執務室に戻ってきた久我は、ライト・グレーのハーフコートを肩から滑らせるように脱いでハンガーに引っかけると、軽くスカートの裾をさばいて椅子に腰掛け、一つ、小さく息を吐いた。
待っていたかのように、インタホンから声がする。
「峰岡です。お帰りなさい」
一礼しながら部屋に入ると、真寿美はすぐにコーヒーの準備に取りかかりながら、いつものように訊ねた。
「何か目新しいこと、ありました?」
「一つ動きがありました」と久我。「追ってMISSESのメンバーにも公式にお知らせする内容です」
興味ありげな表情を隠さずに、真寿美はデスクにコーヒーを運ぶ。
かなり熱いコーヒーを一口飲み下すと、久我は真寿美の表情に応えて言った。
「当局内部で、『ホット』への内応者の調査が正式に開始されることになりました」
真寿美の表情が訝しげなものに変わった。
「ないおうしゃ? って何ですか?」
「『ホット』の配下にある者が当局にいるという可能性について、これまで内偵レベルだった調査を正式化することにしたそうです」
「ああ、そういう意味ですか……でも、正式な決定になるまでに、ずいぶん時間がかかりましたね。それに、もう可能性っていう話じゃなくなってるのに」
真寿美の言うとおり、朱雀強奪事件で当局における内応者が表舞台に姿を現してから、既に一ヶ月以上が経過していた。
「LOVE側に実質的な損害が発生した以上やむを得ない、としての決定だったようです。当局としては認めたくないことだったでしょうから」と淡々と久我が言う。
「その内応者っていう人、認めたくないぐらい大勢いるんですか?」
「実状として根深いものがあったとしても、公表される結果には、それほどの数が上がることはないでしょう。ただ、理由はどうあれ、今回当局が腰を上げた点だけでも、評価に値すると思います」
真寿美が半ば呆れたように微笑する。
「その調査結果が報告されるまで」と久我が続ける。「VCDVの追加導入は見送られることになりました」
「秘密保護のためですね?」
「G−MBの機構的な情報であれば、とうに漏れていると考えるべきでしょう」
そう言う久我の平然とした表情に、真寿美は驚いていた。
「当局側がそうしたいというのであれば」と久我は続ける。「こちらとしては従うだけですけれど。しかし導入からもう相当の日が経っているにも関わらず、『ホット』の側で得たはずの情報を生かし切れていないという事実があります。漏れていたとしても現時点では実害はありません」
黙ってうなずく真寿美は、だが久我の本当の思惑を推し量ることは出来なかった。
「そうですよね、だから手っ取り早く朱雀……えっと、S−ZCを盗もうとしたんですよね、きっと」
久我は答えずにコーヒーのカップを口許へ運んだ。そして次の指示を待つ真寿美に、一時間後にMISSES全メンバーを召集するように命じた。
「はい、承知しました」
軽く頭を下げると、真寿美は振り返り出て行こうとする。が、それを久我が呼び止めた。
再び振り返る真寿美に、久我は言った。
「きっかけは見つかりそう?」
真寿美は曇りのない笑顔で答えた。
「はい。見つかりました」そして久我の顔を真っ直ぐ見つめて、言い足した。「ディレクターが前におっしゃってたのとは、ちょっと違う意味でのきっかけですけど」
ほんのわずかに不思議そうな顔をした久我は、しかし何も問わなかった。
「おう、真寿美ちゃん、こいつぁいいところに来た」
事務室に入るや否や、阿久津がそう声を掛けてきた。
「はい? 何ですか?」
きょとんとした顔の峰岡を手招きすると、にやついた阿久津は無言で作業台上のディスプレイ・スクリーンを示した。
画面の中では、白虎と青龍が対峙し、激しく動き回っている。いや、対峙しているというよりは、白虎が一方的にやりこめられているといった方が正しいようだった。
双方の右手首からは、資料上の名称に従えば「伸縮格納式打突桿」、通称「仕込み杖」が伸びている。その「仕込み杖」での青龍の素早くかつ正確な打ち込みを、白虎が辛うじて防ぎまたかわしていた。
呆然と画面に見入る真寿美に、阿久津は機嫌良さそうに言った。
「あの姫様、なかなかの使い手だわい。仁ちゃんは力任せに大振りするが、姫様の方は出力で劣る青龍をテクニックでカバーしとる。チャンバラには多少の心得もあるように見えるしな。おっ……」
後退の一手だった白虎が、力尽くで攻勢に転じようとし、強引に一歩を踏み出した。その時、詰まった間合いを後ろに跳ね退いて拡げながら、青龍は「杖」を白虎の顔面正中めがけて振り下ろす。その切っ先が直撃すれすれで止まった。
「ほぉ、寸止めか……」
真寿美も思わず息を漏らした。
「阿久っつぁん!」と、動きの止まった白虎から、木津が息を弾ませて大声で言った。「こいつ、修理してから動きが鈍くなってないか?」
「そんなわけあるか。お主が大振りするのがいかん。もう少し姫に鍛錬してもらえ」
青龍の「杖」がすっと動く。
「待った待った! とりあえず今回はここまで!」
慌てて木津が言うと、青龍の「杖」がその右手首に格納された。
真寿美がもう一度溜息を吐く。
「すごいんだ、紗妃さんって……」
「真寿美ちゃんも今度鍛えてもらったらどうだね?」
半ば冗談めかした阿久津の言葉に、真寿美が大真面目にうなずく。
「そうですね。やっぱりあのくらい使えるようにしておかなきゃいけませんよね。それに、あたしももっともっと朱雀に慣れなくっちゃいけないし」
今の自分の言葉に対してのように、もう一度真寿美はうなずくと、一礼して事務室を後にした。
阿久津は再び画面を眺める。
青龍が二、三歩白虎との間合いを取る。
と、いきなり白虎が右腕を振りかざした。
「すきありっ!」
振り下ろされた「杖」を、再び伸ばされた青龍の「杖」が簡単に払い、そのまま今度は横様に白虎の首筋に打ち込まれ、接触寸前で止められた。
紗妃の静かな声がする。
「……本気を出してもいいですか?」
「……嘘だろ……それで今まで本気じゃなかったのか?」
その様子を逐一見ながら、事務室で阿久津が大笑いしていた。
「こいつは恐ろしく強い姫様だわい。なあ仁ちゃん」
木津の返事の代わりに、外からぱたぱたと駆け足の足音が聞こえ、ドアが開いた。
「おう、真寿美ちゃん、こいつぁいいところに来た」
「はい? 何ですか? ……じゃなくってですね」
きょとんとした顔の阿久津に、真寿美は苦笑しながら言った。
「そんなこと言うから、さっき肝心のお話をするのを忘れちゃったじゃないですか。召集です。三時半からミーティングなので、出席お願いします」
「ああ、ディレクター殿がお戻りかい」そしてちらりと時計に目を遣り、「三時半、と。はい了解だよ」
真寿美はもう一度お願いしますと言うと、スクリーンを覗き込んで「それで、またいいところだったんですか?」
真寿美が会議室に入ると、負傷して病室にいる小松と、そして必ず最後に入ってくる久我以外の六人は皆席に着いていた。
木津と安芸の間のかつての自分の席には、今回も紗妃が座っている。それを見て、真寿美は紗妃の向かい側、小松の席に腰を下ろした。
メンバーが揃うのを見計らったように久我が入ってくると、開会を宣した。
「まずご報告すべきことがあります」と切り出した久我は、既に真寿美に話した内容、即ち当局での「ホット」内応者調査の開始と、それから当局内での「ホット」対応チームの設立が予定されていることを述べた。
「今さらかい?」と木津が言う。「ずいぶんとごゆっくりなことだな」
「当局の対応チームは、まだ予定の段階なんですか?」安芸が訊ねた。
「そうです。ただし近日中に成立との話でした。特一式特装車を中心としたチームになるとのことです」
「特一式特装車、か」木津は嘲笑うように言った。「内応者ってのが当局の技術畑にいないといいやな」
「可能性としては高いと思われます」
平然と言ってのけた久我に、木津と安芸、そして饗庭が不審の目を向ける。
そこに阿久津が口を挟んだ。
「ま、機構は外見から分かったとしても、制御プログラムの解析はそう簡単なもんじゃあないからな。あそこは当局にもオープンにはしとらんし、造りだけ真似てみたところで、歩くことも出来まいよ」
それを聞いて、真寿美は久我から聞いた言葉の意味をやっと理解した。
久我が話を戻す。
「当局の専従チームが発足した後ですが、MISSESはその要請に従ってサポートに入るよう指示が出されました。承知しておいてください」
「では、今後MISSESへの直接的な出動指示はなくなるということですか?」
安芸のこの問いを、木津の言葉が追った。
「そいつぁ……よくないな」
その言葉の意味を諮りかねたように、紗妃が木津の顔を見ている。
「その点は当局側でも明確な指針を出せないでいます。恐らくは当面従来通りの出動態勢がとられるものと思われます」
「分かりました」と安芸。木津もうなずく。
「では次。阿久津主管からです」
促された阿久津が手元のスイッチを入れると、テーブルの中央に立体映像が浮かび上がる。それは前回の出動時に初めて姿を見せた、あの人型だった。
「こいつについて解析をさせてもらったところだが」
そう言って阿久津は機構の説明を始めた。足に仕込まれたローラー、上体によるバランス保持、両腕の火器、云々。
「それでもって、いやらしい仕掛けが一つ」
阿久津が人型の躯体から何本か飛び出しているアンテナ様のものを示して続ける。
「こいつがどうも衝撃波銃のトリガープル直後に来るびりりを捕まえるらしくて、それで照準を計算して自動で回避行動をとれるようになっとるらしい」
「どうりで当たらないはずだ」木津が呆れたように言った。
「こんな仕組みを積んどるってことは、明らかにこいつにVCDVの相手をさせるつもりだったってことだ。まあ同じ人型とは言え、今のところこいつはVCDVにかなうようなトータル性能を持っちゃあおらん。だが、奴さんがこれから出してくるものがどんな代物になるかは読めん。だんだん楽じゃあなくなってくるだろうってのは確かだがな。そこんとこは覚えといてくれや、皆の衆」
「これだけのものが作れる組織なんですね、『ホット』というのは」と紗妃が言う。「もしかすると、『ホット』自身が技術者なのでしょうか?」
久我の眉がわずかに動いたように木津には見えた。だがそんな気配は全くない声で、久我は可能性は否定しないと言っただけだった。
「以上です。何か質問は?」
「よろしいですか?」
声の主は真寿美の横に座った饗庭だった。久我が促すと、ぼそぼそとした口調で饗庭はこう切り出した。
「MISSESの業務は、民間研究所に許される範囲を明らかに超えています。業務命令として受けてはいますが、個人的には納得しかねます」
全員が呆然と沈黙する中、久我が静かに先を促した。
「加えて、今阿久津開発主管の話された内容では、この研究所、このチームが犯罪者の直接の攻撃目標にされているということですが、これは完全に当局の取り締まりに任せるべき域に達しています。戦闘行為が当局の要請と許可に基づくものであっても、承服すべきであったかは疑問です」
沈黙の中で、いくつかの眼差しが饗庭に向けられる。中でも紗妃のそれは、軽蔑と非難との交錯した厳しいものだった。
椅子を蹴って立ち上がろうとしかけた木津を、紗妃の手が押し止める。
久我はテーブルの上で両手の指を組んだ。その唇が動きかけた時、今度は別の声がした。饗庭の声よりもさらにぼそぼそとした、活気のない声が言った。
「……そうですね」
全員の視線が末席へと動く。そこにいるのは、これまでずっと沈黙を続けていた由良だった。
「そうですね」もう一度由良は繰り返した。「こういう任務は、本来は当局が負っているべきです。そう思います。だからこそ自分もこちらに派遣されてきているんです。それなのに……内応者とかが出て、こちらにもご迷惑をお掛けして、本当に……情けないです」
「そんな……」と安芸。
と、そこに久我の今までと全く変化のない口調が重なった。
「私はこれまでMISSESのどのメンバーに対しても、業務命令という表現は採ってきませんでした。それでも各人が各人なりに納得して任務についています。饗庭さん、納得がいかないが業務命令として任に当たるとおっしゃるなら、それでも結構です。敢えて納得する理由を探す必要もないでしょうし、探すよう命じるつもりもありません」
饗庭も表情を変えずに聞いている。
「ただし」久我が続ける。不気味なほど口調を変えることなしに。「業務命令の中には、任務遂行中の各人の安全確保は含めていません。あなたご自身で対応してください」
饗庭は虚を突かれたような表情の後、むっとした顔を見せたが、了解の意も反論も口に上せなかった。
「よろしいのですかな?」
口中剤をがりがりと噛みながら、阿久津は自分でコーヒーを注ぐ久我の背中に訊ねた。
真寿美をはじめ、他のメンバーは既に全員部屋を出ている。
湯気の立つカップを両手に戻ってきた久我は、ソファに腰を下ろしてそれに答えた。
「はい」
「約一名、怖じ気付いたような様子を見せておったようですがな。ああ、こりゃ申し訳ない」
差し出されたカップを手にすると、阿久津は二、三度吹き冷まし、しかし口は付けずにカップ越しに上目使いに久我の顔を見ながらつぶやくように言った。
「もっとも、奴さんの言うことにも一理あるとは思いますがな」
久我は何も言わずにカップを口に運んだ。
「何度も申すようですが、正直な話、あまり感心しませんぞ……」
テーブルに置かれた久我のカップが、小さく冷たい音を立てる。
「こちらとしては、技術屋の領分だけが持ち分と割り切らせてもらっておりますがな」と阿久津が続けた。「だからその点についちゃあ文句は申しませんが、だが方向は違うとは言え、ディレクター殿のやってることは、実際のところ、あちらさんと大差ないのではありませんかな?」
久我は再びカップを取り上げると、やっと口を開いた。
「本題に入りましょう」
「こ、怖かった……」
休憩室に落ち着くと、半ば冗談めかした口振りで木津が言い出した。
「あんな怖いおばさん、初めて見たぜ」
「あたしもです」と真寿美。その横で、紗妃が申し訳なさそうな顔でいる。
安芸がため息を吐くと言った。
「自分自身が疑問に思ったことはなかったから思いも寄らなかったけど、あんな風に考える人もいたんですね」
頭を掻く安芸の表情には困惑の色が薄からず差している。
「そうかぁ、リーダーも大変よね」
「由良さんも思い詰めてる感じだし」
「小松のおっさんはまたも戦線離脱だしな」
「すみません。後でひっぱたいておきます」
「おいおい! そこまでするか?」紗妃のいきなりの発言に、思わず木津が声を上げた。「姫も結構怖いな」
「ああいう奴なんです、兄貴は。普段はろくに話もしないのに、何か言い出すかと思えばあんな調子で」そして安芸に向かって言う。「本当にすみません。足りない分は、私がサポートに入りますから」
「でも、おばさんの台詞も、ひっぱたくぐらいの威力はあったよな」と木津。「ありゃまるで死ねと言ってるようなもんだったぜ。死にたくなけりゃ、兄ぃだってやることはやるだろ。おばさんのスカウトだったら、腕は問題ないんだろうし。ところでそのご当人はどこに行った? それに由良も」
「詰所、ですか?」
「付き合い悪いねぇ」と言うと、木津は牛乳パックのストローを吸う。
「あ、そうだ」真寿美がいきなり声を上げる。「紗妃さん、あたしにもチャンバラ教えてください。さっき仁さんをこてんぱんにしてたのを」
木津が派手にむせかえった。
「仁さん、ここまで飛びました」
安芸の言葉は無視して、
「見てたのか?」
「はい、阿久津主管のところで、たまたまでしたけど、ばっちり」
木津の方をちらりと見て安芸が言う。
「確かにあれはあまり見せたくなかったかも知れませんね」
「あんまり言うと恥ずかしくて逃げるぞ」
真寿美の弾けた笑い声と、紗妃のくすくすという笑い声。
「いいですよ。いつ?」と紗妃。
「明日の十時頃から、場所空いてたら」
「最初は乗らないでやった方がいいですよ。体で形を覚えた方が早いから」
「それを先に言えよ」と苦笑の木津。
「しかしすごいですね。紗妃さんは剣と武術が使えるし、由良さんも格闘技が出来るし」
「そういう安芸くんだって、射撃はピカイチじゃない」
「それで小松のおっさんが負傷の名人、と」
「あ、仁さんひどい」
笑いの中から、紗妃が訊ねる。
「木津さんはいかがです? 得意なのはやっぱり運転技術ですか?」
「んにゃ、それとお茶の入れ方は真寿美の方が上手いかもな」
「すると、何でしょう?」
「執念深さ」
木津の手の中で、空になった牛乳パックが潰された。放り投げられたパックは放物線を描いてゴミ箱に落ちる。
「上手ですね」と紗妃が言った。
エレベータのドアが開く。その中にいた人物を見て、木津は意外そうな顔をした。
「今から帰りかい?」
「はい」と答えながら、乗り込む木津のために久我は半歩脇に寄った。
「ふぅん……あんたでも家に帰ることがあったんだな。初めて見た」
ドアが閉じ、エレベータが降下を始める。
「どちらへお出掛けですか?」と今度は久我が訊ねる。「それともご自宅へお戻りですか?」
「んにゃ、ちっとばかり小腹がすいたのと、退屈しのぎのネタ探しとで、橋の向こうまで行こうと思ってさ。ああ、もちろん白虎は出さないぜ。自分の車でからご安心あれ。そうか、お帰りってことは、途中までは同じコースだな」
久我は黙ったままでいる。木津はその横顔をちらりと見ると、口を尖らせた。
「一つ訊いてもいいか?」
「何でしょう?」
「あんた、自宅ではいったいどんな生活してるんだ? 全然想像がつかないんだが」
少し上げた視線をすぐに戻して久我。
「普通です」
扉が開くと、相当遅い時刻にも関わらず疲れを感じさせないような姿勢の良さと足取りとで、久我はエレベータを降りて歩き出す。木津が大股で後を追う。
「俺はてっきり異常なのかと思ってた」
久我は足も止めず、振り返りもせずに、それでも言葉を返した。
「あなたが思っていらっしゃるほどではないと思います」
「つまり人並みには異常なわけだ」
それには何も言わずに、久我は駐車場へのドアをくぐった。
春もまだ浅く、決して暖かくはない夜。まばらに停められた車の影が寒々とした感じを与える。そんな駐車場の隅に、二台が並んで停められている。すっかり埃を被ってしまっている木津の旧型車と、そして型の古さでは木津と大差ないものの、手入れの面では比較にならないほどきれいな中型車。そこへ真っ直ぐ向かう久我を見て、木津が言う。
「何だ、こいつがそうだったのか。ディレクターのご身分だったら、最新の高級車に乗ってるもんかと思ったけど、そういうわけじゃないんだな」
「必要がありませんから」
木津は肩をすくめると訊ねる。
「あんたにとって必要なものって一体何なんだ? 三度の飯さえいらないんじゃないかって気がするぜ……ああ、真寿美のコーヒーだけは不可欠かも知れないな」
車の脇で足を止め、久我は振り返った。
「あなたにご協力いただく必要があります。『ホット』の件について」
そして木津に問い返す暇を与えずに、車のドアを開いた。
「では失礼します。お気を付けて」
「……ああ、お疲れさん」
すっきりしないまま、木津は自分の車に乗り込んだ。異常とか言われて怒ったかな……それにしては、何か妙な反応だったような気もしないわけじゃないが……
本体に似合わず機嫌のいいエンジンが回転を始めた。
他に車の姿の全くない内橋に差し掛かると、この時刻でも消える気配のない都市区域の灯りが見て取れる。ハンドルを握る久我の目は、しかしそれを見ることはなかった。
久我は木津の言葉を思い出していた。
「つまり人並みには異常なわけだ」
苦笑のようにも見える、微かな微笑が久我の唇に浮かんだ。私が異常だとすれば、きっと人並み程度ではないだろう。でも、そうでなければ救われない……
その時、通信が入ったことを示す表示が計器盤に出た。ハンドルのスイッチを入れ、久我が応答する。
聞こえてきた当局からの声は、『ホット』の部隊発見の報と、その編成を告げた。
武装ワーカー十二に輸送車三、そしてホット・ユニット搭載と見られる車両一。当局特種機動隊は全機これを追って出動。MISSESの支援を要請する、と。
武装ワーカー十二両は決して多い数ではない。だが三両の輸送車が気に掛かる。『ホット』が新手を送り込んでくるときの手だ。そして『ホット』自らの指揮の可能性もある。
久我は了解の意を伝えると、車をUターンさせ、すぐにMISSESの当直組を呼び出した。
出たのは由良だった。久我は必要な情報を一通り伝えると、出動を命じた。由良の答えには、どこか曖昧なものが感じられる。久我はその理由をすぐに察したが、直接には何も言わず、速やかに増援を差し向ける旨を伝えるだけに止めた。
もう一人の当直担当は、饗庭長登であった。
通信を切ると、それに入れ替わるように後方から車が一台追い付いてきて、久我と併走する。見ると、その運転席には木津の顔があった。
久我が車を路肩に寄せて停めると、木津もそれに従い、そして開けたドアから身を躍らせて久我の方へ向かってくる。
「奴か?」
「そうです。直接指揮の可能性もあります」
木津の口が笑いに歪む。
さらに久我は相手の規模と、由良及び饗庭に出動を指示したことを窓越しに告げた。
「饗庭兄ぃか……」と、木津も木津でその意味を察していた。ちらりと久我に視線を投げる。応じて久我は木津の期待通りの言葉を告げた。
「木津さん、サポートをお願いします」
「合点承知!」
車へと走る木津に、久我が言う。
「ただし今回は当局の特種機動隊も出動します。そちらのサポートでもあります」
立ち止まり木津が振り返る。
「何だ、向こうも出てくるのか。足を引っ張ってくれなきゃいいがな」
「安芸、峰岡、饗庭の三名にも召集をかけます」
「はいよ! で、あんたは?」
「戻ります」
「了解! んじゃお先!」
ドアが閉まり、木津の車が急発進する。久我を追い抜きしな、一つホーンを鳴らして。
久我もそれを追って、スロットル・ペダルを踏み込んだ。唇に浮かんでいた微笑はとうに消え失せていた。
コクピットに滑り込んだ由良は、G−MBを始動させつつ振り返った。饗庭が今やっとアックス4に乗り込んだところだった。
由良は無意識に噛んでいた下唇を放すと、
「アックス4、準備いいですか?」
答えの代わりに、始動されたエンジンの軽いうなりが聞こえた。
由良はまた唇を噛むと、スロットル・ペダルを踏み込んだ。後方モニターの中で、少し遅れてアックス4が動き始める。
木津が着替えもせずに地下駐車場へ駆け込んでくる。そしてシートに体を投げると、キー・カードを差し込みスタータ・ボタンを押す。エンジンの始動と同時に、レシーバーから久我の声が聞こえた。
「……です……」
「何だって?」
「目標失探です。アックス3及び4は失探位置まで急行し、当局特種機動隊と合流の上哨戒。アックス1、マース1、キッズ0及び1は出動準備の上待機願います」
「見失っただと? 何をどうすりゃ十五両の大所帯を見失うってんだ? で、どこで消えたんだって?」
「来栖川重工跡地付近とのことです」
「またか。そりゃ前と同じ手じゃないか。どうせ倉庫だかに潜り込んでるんだろう」
「全く同じ手段を使うはずはありません」
妙に決然とした久我の言葉。
次いでアックス3及び4に哨戒の状況を随時報告するよう指示する久我の声を聞きながら、木津はエンジンを切った。灯火の落ちた計器盤。レシーバーの伝える微かな雑音を聞きながら、木津は一人焦れていた。
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