Chase 16 - 渡されたキー

 
 その日の会議室は妙に薄暗く思われた。
 いつの間にか決まったそれぞれの席に既に、欠けた一人を除く全員が座っている。だが六人が六人全員口を開こうとはしない。木津はむやみに煙草をふかし、峰岡と由良はうつむいて小さくなっている。安芸と小松、そして阿久津もこのどことなく重苦しい空気の為か、沈黙を守ったままでいる。
 ドアが開き、上から下まで黒の服に身を包んだ久我が入ってくる。
 「お集まりですね。では始めます」
 いつも通りの口調だった。
 久我がスカートの裾を捌く音が響く。
 「最初に、先日のS−ZC二号機強奪未遂事件の総括を行っておきます」
 うつむいていた峰岡は体を固くした。木津の椅子が軋る。
 それぞれの手元に映し出された資料に、しかし阿久津以外の誰も目を向けようとはしない。いや、今更向ける必要はなかった。
 久我の感情を交えない声が、ごく主立った事実だけを掻い摘んで話し始める。結城鋭祐がLOVEにて身柄確保していた「ホット」部下の脱走未遂に乗じてロールアウト前のS−ZC二号機を奪取、当局担当者二名並びに上述部下一名に重傷を負わせ逃走するも、木津の阻止により失敗、自殺。この際にB試作車両B−YCが非常投入された。なおS−ZC二号機はB−YCとの攻防により大破。
 ここで久我は言葉を切ったが、誰も口を切る者はいなかった。だがそれは今の話が既知の内容であるという理由からだけではなさそうだった。
 久我が続ける。
 「これについて、追加の情報をお伝えしておきます。まず、大破したS−ZC二号機ですが、これは回収調査の結果修復の見込みなしとして廃棄と決定しました」
 「……まあ致し方ありますまいな」軽くはない口調で阿久津が言った。「代わりにB−YCを育てることにしますわい」
 木津が少しく乱暴に煙草の灰を灰皿に落した。その手元が揺れる。
 「それから」とさらに久我。「強奪の主犯である結城容疑者ですが、『ホット』の部下、しかも側近クラスの人物であった可能性が指摘されています。当局ではまだ公式な見解を明らかにしてはいませんが、内部的には同様に『ホット』の配下にある者がいないか、内偵を開始しているようです」
 「『ホット』の側近が当局内に……」と言いながら、小松が何の気無しに由良の方を見た。視線を感じた由良はうつむいた顔をさらに下げる。
 その様子にちらりと目を走らせ、久我が口を切った。
 「次に移ります。今回の件でアックス・チームにも欠員が生じました。またB−YCの件もありますので、再度チーム編成を変更します」
 木津の手が口元から煙草をもぎ取り、灰皿で煙草を必要以上に執拗にもみ潰す。
 「まずアックス・チームですが、現行メンバーの配置はそのままとし、アックス4は新規乗員を充てます」
 何人かの顔が久我に向けられる。一様に問われるはずだった質問は、だが誰の口からも出ず、またその問いを予想していた久我も自らそれに触れようとはしないままに続ける。
 「また木津さんはS−ZC二号機に搭乗の予定でしたが、喪失のため同一号機と同時にB−YCの開発に着いていただきます」
 「二台も頂戴できるんですかい?」
 そういう木津の声はいつも以上にかすれ、おまけに呂律も少し怪しかった。
 「B−YCが正式試作になった段階で、S−ZCは試験用途から外す予定です」
 言葉を返そうとしない木津を、峰岡がそっと見やった。が、その峰岡が次の久我の言葉に表情を固くした。
 「また、現在峰岡さんに臨時運用をしていただいてるS−RYですが、峰岡さんには乗務を外れていただき、代わりにこちらにも新規メンバーを充てます」
 口を開きかけた峰岡に先んじて、安芸が尋ねた。
 「二名の補充ですか。で、その二人は?」
 「T研究室とG管理室からの転換です」
 洟をすする音がその答えに重なる。
 「ディレクターのスカウトですか?」
 「そうです」
 洟をすする音は、かすかなしゃくり上げに変わっていた。
 安芸はその主に投げた視線をすぐに逸らした。主の横で木津が次の煙草をくわえ、震える手で苦労して火を点ける。
 安芸の問いがそれ以上続かないのを見てとると、久我は口調を変えずに続ける。
 「峰岡さんは通常業務専任に戻っていただきます」
 「それって」部屋の中に細い涙声。「……それって、あたしが向いてないってことですよね」
 久我がそれに答えるより先に、木津の左手が峰岡の頭にぽんと載り、髪の毛をくしゃくしゃとかきなでた。
 「悪いけど、ホット・ミルク持ってきてくれないか?」と、やはり呂律の回りきらないかすれ声で言う。「ウルトラ・エスプレッソは医者に止められてるから」
 峰岡の潤んだ目が木津の横顔を見上げる。そして久我を。
 久我はほんのわずかに目を細める。
 峰岡は手の甲で目許をこすると、席を立った。憔悴した後ろ姿がドアの向こうへ消える。
 煙草をくわえた歯の間から、木津が問う。
 「で、その二人ってのはどこにいるんだ?」
 「ご存じかと思いますが、G管理室もT研究室もこの敷地内ではなく、本部にあります。今日は二人とも本部で残務引き継ぎを行っているはずです。こちらへは来週初めに赴任します」
 「ということは、トレーニングはまだ全く受けていないのですか?」と、アックス・リーダーの安芸。
 「いいえ、本部のシミュレータにこちらのプログラムを導入してトレーニングを実施していました。こちらでの実車訓練を残すのみです。なおこの二名は、今回の件に伴う緊急増員ではありません」
 いきなり木津が左手を大きく振り回す。手に落ちた煙草の灰が飛び散る。
 「まだ調子悪そうだねぇ」見とがめて小松が言った。「まだ寝てた方がよかったんじゃないかい?」
 

 あの追撃戦の後、結城の遺体と朱雀の残骸、そして小破した白虎と共に回収された木津は、まっすぐ集中治療室へ運ばれた。
 そして久我の元に状況が報告されるまでに、実に半日近くを要したのだった。
 最初に木津の診断を聞いたのと同じ部屋で、久我はその時よりも芳しくない医師の話を聞いた。
 「今回の症状の原因となったのは、経時による充填剤のひけでした。元々充填剤の注入はごく微量に抑えていたのですが、嵩が小さくなったことで隙間が生じました」
 久我はうなずきもせずに聞く。
 「しかも良からぬことに、剤が例の小片の端をくわえ込んで」と医師は手でその様子を真似て見せる。「それが振り子の錘のように、小片を振り回す形になったようです」
 「つまり、小片が動くことで出る悪影響は、以前よりも増した、ということですか?」
 医師は無言でうなずいた。
 「それで、処置はどのように?」
 「同じ充填剤の注入を再度行いました。それと同時に……」
 そこを遮る久我の問い。
 「同じものを用いたということは、いずれ同じ症状を再発する可能性がある、ということですね?」
 医師は直接の答えを返さなかった。
 「今後は定期的に診断を受けてもらう必要があるかと思います」
 聞いた久我がこれといった反応を返さないのを見て、医師は中断された説明の続きを始めた。
 「同時に、充填剤の固着までは周辺の神経を刺激しないように、一種の麻酔を施しました。こちらは三日間の連続施術となりますが、その間日常生活にやや不自由があります」
 「日常生活に支障があるということは……」
 医師は久我に最後まで言わせなかった。
 「無論VCDVの操縦に堪えるものではありません」
 「分かりました……三日間ですね?」
 「三日後に固着の状態を検査します。それ次第ではさらに数日を要する可能性も否定はできません」
 「分かりました」
 久我は表情を表さずに応えた。
 その三日目がこの会議の日であった。
 

 「いや、午後から検査だから」と木津は小松に応える。
 久我は続けて、今後の当面の当直体制について触れた。曰く、止むなく三人体制を採るが、回復状況次第では、補充乗員の着任まで木津にその任に着いてもらう。
 「そいつぁ願ってもないね」と木津。「奴にゃあこれでまた貸しが増えたしな」
 ひきつった笑みが唇の端に浮かぶ。
 そしてもう一人、相変わらずの固い表情の中に、わずかに安堵の笑みを浮かべていた。
 由良だった。
 ドアが開き、濡れた睫のままで、五つのコーヒーのカップと一つのホット・ミルクのカップをトレイに載せて峰岡が入ってきた。
 

 「よかったですね」
 そう木津に告げる峰岡の微笑みには、作りものの色が見え隠れしていた。
 検査の結果、医師は木津に、またVCDVの乗務が行えるようになったこと、ただし月一度の検査が必要であることを告げたのだった。
 「もっとも、VCDVに乗るのでなければ、検査も不要なんですがね」
 「生理休暇だと思うことにするよ」
 そんなやり取りを医師としたことを思い出して、木津は口を開いた。まだ麻酔は効いているので、舌の回りは怪しい。
 「あのさ、MISSESって生……っとっとっと」
 峰岡は小首を傾げる。
 「何でもない何でもない」
 「また変なこと言おうとしましたね?」
 そういう時の笑顔も、いつもの生気を半ば失ったように、やはりこわばっている。これは言ってしまって笑わせた方がよさそうだ。
 「いやね、MISSESって女性専用のお休みってあったのかな、って思っただけさ」
 答える峰岡の声は弾けてはいなかった。
 「一応ありましたけど……あたし、もう関係ないですし」
 その歳でもう上がっちまったのかと木津はおひゃらかしかけたが、どう見ても峰岡はそれにのってきそうな雰囲気ではなかった。
 あの会議の後、峰岡は指示を出される前に、自らS−RYのキーを久我に返上していたのだった。
 午前中よりもずっと楽そうな指の動きで、煙草を一本取り出すと、木津は火を点けずにくわえた。
 「でも、いいんです」と峰岡。その声は細い。立ち姿も、心なしか実際以上に小さく見える。「表に立って皆さんに迷惑を掛けるよりは、裏方に徹していた方が」
 木津の唇の間で煙草が動く。
 だが峰岡が言葉を継ぐ方が早かった。
 「今回のことだってそうでしたし、それに仁さんにも何回も迷惑を掛けちゃって……」
 「全然覚えてないんだが」
 峰岡は少しだけ頬を緩めると、
 「それ、きっと薬のせいです」
 肩をすくめる木津。
 部屋の外から終業時刻が間近いことを報せるチャイムが聞こえてきた。
 「あ、ごめんなさい。長居しちゃいました」
 そう言って峰岡は軽く頭を下げる。
 木津はくわえていた煙草を灰皿の上にふっと吹き飛ばして尋ねる。
 「今日は上がりか?」
 「はい……」と少し歯切れのよくない答えが返る。「時間になったら帰ります。仕事も詰まってないですし……しばらくは」
 「なるほど。で、その後の予定は?」
 「帰るだけです」
 「だったら、この前中断したっきりのやつの続きといくか? 俺もどうせ今日は使いものにならないし」
 きょとんとした峰岡がおうむ返しに問う。
 「この前の続き、ですか?」
 「茶だけしばいて飯を喰ってなかったような覚えがあるんだが」
 そこでにやりとすると、付け加える。
 「記憶力は悪くないんだ。薬のせいじゃないらしいぜ」
 峰岡は驚いたのだか嬉しいのだかよくわからない顔でまた尋ね返す。
 「今日、ですか?」
 「時間あるんだべ?」
 「え、え、え、でも今日はそんな用意してないですし……」
 そう言えば前回はえらくめかし込んで来てたっけな。
 「別に服で飯喰うわけでもあるまいに。ああ、スカートのウエストに余裕がないってんなら話は別だが」
 「決してそういうわけじゃないですけど……」
 「んじゃ行くべさ」
 今までよりはもう少し表情を和らげて、峰岡はうなずいた。
 

 「助手席ってのも落ち着かないもんだな」
 ハンドルを握る峰岡の横で、木津は言った。
 「普段そっちには全然座らないですものね」
 「ま、今の状態じゃ危ないからな、仕方ない。我慢しますか」
 ここで期待した返事を聞けなかった木津は、結局自分で引き取って言った。
 「いや、別に君の運転を信用してないわけじゃないから。念のため」
 車は緩衝地帯を抜け、「内橋」にさしかかる。峰岡の好きだと言っていた都市区域の街明かりが見えてくる。
 「本当だな」と木津。「言われてみりゃ確かにきれいだ」
 えっという表情を木津に見せる峰岡。
 「こら! よそ見するな!」
 「は、はいっ」
 その様子がだんだんといつも通りの峰岡のものに戻ってきているのを感じて、木津は笑いながら尋ねた。
 「で、どこに連れてってくれるのかな?」
 「仁さん、いっぱい食べられそうですか?」
 「ま、人並み程度には」
 「中華じゃだめですか? 廉くて美味しいところがあるんですけど」
 「熱烈歓迎」と、口振りはそれほどでもなく木津は言う。「で、ラーメンと炒飯と餃子ってのは無しだぜ。それじゃ奢り甲斐がないからな」
 「そんなに出されたら、食べ切れないです」
 

 峰岡は帰りも運転があるという理由で、木津はまだ麻酔が切れていないからという理由で、地味に中国茶をすすりながら、二人は料理が運ばれるのを待っていた。
 「これじゃ小松のおっさんだよ」と木津。
 峰岡は苦笑いしながら、
 「明日までの我慢ですね。そしたらお酒だって運転だって思うままですよ」
 「両方同時に?」
 「それはだめです。お酒呑んでVCDVなんか動かしたら、きっとふらふらになりますよ」
 木津は肩をすくめた。峰岡が言葉を継ぐ。
 「明日にでもまた『ホット』が出て来るといいですね」
 木津の眉がわずかにひそめられた。しかし峰岡はやけに嬉しそうに話し続けた。
 「そうしたら、仁さんはあの白いの、白虎、でしたっけ? あれでまた思いっきり跳び回って、今度こそ『ホット』を捕まえるんですよね。それで……」
 息が切れたかのように言葉が止まる。曖昧な微笑を伴って。
 口をついて出かかった木津の問いは、料理を運んでくる店員の姿に押し止められる。
 注文した品六皿が次々に現れ、テーブルに勢揃いする。
 峰岡は木津に尋ねた。
 「これ、本当に全部食べるんですか?」
 木津は沈黙している。
 「だから言ったじゃないですか、ひと皿の分量は結構ありますって」
 前菜、スープ、点心、揚げもの、蒸しもの、炒めもの。どう見ても五人前の量はある。
 「いくらあたしが大食いでも、これは無理ですよ」と峰岡が笑う。
 苦渋に満ちた表情で、木津は言った。
 「……お持ち帰り、あり?」
 

 胃の辺りを押さえながら苦しそうな息を吐く木津を後ろに、峰岡はドラッグストアの胃腸薬の棚をのぞき込んでいる。
 「食べ過ぎの薬って、いっぱいあるんですね。意識して見たことなかったですけど。どれがいいんだろ……」
 「とにかく一番効きそうなやつ」
 半ばげっぷになりかけた木津の言葉を聞いて、峰岡はまた笑った。食い過ぎてみたのも無駄じゃなかったらしいな、と木津は思う。
 「それじゃ、これにします」
 峰岡は効果の一番ありそうなと言うよりは、なりの一番大きな瓶を取り上げた。
 支払いを済ませ、店の外へ出てくるなり、釣りと瓶を木津に渡して峰岡は言う。
 「はい、どうぞ。それ飲んだら、明日にはもうすっきりですね。朱雀でも白虎でも思う存分ですよ」
 受け取った瓶の封に掛けた手を止め、木津は峰岡の顔を見つめた。一瞬視線の合った峰岡の目がすぐに逸らされる。その口が開く。
 「早く飲まないと楽になりませんよ」
 「まだ乗りたいんだろ?」
 もう一度視線がかち合った。小首を傾げてみせる峰岡だったが、顔色は本心は隠し切れていなかった。
 「え?」
 木津の手は瓶の蓋から峰岡の頭に移り、髪を二、三度やわらかくかき上げた。
 「えっ?」
 峰岡が面食らったような表情を見せた時には、もう木津は薬瓶を空けてしまっていた。そして通りの向こうまで聞こえるような音を立てて長いげっぷをした。
 「やだ、仁さん……」
 「いや、こいつぁ確かに効きそうだ。じゃ、次は例の喫茶店といくか?」
 峰岡は苦笑しながら言った。
 「今度の楽しみにさせてください……今夜はどっちにお帰りですか? お部屋ですか? それともLOVE?」
 その時。
 「木津仁さんですか?」
 横から聞こえてきた女の声に、二人は揃って首を向けた。
 小柄な峰岡とは対照的な、すらりとして高く見える姿が、腰まで届く髪をなびかせながら歩み寄ってくる。
 「そうだけど……?」
 訝しげな表情を隠そうともせずに木津は応える。数ヶ月前に、交戦した「ホット」の部下が自分の名を呼んだことを思い出して。
 女は木津の表情に気付くと、微笑みながら頭を下げ、言った。
 「突然で失礼しました。レーサーを引退なされてからお姿をお見受けしなかったもので。私、現役時代の木津さんのファンでして」
 「俺みたいな二流のレーサーにファンがいたとは思わなかった」と自嘲気味の木津。
 「戦闘的な走り方が周囲からあまりよく見られてはいなかったのは存じています。でも私はそんな走り方が好きでしたから」
 木津は女の顔を見た。大きい、少し釣り上がり加減の目をした美人だ。あいつとは違うタイプ。
 「生憎ともうそっちからは遠ざかっちまってるけどね……事故以来」
 「残念です。復帰されるご予定はないんですか?」
 「ああ、転職したんでね」
 女は、おやという顔をする。
 「今は某研究所のテストドライバー兼兵隊をやってる」
 「仁さん!」と小声で言いながら峰岡が木津の袖を引いた。
 一方の女は再び、だがさっきとは少しニュアンスの違った「おや」を浮かべる。それが微笑に変わると、女は口を切った。
 「申し遅れました。私は饗庭紗妃と申します。今後またお近付きになれましたら」
 そして頭を下げると、踵を返して、まだ引ける様子のない雑踏の中に紛れ込んで行った。
 木津の眉間には、訝しさ故の縦皺が残ったままだった。あの女、転職先の話をしたら、表情を変えやがったな……
 「仁さん?」
 気付くと峰岡がまた袖を引いていた。
 「顔が恐いですよ」
 「生まれつきだよ」
 表情を少し崩して、峰岡は言う。
 「今の人、きれいな人でしたね。そうかぁ、仁さんのファンかぁ……あたしはその頃の事って全然知らないんですよね」
 「知らなくていいさ」と簡単に木津。
 「どうしてですか?」
 少し悲しげな顔になって峰岡が訊ねる。木津はにやりとしながら後頭部に手をやる。
 「古傷がうずくでな……さて、茶をしないなら、ぼちぼち帰るべか。今から研究所も何だろうから、アパートの方に頼むわ」
 

 翌日、阿久津からほぼ完了に近い白虎の修理状況を聞きがてら、木津は訊ねた。
 「車種転換とかした時ってさ、前の車のキーに入ってるデータってどうなるんだ?」
 「もちろんデータは抜いて別に保存しておくんさ。それもそれで貴重な資料だからな」
 「それじゃデータの移し替えも利くわけだ」
 「お主の朱雀のデータだって、二号機のキーに変換して登録しておいたんだ。もっともこいつは使わず終いだったがな。それに安芸君の玄武の基本データだって、青龍のを変換したものだしな」
 木津はにやりとした。
 「何だ、気色悪い」
 「いや、阿久っつぁんを男と見込んで頼みがあるんだ……おばさんには内緒でさ」
 「乗った」
 

 その週末、MISSESのメンバーはまた会議室に顔を揃えた。
 木津は自分の横の空席に目をやる。と、その目が向こうに座っている安芸の目とかち合った。安芸が言う。
 「やっぱり、ここに座ってしまいますね」
 「いいんじゃない?」
 久我が入ってきた。いつも通りに出席状況を確かめると、二つの空席も予定通りといた風に議事の開始を宣言した。
 「先日お知らせしておいた増補要員が本日付けで着任となりましたのでご紹介します」
 久我がドアの方に目を移すと、それが合図であったかのようにドアが開き、体格のいい長身の男と、そして男と並ぶとそれほどでもないが、すらりとした細身が腰までの髪と相まって実際以上に丈を高く見せている女とが入ってきた。
 女の方が居並ぶメンバーに目を向けた。そしてその中に木津の存在を認めると、微笑を浮かべてほんのわずかに会釈するような素振りを見せた。
 木津もその顔を忘れてはいなかった。そしてあの時女の見せた表情の意味を、今理解した。そういうことだったのか……
 安芸が小声で木津に問いかける。
 「あの女性の方、仁さんに挨拶したようですが、お知り合いですか?」
 「一方的にそうだったらしいぜ」
 安芸の合点のいかない表情をおいて、木津は正面に向き直る。久我の横に入ってきた二人が並んだ。
 「T研究室所属の饗庭長登さんと、G管理室所属の饗庭紗妃さんです。本日付けでこのM開発部に配属となりました」
 「揃って珍しい名字ですね」と小松。「ご兄妹なんですか?」
 「はい」と兄の方が応える。
 久我が二人に席に着くように促す。紗妃は躊躇うことなく木津と安芸の間に座ると、にこやかに木津に言った。
 「お近付きになれましたね。これからよろしくお願いします」
 「あんた、知ってたのか?」
 表情を崩さずに紗妃は首を横に振った。
 「でも、この間街で会った時、それらしいことを言ってましたよね? あの時もしかしたらとは思いましたけど」
 一度言葉を切ると、木津の目をのぞき込むようにしてから、言葉を継いだ。
 「嬉しいです。ファンから同僚にステップアップできて」
 久我が話を続ける旨を告げた。
 

 会議が終わり、休憩室でひとり油を売っていた木津は、向こうを通りかかった小柄な姿を呼び止めた。
 「真寿美!」
 髪を揺らして振り向いたその顔がほころぶ。
 「あ、仁さんがさぼってる」
 そう言いながら、腰を降ろしている木津の前に歩み寄ってきた。
 「忙しいか?」
 「ひまです」
 即答されて木津は苦笑したが、すぐに笑いの方が表情から抜けた。あのおばさん、メンバー受け入れの準備からも外してるのか。
 「身もふたもねえな」
 そう言ってから、木津は饗庭紗妃のことを簡単に話した。
 「あのきれいな人があたしの後任だったんですか。本当にお近付きになっちゃいましたね。きっと仁さんと同じ仕事をするんで喜んでたんでしょうね……」
 紗妃がそんな雰囲気を隠そうともしていなかっただけに、木津はまた晴れやかならざる表情をしている峰岡には何も言わなかった。
 「それで、会議の時には、前にあたしが座ってた席に座ったんですか?」
 「……ああ」
 「そうですか……何だか」
 言葉が切れる。が、木津が問う前に峰岡自ら引き取って、また曖昧に微笑んだ。
 「何でもないです」
 木津はジャケットのポケットから煙草の箱を取り出し、口を開くとそのまま握り潰した。
 「買ってきましょうか?」と峰岡。
 「いや、あるはずなんだけど」
 木津は内ポケットをごそごそやる。探り当てたか、すぐにその手が止まり、ポケットを抜け出してきた。が、指の間に摘まれているのは、煙草の箱ではなかった。
 「これ、やるわ」
 木津の指から弾き出され、大きな放物線を描いて落ちてくるものを、開いた両手で受け止めて、峰岡は見た。途端に驚きの表情を木津に向けてくる。
 「これ……」
 両手の間で鈍く光る銀色の小さなカードには、一本の赤い線が入っている。それは紛れもなくS−ZC「朱雀」のメイン・キー・カードだった。
 「え、え、え、え?」
 木津はお目当ての煙草の箱の封を切り、一本くわえると言った。
 「おばさんには内緒な。ちなみにデータは阿久っつぁんに入れといてもらったから」
 「だって……」
 「俺にはこれがあるし」と、別のポケットから、木津はキー・カードを取り出した。その端から例のくたびれたパンダがぶら下がり揺れている。「ま、持ってりゃ使う機会もあるかも知れないしな」
 キーを持った両手を胸の前で握りしめ、目に涙を溜めながら峰岡は微笑んだ。
 「でも……」
 立ち上がった木津に頭をぽんぽんと軽く叩かれ、溜まっていた涙が頬を伝った。
 

 

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