわえたまま
 「私怨さ。それも混じりっ気なしの」
 そう木津は繰り返した。
 「そうですか」と何らの変化も見せずに饗庭が言う。
 「そうです」と負けずに木津。
 と、ドアが開いてお馴染みの短躯が駆け込んできた。
 「由良さん、アックス・リーダー就任ですって?」
 雰囲気の急変に戸惑ったこともあって、由良はそれに曖昧な返事を辛うじて返した。
 それをものともせず、真寿美は居合わせた全員をぐるりと見渡すと、
 「それじゃ、今晩飲みに行きましょう」
 「乗った」間髪を入れない木津の返事。
 「由良さん、まさか下戸じゃないですよね」
 安芸に問われて、うっかり由良は答える。
 「いえ、飲めます」
 「これで四名確定」
 「あ、あの……」
 だが、「あれ?」といった安芸の表情に、出かかった言葉は引っ込んでしまった。
 「饗庭さんはどうします?」
 途中だった話を中断されても変わらなかった無表情は、辞退を告げる時も同じだった。
 「え〜、どうしてですか?」
 追い打ちを掛けられて、初めて饗庭の頬に表情らしきものが浮かんだ。それはどちらかと言えばよからぬ気分を表しているかに見えなくもなかった。
 「当直に残ります」
 そう聞いて、真寿美はあっという顔をする。
 「峰さん、まさか忘れてた?」
 「え、えーとね……えへへへへ」
 左右の安芸と木津から同時に小突かれて、真寿美は悲鳴を上げながら跳び退る。
 思わず笑いを誘われながらも、由良は生真面目な口調を崩さずに言う。
 「だったら私が残ります。リーダーを任されて、最初からそういうことでは……」
 「平気平気」木津が言う。「昨日の今日だぜ。向こうだって練り直しに暇を喰うだろうし、それにとりあえずは当局に任せとけばいいさ」
 「特一式は半数が稼働不能です」
 「由良の玄武だって入院中だろ?」
 口ごもる由良に木津が追い打ちを掛ける。
 「それに今日の当番は、まだ指示が出てないんじゃないか? それで白羽の矢が立たなきゃいいのさ。なあ、元リーダー」
 安芸の賛同を聞くと、当の由良の言葉も待たずに真寿美が詰所を出ていく。
 「それじゃ、ディレクターに確認を取ってきます」
 「姫にも声掛けとけよ」
 「はい!」
 上目加減に真寿美の背中を見ながら、由良は短く息を吐いた。
 

 「しかし、もしかして、おばさんは狙ってやってんのか?」
 木津の言葉に、安芸が肩をすくめながら
 「まさかとは思いますけどね」
 「どっちでもいいですけど」と箸を持ったまま紗妃。「でも、いいんじゃないですか? どのみち兄貴はこういうところに来ないでしょうし」
 「あ〜、紗妃さん冷たい〜」早くも酔いが回り始めたような真寿美の台詞に笑わなかったのは、隅の方でただ呑むばかりの由良だけだった。
 それを見とがめて、真寿美が
 「あ〜、由良さんはのりが悪い〜」
 「誰だ、こいつにこんなに飲ませたのは?」と言う木津に、安芸が返して
 「仁さんでしょう?」
 苦笑いしつつ、木津は由良にけしかける。
 「ほれ、真寿美に負けずに行け行け!」
 何も言わずに手元の杯を干し、再びそれが満たされると、由良は一気に呷った。
 紗妃がその様子を見て、あらためて言う。
 「すごい飲みっぷりですね」
 そして串焼きを一本つまみ上げると、口に運んだ。
 「そう言う姫は結構な喰いっぷりじゃないか」と木津。「よくそれで太らないよな」
 「あたしなんて、食べたって背が伸びないんですよぉ」真寿美が言って、一名を除く一同の失笑を買った。
 「あ〜、由良さんやっぱりのりが悪い〜」ぷっと膨れて見せてから、「そういう人には、アルコール追加っ!」と、干された由良の杯をなみなみと満たす。
 それをまた一気に干す由良。
 「お見事〜」と真寿美が拍手する。しかしそれに反応を返さず、由良は無言のまま立ち上がり、座を離れた。
 その姿が洗面所へと消えるのを見て、木津が口を切った。
 「真寿美、おまえ今日の趣旨忘れて楽しんでるだろ?」
 「はぇ?」と妙な口調で返事をすると、ぶるぶると首を横に振って、「そんなことないですよぉ、由良さんにしっかり飲ませてるじゃないですかぁ。趣旨を忘れてるなんてことないですもんないですもんないですもん」
 そう言いながらまた首を激しく横に振る。と、いきなりその小さな上体が傾き、軽くえずいた。
 「姫! 任せた!」
 「はいっ!」
 紗妃に肩を支えられて由良の後を追う形になった真寿美の背中を見ながら、今度は安芸が口を切った。
 「やっぱり、本人の反応が今一つですかね」
 「……かな」
 「由良さん自身が『趣旨』を承知していないとは思えないですから、なおさらなのかも知れませんね。もっとも、閉じてしまって欲しくはないですけれど」
 「閉じる?」
 「思い込みが激しいタイプですからね、由良さんは」
 分かったような分からないような顔で、木津は新しい煙草に火を着ける。
 天井目がけて、一筋の煙が吐き出された。
 

 安芸の言葉通り、由良はこの宴会の本当の「趣旨」を承知していた。そして半ばありがたく思いながらも、気持ちのもう半ばを占めるものを覆い隠すことが出来ないまま、いや、むしろそちらの方が大きくなっていくのをはっきりと感じながら、洗面所の個室の中で立ち尽くしていた。
 あれだけのペースで飲んでいながら、酔いは一向に回って来なかった。
 壁に囲まれた狭い空間で、目を閉じて頭を垂れると、由良は長く息を吐いた。それに導かれたかのように、豊かな頬を涙が伝った。
 それを振り払うと、せめてこの場くらいは、自分の中で大きい部分を占める想いを抑え付けておこうと決めた。こうやって自分を救い出そうとしてくれている同僚たちのために。
 由良は頬を拭うと、もう一度息を吐いた。
 

 「お、主役がお戻りですよ」
 素面の時同然の慧眼ぶりを発揮して、安芸が木津に告げた。
 振り返った木津が言う。
 「そんなに大量に吐いてたのか?」
 「嫌なこと言わないでくださいよ」と返す由良の顔には笑みが浮かんでいる。「ところで、女性陣の姿が見えませんが?」
 「本当に吐きに行ってます、峰さんが」
 「ハイペース過ぎですよ、峰岡さん」
 「そういう由良さんだって」
 と、紗妃が重たげな足取りで戻ってきた。
 「あれ? 真寿美は?」
 すると、紗妃は苦笑しながら答える。
 「ええ、気分が悪いのは大丈夫だったんですけど……」
 「けど?」
 苦笑のままの紗妃の視線が背後の足下に向けられる。男たちがそれに倣うと、視線の先で真寿美が紗妃のスカートの裾をつかんでしゃがみ込み、何やらむにゃむにゃとつぶやいていた。
 「半分眠っちゃってるんです」
 「出来上がり第一号かい」
 同じく苦笑いしながら、木津は真寿美に近付いてその肩を揺すった。
 「起きろ酔っぱらい!」
 寝ぼけた猫のような声を少し上げただけで、真寿美は立ち上がる気配も見せない。
 「しょうがねぇなぁ」
 木津は真寿美の背後に回ると、立たせようとしてその両脇に腕を差し入れ、体を持ち上げた。
 その途端、
 「うにゃあああああああああ!」
 奇妙な大声を上げながら、真寿美が両腕をぐるぐると振り回した。左の拳が咄嗟に屈んだ紗妃の頭上で空を切り、右の拳は猛烈な勢いで木津の脳天を直撃した。
 思わず声を上げる木津。見ていた安芸と由良が揃って吹き出す。
 「笑い事じゃないぞおい……っつ」
 殴られた頭をさすりながら、木津は一つ息を吐いた。
 

 翌朝。
 さえない顔でコーヒーを運んできた真寿美の匂いに気付いて、久我が声を掛けた。
 「二日酔い?」
 「……みたいです。全然記憶はないんですけど、頭が痛くて……」と、一つ息を吐く。
 同じ頃、MISSESの詰所では、頭痛を訴える木津の頭を安芸が触っていた。
 「……立派に瘤になってますね。でもこれは普通頭痛って言わないでしょう?」
 それには答えず、木津はつぶやいた。
 「神経のギプスが外れるかと思ったぜ。真寿美の奴、後でお仕置きしてやる」
 そして煙草の煙を交えて一つ息を吐く。
 そこに顔色のよくない上に目を真っ赤にした由良が入ってきた。一目見て安芸が訊ねた。
 「どうしたんですか?」
 「え?……ああ、ちょっと寝不足気味で頭痛がするだけです」と、一つ息を吐く。
 宴会が引けて後、抑え付けていた想いが反動のように思考の表に立って、それ故に眠れなかったのだった。
 そしてもう一人、この三人とは違った意味で頭を痛めつつ息を吐いている人間がいた。
 

 

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