Chase 18 - 残された肖像

 
 ディブリーフィングの後、予想に反して久我が居残りを命じたのは、木津ひとりに対してだけだった。
 真寿美を含む他のメンバーが出ていったのを見て、木津は久我に言った。
 「結局こうなると分かってれば、はなから真寿美を外すことはなかったのにな」
 ディブリーフィングの場で、再び重傷を負った小松の補充として、久我は正式に峰岡にMISSESへの復帰を命じたのだった。
 「……使用車種はS−ZC、運用時呼称はキッズ1を継承し、木津さんのキッズ0、饗庭紗妃さんのマース1と共に必要に応じた随時のサポートを任務とします」
 久我の言葉を聞いた真寿美の表情を、木津は思い出していた。
 これまでなら聞いた途端万歳でもしかねなかったのが、何故か今日は妙に緊張した面もちで指示を承っていた。それにべそでもかいていたかのように、目と鼻を赤くしていた。
 久我が木津の正面に静かに腰を下ろした。
 「阿久津主管にも確認を取りました。峰岡にS−ZCのキーを渡したのはあなただそうですね?」
 「ま、元担当ドライバーの俺以外に、そういうことの出来る奴はいませんわな」
 「理由をお聞かせ願えますか?」
 冷静な口調の久我の問いに、軽薄な口調で木津が返す。
 「今日みたいなこともあるかと思ってさ」そしてにやつくと言葉を継いだ。「あんたが腕を見込んだドライバーを、わざわざ遊ばせとくこともあるまいに」
 久我は表情を表さずに問う。
 「それだけの理由ですか?」
 それだけの理由では、いや、そんな理由ではなかった。だがそれを言ってみたところで、このおばさんには通用しそうもない。
 木津が答えないのを見て、久我が口を切った。相変わらずの冷静な口調。
 「要員や車両の配置に関する事項の決定権限が私にあるというのは、ご存じのことと思います」
 「知ってるさ」と木津は言い、煙草に火を点けるとあらためて久我に目を向け、そこで気付いた。
 いつもは人を正面か、少し見下ろし気味に見ている久我の目が、今はやや上目使いに木津に向けられている。こんな表情の、いや、これが表情と言えればだが、久我を見たのは初めてのような気がした。
 「彼女への同情が理由ですか?」
 くわえられた煙草の先がぴくりと動いた。
 「それほどご大層な身分じゃないぜ、俺は」と笑い飛ばすように木津が答える。が、次の久我の言葉を聞いてその顔色が変わった。
 「徒にそうした感情を持つと、『ホット』への矛先が鈍ります」
 「……何が言いたい?」
 久我はそれには答えずに言った。
 「あなたのおっしゃる通り、現実にこの変更が必要となりました。確かに決定の手順は通常とは異なりましたが、悪影響を及ぼすような問題の発生も何ら認められないので、これ以上この件に拘泥することは致しません」
 そして久我は立ち上がり、付け加えた。
 「いつも通り、レポートの提出をお願いします」
 

 自室へ向けて廊下を歩きながら、木津は久我の言葉の意味をはかりかねていた。
 『ホット』への矛先が鈍る、だと? 真寿美に同情するとそうなるってのか? それとこれとにいったい何の関係があるんだ? おばさんにしたって、俺がここにいるのは『ホット』が目的でしかないってことをまさか忘れてるわけじゃあるまい。その目的の裏にある事情までは知らないとしても。
 木津の足がはたと止まった。
 あの女、何を知ってる……?
 「木津さん」
 背後からの女の声に、木津は振り向いた。
 「……ああ、姫か」
 「どうして姫なんですか?」
 紗妃は真っ直ぐ木津の顔を見て訊ねる。
 「何となくさ」
 その答えに少し肩をすくめてから、
 「今まで久我さんのところに?」
 「ああ、油をしぼられてきた。四・三八キロぐらいはやせたかも知れない」
 そうですか、と紗妃は言ったが、これが今の答えの前半に対して言われたのか後半になのかは定かではなかった。
 木津は自分で引き取って言う。
 「それでこれから恒例のレポート書きだ。そっちは?」
 「工場に行って、VCDVの修理を見学します。随分ひどく壊してしまいましたから」
 「初めてで、しかもあれだけの派手な立ち回りの後であの程度ならいい方じゃないか? それを言ったら小松のおっさんなんか立場が無いじゃないか」
 「でも結局損傷がなかったのはキッズ1だけだったんですね」
 木津は苦笑いし、そして言った。
 「俺としてはそれは嬉しいような気もするがね。その段で言えば、真寿美はちょっと忍びなかったかもな」
 顔に疑問符を浮かべた紗妃に木津は言う。
 「青龍はもともと真寿美の乗機だったからな。朱雀は俺が使ってたし」
 「真寿美って、峰岡さんですか?」
 「ああ。あれ? 知らなかったっけ?」
 「市街地で初めて木津さんにお会いした時、一緒でしたね。あの時は彼女がMISSESのメンバーだとは思いませんでしたけど」そして少し微笑むと言葉を継いだ。「あの日はデートだったんですか?」
 「厳密に言うと少し違う」と久我の口まねで言う木津。「あいつ、あの時メンバーから外されてしょげてたんで、食い物で気晴らしさせてやったんだが」
 「外されていた? あんなにきれいに乗りこなしていたのに」
 「俺にも分からんよ、久我のおばさんの考えることは」
 さっきの台詞もそうだしな……
 「そうですか。やっぱり申し訳ないことをしてしまったようですね」
 「でもまあそれほどには気にするまいさ。あいつだって止むを得ない時には多少ぶっ壊してたし」
 「だったら、私が木津さんをサポートするためなら許してもらえるかも知れませんね」
 「どういう意味だ? そりゃ」
 「え? だってお二人は恋人さん同士じゃないんですか?」
 木津が、疑問符を浮かべた顔に、今度は苦笑を追加した。
 「まあ、とにかく修理見学に行くべさ」
 そう言いながら歩き出す木津に紗妃が問う。
 「レポートはいいんですか?」
 「いくらあのおばさんでも、二時間後に出せとは言わなかったぜ」
 

 「おや、お揃いでお越しかね」
 見慣れたのとは違う二人連れの姿を見て阿久津は言った。
 「姫が修理見学をご所望でござる」と、おどけた調子で木津。「どんなもんだい? もう作業は始まってるのか?」
 「出てみるかね?」
 二人にというよりはむしろ紗妃に阿久津は声を掛けた。
 「はい、ぜひ」
 紗妃の答えを聞くより先に、阿久津は上がってきたばかりといった感じの資料を投げてよこした。木津がそれを机の上に拡げる。
 今回出動したVCDV各機の整備修理作業見積書だった。
 木津の手が一枚ずつページをめくり、S−RYの部分を開く。紗妃が脇から覗き込む。
 もぎ取られた左腕の交換、被弾部外装の交換と機構チェック、疲労部品の交換という、比較的軽微な作業だけがそこに書き込まれている。
 「思ったより軽くて済んでるな」
 木津の言葉に、紗妃はふぅと息を漏らす。
 「腕もストックがあるし、機構チェックでアラが出なけりゃあ、まあ今日中には片が付くだろうな」と阿久津。
 「本当ですか?」
 「嘘を吐いてる目に見えるかね?」
 「……眼精疲労気味なのは分かります」
 一本とられたという顔をして、阿久津は木津に言った。
 「なかなかやりおるな、この姫君は」
 「だろ?」
 上の空でそう返事をする木津の目は、資料を辿っていた。白虎も損傷は軽微。ただし調整部位は他よりも多そうだった。そして朱雀。紗妃の言った通り、損傷は皆無。木津の頬には無意識の笑みが浮かんでいた。
 「それじゃあ、行くかね」
 阿久津が作業場へのドアを開けた。
 木津の後に紗妃が続き、三人は作業台の前へと歩いていった。
 Mフォームで作業台に斜めに寝かされた白虎、朱雀、青龍、そして安芸の玄武に作業員が群がっている。
 「ベッドが満杯ってのも久しぶりだわい」と阿久津が言う。「サポート機や試験機まで駆り出すとなったら、四基のベッドじゃとても足りんな。この倍はないと、いざというときにゃ剣呑でいかん」
 「おばさんに掛け合えよ」と木津。
 「サポート機と言えば」立ち並ぶ機体を見ながら紗妃が口を切る。「どうしてサポート機の修理が優先されているんですか? 普通だったらアックス・チームの車両を先に稼働できるようにすると思うんですけれど」
 青龍のちぎれた左腕が肩から外され、降ろされた。肩の開口部に作業員が計測器械をあてがい、チェックを始める。
 木津が振り返り阿久津の顔を見る。
 阿久津はにやりとすると言った。
 「この点だけは不思議とディレクター殿と意見が合ってな」
 不思議そうな顔の紗妃を横に、木津はちょいと肩をすくめた。
 

 聞こえてきた終業のチャイムに、木津は書きかけのレポートから顔を上げた。傍らの灰皿には、この午後いっぱいだけで堆く積み上けられた吸い殻。そこに木津はさらにもう一本を積み足した。と、灰まみれの山がぐらつき崩れかけた。慌てて木津は一度手を放した吸い殻にもう一度指を添え、何とかバランスを立て直した。
 一人苦笑いする木津。だがその表情はふと不審のそれに変化した。
 こうなる前に灰皿を片付けに、いや、この用でなくとも一日一回は木津の部屋に顔を出す真寿美が、今日は一度も来ていなかった。
 いつの間にか、と椅子の背もたれを軋らせて上体をのけぞらせながら、木津は思った。習慣になっちまってたみたいだな、あいつが来るのが。おかげですっかりずぼらになっちまった。
 再び木津の頬に笑みが浮かぶ。が、それは苦笑ではなく、何か固い印象を与えるものだった。
 今さらじゃないか、ずぼらは。
 木津は立ち上がると、手ずから灰皿を取り上げ、サーカスのクラウンのような仕草で、山が崩れないようにバランスを取りながら部屋のドアを開けた。
 

 同じ頃、その真寿美が帰宅の挨拶をしに久我の執務室に顔を出した。
 ドアのところから小声で帰宅する旨を告げる真寿美に、久我はいつもと変わらない口調でお疲れ様と返して、また視線を手元の資料に戻した。
 が、ドアの閉じる音がしない。
 目を上げると、まだ真寿美がドアの前に立ったままだった。
 「どうしました?」
 真寿美の唇が開く。そしてややあってから、
 「いえ、失礼します」
 出て行こうとする真寿美を、久我が呼び止め、招いた。
 どことなく重たげな足取りでデスクの正面に来た峰岡に、久我は両肘を机に突き両手の指を組んで言った。
 「何を気に病んでいるの?」
 「え……」
 「急がないならお掛けなさい」
 ソファを指し示しながら久我も自ら腰を上げた。
 真寿美は黙ったまま久我の言葉に従う。そして自分の正面に座った久我に目を上げない。そんな真寿美に久我は言葉をかけない。
 しばらくの沈黙の後、先に崩れたのは真寿美の方だった。
 「……復帰させていただいたのは、とっても嬉しいんです。でも、どうして嬉しいのか、何が嬉しいのか、自分の中で納得がいかないような気がするんです。いえ、どうしてとか何がとかは、本当は分かってるんです。でも、そんな理由でVCDVに乗っていていいのかって考えると……」
 無言で聞いていた久我が、ゆっくりと口を切った。
 「裏側にある理由がどうあれ、任務に差し障りのない限りは、それについて口を挟むつもりは私にはありません。あなたにはあなたの理由があって、それでいいと思います」
 うつむいていた真寿美の顔が上がった。
 「それが全体の和を乱さないなら」
 言い足された久我のこの言葉が、真寿美の頬を震わせ、視線を再び伏せさせた。
 それを見てか否か、久我は言葉を継いだ。
 「木津さんがここに来た時のことを覚えている?」
 真寿美はまた体をぴくりと震わせながら、小声ではいと言ってうなずいた。
 「木津さんがここに来たのは、『ホット』を追う手段としてだったでしょう? 私たちとの最初の接点はその一点でしかなかったけれど、こうして今でも一緒に行動している。あなたも、他のメンバーも、その裏側にあるものを知らないままで。それが例えばレーサーを止めなければならなかったことなのか、誰か大切な人を喪ったことなのか、他の理由なのか分からないけれど、それとは関係なく同じチームの一員として行動している」
 真寿美は相変わらずうつむいたまま。
 「だからあなたも、自分の気持ちはそれとして持っていればいいと思います。ただし、いつか見切りを付けなければならなくなった時には、潔く振り切れるような心構えでね」
 「どうしたらそういう風にいられるんでしょうか?」ぼそりと真寿美が訊ねた。「自信がないです……」
 「そのうち分かってくるでしょう。きっかけがつかめるまでは今まで通りにしていれば、それでいいのではないかしら?」
 「きっかけ……」
 

 「峰岡さん」
 駐車場への道で、後ろから自分を呼ぶ、聞き覚えのある声を聞いて、真寿美は思わず足を止め、一瞬躊躇ってから振り返った。
 淡い緑色のスプリング・コートを腕に抱え、ヒールを履いた足取りも軽く近付いてきたのは、やはり饗庭紗妃だった。
 「今からお帰り……ですよね」
 当たり前のことを訊ねた照れからか、こめかみを掻くような仕草をしてみせる。
 「はい」と答えてから、真寿美は自分の姿に視線を落とす。服装にそれほど気を使っていないつもりはないのだが、彼女に比べると随分と垢抜けなく思えてしまう。やっぱりこの人ってきれいなんだ……
 「もし迷惑でなかったら、市街区の入り口まで乗せていってもらえませんか?」
 「全然迷惑なんかじゃないですけど……車じゃないんですか?」
 「今朝になってトラブルを起こしてしまって。帰ったら修理屋さんを呼ばなきゃいけないんです。本当は兄貴に送らせようと思ってたんですけど、今日はこれからまだ何かあるらしくて断られちゃいました」
 「修理だったら、ここまで来られたらやってもらえるんですけど」
 「中の整備工場でですか? でも今日はだめですね。VCDVの修理が忙しいですから」
 全く屈託のない表情を見せる紗妃に、真寿美もいつの間にか表情を和らげていた。
 「取っ付きまででいいんですか?」
 「そこからなら何とでもなりますから」
 

 とりとめのない話の中で、何気なく紗妃が切り出した。
 「峰岡さんと木津さんって、まるで恋人同士みたいですよね」
 真寿美はハンドルを握る手の震えを、辛うじて押さえて応える。
 「そんなことないですよ」
 「でもお互い名前で呼び合ってるし」
 「仁さんのことは、ディレクター以外はみんな名前で呼んでます」
 「それなら私もそうしようかな」
 それには応えずに、ほとんど無意識に真寿美はつぶやく。
 「それに……」
 しまったと思ったが、遅かった。
 「それに?」
 促されて、真寿美はもう考えることもせずに話し出した。
 「それに、あたしは仁さんのこと、未だにほとんど何も知らないんです。前にどんなレースをしてたのかとか、レーサーを辞めなきゃいけなくなった事故っていうのがどんなものだったかとか」
 紗妃は静かな眼で真寿美を見つめている。
 「……知ってるのは、その事故に『ホット』っていう人が関係してて、仁さんがその人のことを殺したいほど憎んでることだけなんです」
 信号待ちの列に続けて車を止めると、真寿美は紗妃に顔を向けて言った。
 「饗庭さん、お願いがあるんです」
 「紗妃、でいいです」と、「ホット」の話を聞いて固くしていた表情を和らげながら、「で、お願いって何ですか?」
 「あ、はい、饗……紗妃さんって、仁さんのファンでしたよね。事故のことも知ってますか? 知ってたら教えてください。どんな事故だったんですか?」
 「信号が変わりましたよ」
 慌てたスロットル・ペダルの踏み込みに揺すられながら、よく覚えていると紗妃は話し始めた。二年前の夏、当時木津が所属していたレーシング・チームの練習用オープンコースでマシン調整中のスタッフに、無人の小型トラックが突っ込み爆発、見学に来ていた女性一名が死亡、ドライバーやスタッフ八名が重軽傷を負った。その時のニュースの記事もコピーを取ってあると紗妃は言った。
 「本当に小さな記事でしたけど。トップクラスのチームとは違って、普段のレースもほとんど記事になったことはなかったですけど、事件の時までそんな扱いだったんです。だから、原因とか当局の捜査とかは全く書かれてはいませんでした。もちろん『ホット』のことにも。ああ、木津さんがMISSESにいるのは、そういう理由だったんですね」
 「……その記事、今度見せてもらってもいいですか?」
 車は外橋にさしかかっていた。橋の上には夕暮れの残照がまだわずかながら陰を落とし、窓から差し込んだ赤い光が真寿美の横顔に薄い模様を描き、その表情をぼやかしていた。
 

 電子書簡の着信を報せる猫の鳴き声に、真寿美は目を醒まし、着替えもしていなかった体をベッドの上に起こして眼をこすった。
 やだ、寝ちゃってたんだ……
 重い体をテーブルまで運ぶと、スクリーンの中で封筒にじゃれついている猫に指で触れた。すると、その猫が封筒を開いてみせる。
 差出人は紗妃だった。帰宅してからすぐに送ってきたらしい。文面にはそれを裏付けるように先刻帰宅したこと、送ってもらったことへの礼、車の修理屋を手配したこと、そして約束のニュース記事を送るとの旨が記してある。
 その先を真寿美は読まなかった。同封してある、件の記事の方が先だ。
 何種類かの記事は、いずれも紗妃の言っていた通りのごく短いもので、そして紗妃の話した通りの内容がごく簡単に記されている。ただ話よりも詳しいのは、被害者の身元が載せられているというところだけだった。
 この爆発で、某所の相馬七重さん二十三歳が死亡、同チーム所属のレーサー木津仁さん二十四歳ら八人が重軽傷を負った、と。
 真寿美は溜息を吐いた。
 ふと気付いて、紗妃からの文面の続きに目を通す。
 「でも木津さんは、この事故のことはあまり人に触れてほしくないかも知れません。亡くなった人のことを負い目に感じているかも」
 亡くなった人……あたしより一つ上で。どんな人だったんだろう、仁さんにとって。
 「真寿美さん(名前で呼ばせてもらってもいいですよね?)、今日はとってもお疲れみたいだったけど、いつもはもっと元気な人だって木津さんが言ってました。明日はそういう顔を見せてくださいね。では、また明日。おやすみなさい」
 

 翌朝。
 インタホンの呼び出し音に木津が応えると、
 「おはようございます、峰岡です」
 「おう」
 だがいつものようにドアの開く気配がない。
 「開いてるぜ?」
 「はい」
 入ってきた真寿美は、だがこれまでと変わった様子は特になかった。
 「昨日はどうしたんだ? 一遍も顔出さないで」と木津が訊ねると、えへへ、という顔をして真寿美は言った。
 「ごめんなさい、グロッキーだったんです」
 「なるほど、目の下にグリズリーがいる」
 「せめてアライグマにしてくれませんか?」
 「アライグマってのは、確か目の周りじゅう真っ黒じゃなかったか?」
 その応えを聞いて、真寿美は吹き出した。
 「今日は大丈夫そうだな」と木津。「紗妃姫に元気印を宣伝しておいたのが、虚偽広告で訴えられないで済みそうだ」
 「紗妃さんって、姫なんですか?」
 「何となくそんな感じがしないか?」
 「きれいな人ですもんね。どっちかって言うとやんちゃなお姫様って感じがしますけど。仁さんの好みのタイプだったりします?」
 木津は相変わらずにやついた顔で言う。
 「俺はもういいや」
 真寿美も表情を変えない。
 「もう?」
 木津は何も答えずに、灰皿の煙草をもみ消すと、腰掛けたままでひとつ伸びをした。
 真寿美もそれ以上問うことはせず、部屋の中を見渡しながら言った。
 「今朝は何かご用はありませんか? 昨日の分も含めて」
 「ああ、昨日の分ならすごいのがある」
 「何ですか?」
 「丁度その辺に灰皿をひっくり返したんだ。吸い殻てんこ盛りの奴を」
 真寿美は慌てて横っ飛びに飛び退き、今まで立っていた床を見る。そういえばうっすらと灰を被っている。
 「いや、それでも一応掃いたんだけどさ、掃除機の在処が分からなくて」
 「分かりました」と、半ば呆れたような顔で真寿美。「掃除機を持ってきます」
 「ああ、いい、いい」と、部屋を出て行きかけた真寿美を止めながら、木津が腰を上げた。「場所を教えてくれれば持ってきて自分でやるよ」
 真寿美が用具置き場への道を教えると、木津は「了解、留守番頼む」と言いながら部屋を出ようとした。
 「今からですか? レポートは?」
 「結びの文句書いて出すだけ。落書きしなけりゃ読んでくれててもいいぞ」
 ドアが閉じる。
 木津の言葉通り、真寿美は机の前に足を進めた。原稿を表示した画面を中心に据えて、相変わらず乱雑な机の上。整理しようと散らばった資料に手を掛けて、真寿美は思い出した。視線が机の上のある場所へと走る。
 以前と同じ場所に、以前と同じ状態で、それは置かれていた。だが埃を被ったりしてはいないところを見ると、何度となくその場所から取り上げられていたのは間違いない。
 手は資料を離れ、そこへと伸ばされた。拾い上げようとする指が微かに震えている。
 裏側に女手で記された文字。記された日付は事故のあった日の約一ヶ月前だ。そしてその上に書かれた言葉。横文字だが意味は分からない。その中ではっきりと読みとれたのは、最初と最後にある名前だけだった。
 「じん」、そして「ななえ」と。
 あの人だ。仁さんの事故で亡くなった、相馬七重という人。間違いない。
 真寿美は写真を表に返した。
 初夏の陽光を浴びて穏やかに微笑む、少女のような表情がそこにあった。紗妃とも、また自分とも全く違うタイプの女性。写真は胸から上のショットだが、ブラウスの半袖からのぞく白く細い腕が薄い肩を、そして全身の華奢さを想像させる。その肩まで届く黒い髪を背景に一層白さが際立つ、やはり細い項がそれに輪をかけていた。
 そんな雰囲気の中に一見不釣り合いにすら思える、芯の強さとおおらかさを共に湛えた眼差しがあって、不思議な調和を見せていた。
 真寿美は背中に冷気が走るのを感じて肩を震わせた。相馬七重の肖像を現実に見て、真寿美自身の頭の中で曖昧に捉えられていた木津の姿が、急にはっきりとした形を帯びて現れてきた。
 事故でなくなった人のことを負い目に感じているかも、そう紗妃は書いてきた。だが真寿美は、それが必ずしも正しくはないのだと感じていた。
 違う、負い目なんていうだけのことじゃない。仁さんはこの人のために、この人の仇を討つために、ここに来たんだ。「ホット」を殺してもいいとさえ言っていたのは、この人のためにだったんだ。そしてそのためには、自分の命さえ懸けてもいいと思っているのかも知れない。
 それほど、それほど仁さんにとって大切な人だったんだ、この人は。
 そう考えながら、真寿美は自分の顔に微笑が浮かんでいるのに気付いた。明らかに自嘲の色合いを帯びていたそれが、急に消えた。
 だったら、あたしはどうしたらいいんだろう。あたしには何ができるんだろう……
 ドアの外に近付いてくる、掃除機を引きずるがたがたという音を聞き付けて、真寿美は写真を元の場所にそっと伏せた。そしてドアを開けに行った。
 体に掃除機のホースを巻き付けて立っている木津のおどけぶりが、これまでとは少し違って真寿美の目に映った。
 

 久我は木津のレポートと阿久津の報告書を前に、コーヒーが冷めるのも忘れて何ごとかを考え込んでいた。
 阿久津の資料に依れば、今回新しく送り込まれてきた人型は、VCDVとは総合的な能力においては比較にならないほど劣っていた。だが個々の機能について言えばその精度は極めて高く、これらがバランスを持って一個の機体にまとめられれば、VCDVと同等あるいはそれ以上のものとなり得るともある。木津のレポートが、その機動性を無視できないとしているのが個々の機能云々についての傍証となっていた。
 両手に顔を埋め、久我は溜息を吐いた。
 きっとこのまま行けば、遠からず本当にVCDVに近いものを彼は出してくるだろう。それだけのものを彼は持っている。でも、そうなったら彼に歯止めは効かない。私怨を晴らすための行動も、今よりもっと露骨に、そして凶悪になってくる。
 いけない。急がなければ。
 久我は顔を上げた。閉じられた瞼の裏に、これまでにも何度となく思い出してきた肖像が浮かび上がる。一瞬久我の顔に表情らしいものが浮かんで消えた。一瞬だったが、しかしそれは他者には決して見せることのない、険しさと同時に哀しさの表情だった。
 

 

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