地下駐車場に停められたG−MBのコクピットにいつも同様に陣取った結城は、ふと目を上げると、ウィンドウ越しに、カバーを掛けられて牽かれていく一台の車両を見た。
カバーに覆われた姿からでも、その車高や幅、そしてうかがわれる独特のフォルムから、これがVCDVであるのは明らかだった。さらに、その横について歩いている阿久津の姿から、機種もまた自ずと知れた。
コクピットから抜け出すと、結城は足早にその列を追った。
声を掛けられて阿久津が振り向く。
「おう、結城君か。またお籠もりかね?」
「はい。ところで、これは……」
「ああ」と言いながら結城の表情を見て、阿久津は答える。「お察しの通りだよ。S−ZCの二号機さね」
「まだカバーを外せないんですか?」
「外しちまうと、我慢の出来なくなりそうな御仁が約一名おるんでな」と阿久津はにやつきながら答える。「お盛んなことだわい」
阿久津の言葉の後半はどうやら通じなかったらしく、結城は真面目な顔でうなずいた。
「それじゃ、私が先に見せていただくわけにはいきませんね」
「よしてくれ」と表情は変えずに阿久津。「仁ちゃんに殺されてしまう」
今度は結城も表情を崩す。
「それは困りますね。遠慮しておきましょう。でも、どのみちまだ全く動かない状態なんでしょう?」
「こいつかい?」阿久津は親指をぴっと立てて、低く盛り上がったカバーを指し示す。
「さすがに明日がロールアウトだってのに、いくら何でもそれじゃまずかろう。もうバッテリーはフルにチャージしてあるし、一通り以上の動作はこなせるようにしてある」
「それじゃますます木津さんには見せられませんね。S−ZCよりパワーのないものには乗れないようなことを言ってましたけど、これになら飛び付いてきそうです」
そう言うと、結城は午前中のシミュレータでの一件を阿久津に話して聞かせる。G−MBをシミュレートした木津は、体に染み付いた朱雀のパワー故に、出力の小さく重量の大きいG−MBを扱いきれなかったのだ。
「そうか……奴さんらしいわい。よーし、停めろ!」
歩みを止めた阿久津の指示で牽引車が静かに停止する。それから改めて動き始めた牽引車はゆっくりと方向を変えると、他の車両とは少し離れた位置、丁度一台が保守作業出来る程度の空間にS−ZCを導き、その鼻面を出入口の方に向けさせると、再び停止した。
間髪を入れず作業員が近付き、牽引台車からS−ZCの前輪部を降ろす。そこに阿久津が足早に近付く。結城もそれに倣う。
車体脇に垂らされていたカバーが、阿久津の手で持ち上げられる。木津の一号機と同じく、いや新しい分滑らかで鮮やかな緋色のドアが現れる。阿久津がそれを開いて、ふと振り返った。少し面食らったような結城の顔を覗き込むと、阿久津は言った。
「まぁ見とっても構わんが、見たってことは吹聴してくれるなよ」
そしておまけににやりとして見せると、向き直ってコクピットに身を滑らせた。
半ばまで差し込まれたキー・カードが節くれ立った指で最後まで押し込まれ、次いでスタータ・ボタンが押される。直ぐに全てのシステムが立ち上がったことを計器盤の灯火が知らせる。その明るさは、バッテリーのチャージについての阿久津の言葉を裏打ちするかのように結城には見えた。
表示のいくつかを一つ一つ指差しながら確認した阿久津は、最後にその指をキー・カードの排出ボタンの上へ移し、押し込んだ。
計器盤の灯は一斉に消え、キー・カードが再び半ばまで姿を見せる。それを見ると、阿久津は開けっ放しだったドアからのっそりと出てきた。ドアが閉じられ、カバーがそのまま下ろされた。
「何のチェックですか?」と不思議そうな顔で問う結城。
「いや、何のというわけじゃないんだが」
頭を掻きながら心持ち恥ずかしげに阿久津は答えた。「嫁入り前の娘の顔を見たがる親父の心境のようなもんだよ」
「分かるような気がします。阿久津主管はお嬢さんがいらっしゃるんですね?」
だが阿久津はそれに答える代わりに、待機していた作業員達にいくつか指示を出し、それから言った。
「さて、仁ちゃんに勘付かれるといかんから、事務所に戻らせてもらうよ」
「車体はこのままでいいんですか?」
「ここならそうは気付くまいよ」
言われて結城は周囲を見渡した。確かに他の車両からは半ば死角になっている。
「なるほど、これだったら大丈夫ですね」
「あとはお主が吹聴してくれにゃあ、露見することはあるまいさ」
「分かりました。ということは、実際に木津さんがこれに触れるのはいつになるんですか?」
「お披露目当日の朝だな。G−MBの時もそうだったからな」
「そうですか。じゃ、それまでは言わないことにしておきます」
結城が詰所に戻ってみると、そこには思い掛けずも木津の姿があった。
部屋に入ってきた結城を見るや、木津は声を掛けてきた。
「来たか鋭ちゃん待ってたホイ」
「な、何ですか?」と真顔でひるむ結城に、木津は質問を浴びせる。
「また下に行ってたんだろ?」
「はい」
「それじゃあ、もしかしてそっちで見かけなかったかい?」
「え? 何をです?」
「もちろん朱雀の二号機をさ」
「いいえ」と結城は大仰に首を横に振ってみせる。「それらしいのは停まっていなかったようですが」
「そうかぁ」
気の抜けたような声を上げると、一つ伸びをして、腰掛けていたテーブルから小さく飛び降りる。
「そいつは残念。んじゃ、お邪魔様」
出ていく木津の背中を見送ると、振り返って結城は訊ねる。
「まさか、それを訊く為だけに来ていたんですか? あの人は」
「でしょう?」と安芸。「今さら驚くようなことでもないじゃないですか」
「しかし、新しい機種に乗るのがそれ程までに待ち遠しいんですね」
「子供なんだねぇ」と小松が口を挟む。
「小松さんは実年齢よりも歳いってますから駄目です」と安芸が言う。
「失敬な」と言いつつ、小松は手にした中国茶を音を立てて爺むさくすする。
「なるほど、阿久津主管の言った通りだ」
「阿久津さんも爺むさいって言ってた?」
「いや、そうじゃなくてですね」と慌てて打ち消すと、結城は話した。「もう然るべきところに搬入はしてあるけれど、木津さんは我慢出来ないだろうから教えない、と言われてたんです」
「さすが主管」と言う安芸に続いて、今まで笑っていただけの由良が訊ねた。
「じゃ、結城さんもその場所は教えてもらっていないんですか?」
「ええ」
「そうですか……」
また茶をするる音がして、小松が言う。
「あれ? 由良さんも子供的好奇心をそそられてるのかな?」
由良が答える。童顔とも言えるその頬に浮かんでいるのは苦笑いに近い微笑だった。
「そう、なのかも知れません。でも実際、新しいものが出てきた時には、いつになってもわくわくしませんか?」
結城が安芸に訊ねる。
「G−MBの時はどうでした? やっぱりわくわくしましたか?」
「厳密に言うと少し違いますけどね」と、久我の口調を真似て安芸。「自分が任されるとなると、むしろ緊張の方が強いです。仁さんがどうだかは知りませんけどね」
その夜、件の木津は緊張のかけらもないままに、自室のベッドの上に大の字になって、高らかにいびきをかいていた。
そしてその頃、例の仮留置場となっている什器倉庫の扉の前に屈み込む姿があった。
翌朝。いつもの朝同様にコーヒーの支度を始めようとした峰岡を、その前にと言って久我が呼んだ。
「はい? 何ですか?」
「今日の午後、一時半に当局から担当者が被疑者の身柄引き渡しに見えます。その準備をお願いします」
「一時半ですね。分かりました。場所はあの倉庫でいいんですか?」
「いいえ、一階の応接です。そこまで連行してもらってください」
「それじゃ、また結城さんか由良さんにお願いしてみます」
久我は無言のままうなずき、それを見て峰岡はコーヒーの準備にかかった。
コーヒーメーカーと格闘する峰岡の後ろから、今度は医務室と連絡を取る久我の声。漏れ聞こえるところに依れば、「ホット」の手先と思しきあの若い男は、どうやら健康状態にも精神状態にも問題なく、本人の意思を除けば引き渡しには何らの支障を認めないらしかった。
入れ立てのコーヒーをデスクまで運ぶと、峰岡は久我に問いかけた。
「引き渡しが遅くなった理由は、やっぱり説明がなかったんですか?」
久我はまた無言でうなずく。
峰岡は溜息混じりに言う。
「横柄な担当者さんですね。同じ当局の中には、結城さんとか由良さんみたいないい人もいるのに」
それには答えることなく、カップを口許へ運んでから、改めて口を切った。
「それから、午前中に木津さんからS−ZCのキーを預かって、阿久津主管に渡してください。コピーが出来たら、二号機のキーは私の方に」
つまり一号機のキーに登録されている木津のデータを、二号機のキー・カードにコピーして使おうというわけだ。勝手知ったる峰岡は承知の返答をすると、また笑いながら一言付け加えた。
「木津さんに直接行ってもらったら、新しいキーが戻って来そうにないですもんね。阿久津主管の方はいつでもいいんですか?」
「十時過ぎであればということでしたが、早い方がいいでしょう。午後に掛かると、被疑者引き渡しがあります。機密保護上の問題がないとは言えません」
「そうですね」と峰岡がうなずく。「それにしても、仁さんに何て言ってキーを借りればいいんだろ。本当のこと言ったら、絶対自分で行くって聞かないんだろうなぁ……そっちの機密保護の方が大変そう」
案に相違して、何の説明も無いまま、木津はあっさりとキーを渡してよこした。
「素直ですね、仁さん」
「うん、いい子だもん。いい子にしてないと、明日プレゼントがもらえないから」
また峰岡がくすくすと笑い出す。
「昨日と今日で、ずいぶん態度が違いますね。昨日なんか、結城さんにまで聞きに行ったんでしょ?」
「昨日の明後日と今日の明日じゃ、そりゃじれったさってのが全然違うさ」
「……よくわかんないです。ま、いっか。お借りしますね」
「そう言えば、今日引き渡しだろ? あの兄ちゃん」と、出て行きかけた峰岡を木津が呼び止めた。
「はい、お昼休みの後です」
「そっか」と木津がつぶやくように言う。「結局直接締め上げられなかったか」
「仁さ〜ん」
「結城さん、やっぱりここでした?」
G−MBのコクピットを峰岡が覗き込む。
「そろそろお願いできますか? 由良さんには先に行ってもらってますから」
促されて結城は車を降りた。
連れ立って歩きながら、結城は訊ねた。
「本当に今日は来るんですよね、担当者」
「みたいですよ。まったくもう」と峰岡は少しふくれて見せる。「二日も三日も犯人を放っておいたら、あぶないじゃないですか」
曖昧に笑う結城を見て、峰岡は慌てて付け加える。
「あ、だから、結城さんとか由良さんとか、うちでちゃんとやってる人だっているのに、中にはそんないい加減な人もいるのかなって思ったりしただけなんですけどね」
廊下の角を曲がると、そのちゃんとやっていると言われた由良の姿が、什器倉庫の扉の前に見えた。
峰岡がポケットから鍵を取り出す。
「開けたらいきなり飛び出して来やしないでしょうね?」と結城。
「その時は由良さんが取り押さえてくれますよね? 腕に覚えあり、ですもん」
照れて頭を掻く由良が、それでもその気になったらしく、鍵を差し込む峰岡の横に立った。その後ろに結城。
鍵を抜き、ノブを回しかけた峰岡の手が、急に開いたドアと共に倉庫の中に引き込まれる。つんのめった峰岡の背中を、ドアの陰から伸びた手が突き飛ばす。倒れ込んだ峰岡の手から鍵が飛び出す。
「うっ!」
踏み込もうとした由良は、しかし足元に峰岡が倒れていて踏み出せない。
「由良さん!」
結城の声がすると同時に、ドアの陰から低い姿勢で男が飛び出してくる。
受付から当局担当者の到着が応接室の久我に告げられた。久我は腕時計に目を落とす。こういう時は時間通りだ。
だが、案内を任せるはずの峰岡の姿がまだない。僅かながらに感じる不安感を例によって表情には出さないまま、仕方なく久我は自ら担当者を迎えに出た。
久我の姿を見て、腰掛けていた二人の内、先に若い方が立ち上がって頭を下げた。それに応じて久我が黙礼を返すと、明らかに役付きと言った感じの中年男がやっと立ち上がったが、これは頭も下げようとはしなかった。
「ご苦労様です」と若い方。
同じ台詞で返して、久我は二人を応接室へ
と案内した。
部屋に入ると、役付きの方が早速煙草に火を点け、腰を下ろすと切り出した。
「早速だが、引き渡しを」
だが久我は応じず、立ったまま「初めてお目に掛かるかと存じますが?」
相手は重たげな瞼を僅かに動かす。
代わりに答えたのは、これも立ったままの若い方だった。
「失礼しました。実は内部で改組がありまして、管理者が替わりました」
そう言って彼は、どっかりと座り込んだまま煙を吐き出している漬物石のような上長を紹介した。
「お掛けください」と言いながら、自らも腰を下ろし、久我が名乗った。
返事をする代わりに冷淡な一瞥と大量の紫煙とを久我によこすと、役付きはもう一度引き渡しを促した。
が、これにも久我は応じず、やはり若い方に訊ねる。
「今回引き渡しが遅れたのも、その改組の影響ですか?」
肯定の返事に、三度目の引き渡し催促の、苦り切ったような声が重なった。
久我は表情の無い顔を役付きに向けると、今こちらへ連行して参りますと簡単に言う。と、今度はその語尾に電話の呼び出し音が重なった。久我は失礼しますと言うと、役付きに背中を向けるように上体を捻り、口許を手で覆い隠しながら話し始めた。
が、ほんの数語も話さないうちに、久我の眉の端がぴくりと上がった。
「……状況は?……、……、……分かりました。指示を待つように」
通話を終えると、久我は冷静に言った。
「被疑者が逃亡を図りました」
漬物石が初めて表情らしいものをその黒ずんだ顔に浮かべた。
「逃がした、と?」
そして力任せに煙草を揉み潰すと、久我をにらみ付け、声高に言った。
「これは問題だな。我々の信頼に背く事態だ。捕縛後早急に引き渡しを行っていれば良かったものを」
半ば無視して久我は電話をかける。
「……久我です。男が逃亡を図りました。今結城さんが男を追っています。所内全体に警報を発して、至急身柄の確保に当たらせてください」
久我からの指示を受けた安芸は、息継ぐ間もなくそれを実行した。そしてもう一カ所。
インタホンの向こうからは軽い声。それが安芸の言葉を聞いて一変する。
「仁さん、男が逃げました!」
「何だと?」
それを追うように、警戒警報の放送が響き出す。その声はインタホンの向こうからも伝わってきた。
「こいつか! あの野郎、寝ぼけた面しやがって洒落たことを」
「今、結城さんが追っているそうです」
「どこでだ?」
「分かりません。その辺に行ったらよろしく頼みます」
「了解! 進ちゃんはどこにいる?」
「今詰所です。で、例の倉庫に峰さんと由良さんが閉じ込められているらしいので、鍵をもらってからそちらへ行きます」
「分かった。俺もそっちに行く」
インタホンのスイッチを切る間ももどかしく、木津は部屋の外へ飛び出した。普段人通りの少ないこの場所には、さすがに騒然とした雰囲気は伝わって来ない。
舌打ちを一つすると、木津は走り出した。
警報を聞くと、久我は立ち上がった。
「どうぞ執務室の方へおいでください。今回の件は、事態収拾の責は私にあります。執務室で指揮を取りますので、どうかご同席ください」
若い方が上長の顔色をうかがった。それには何らの反応も示さず、役付きが言う。
「この一件で、ここに与えられている捜査権は無効とされるはずだ。既に我々にも特一式が導入されている。その時点でここに捜査権のある理由は無くなっている」
「ではこちらでお待ちになりますか? それとも一旦お引き取りになりますか?」
感情を一切表さない久我の声に、役付きはなおもぶつぶつつぶやきながらも、重たげに腰を上げた。
息を切らせた結城の前でドアが開く。
その向こうから一斉に集まる作業員の視線の中に、結城は走り込むと言う。
「奴は来ましたか?」
「いいや、来てないです」と一人が答える。
「結城さん、追いかけてたんじゃ……」
「撒かれました。でも足を奪いにここに来るはずです。警戒をお願いします!」
「分かった」
ドアが開かれる。
中には半べそをかいてへたり込んでいる峰岡と、いきり立ったように真っ赤な顔で仁王立ちになっている由良。
「大丈夫か?」木津が声を掛ける。
答えずに飛び出そうとする由良。そのがっしりとした体を安芸が押し止めた。
「由良さん、落ち着いて!」
由良の吐く荒い息を聞きながら、木津は峰岡に手を貸そうとした。だが峰岡はへたり込んだまま手を伸ばそうとしない。
「しょうがねぇな」
そう言うと木津は峰岡の背後に回り、両脇の下に腕を差し入れて上体を抱え上げた。
「ほれ、しっかりしろ!」
峰岡は力無く抱えられたまま、聞こえないほどの小さな声でこぼす。
「あたしのせいで……あたしの」
木津の手に熱い滴が落ちる。
「由良さん、峰さんを医務室へ。それからディレクターに報告をお願いします」
冷静に安芸が指示を出し、一つ二つと深呼吸をした由良が、やはり小さな声で了解の意を告げる。
「大丈夫」とそれを聞いた安芸。「ディレクターはどやしたりはしません」
「それじゃ頼まぁ」
木津は抱えた峰岡を引きずって、由良の背中に預けた。由良は軽いはずの峰岡の小さな体を重たげに背負い、とぼとぼと倉庫を出ていく。
「さて、どうする?」
「逃げるとすれば、次の狙いは足ですね……」と言いかけた安芸が、はっとしたように言葉を継ぐ。「仁さん、キーは手元にありますよね?」
「キー? 朱雀のか? ああ、今朝真寿美に貸して、戻って来てる。ほれ」
ポケットから引き出されたキー。今の事態に我関せずといった風に、くたびれたパンダのマスコットが揺れる。
「……って、まさかVCDVを強奪?」
「あり得なくはないでしょう? もっとも駐車場の場所が分かれば、ですが」
「行くか!」
返事も待たずに走り出そうとする木津を、安芸が引き留める。
「駐車場に一報を入れておきましょう。向こうに誰もいないってことはないですから」
「ごもっともさま」
通話の終わるのを焦れるように待っていた木津は、安芸の指が電話のスイッチを切るのを見るや否や訊ねた。
「行ってなかったか?」
「結城さんが行っていて、注意するよう指示を受けたそうです」
「あれ? 奴さん追っ手だったんじゃなかったっけか? 撒かれたんか?」
「そのようですね」
「んで、結城ちゃんは?」
「駐車場にいるようです」
「んじゃそっちは任せておけるな。次はどうする?」
執務室の久我の元には、まだ被疑者発見の報は入って来ない。
ソファでは苦り切った顔で当局の役付きがやたらと煙草の煙を吹かし、その横で怯えたような表情で部下が小さくなっている。
久我はデスクのディスプレイ・スクリーンにLOVEの全図を表示し、見つからないとの報告があった場所にチェックをしていた。
あの什器倉庫のある一角は別として、研究室や製造ラインは全て監視体制が整えられている。下手に逃げ回ったところで、カメラに引っ掛かるのが落ちだ。が、それにしては見つからない。
当局の若い方がちらりと腕時計に視線を走らせるのを見て、久我もそれに倣う。
脱走の第一報が入れられてから、間もなく三十分が経過しようとしている。その三十分を越えては待たないと、当局の漬物石は久我に告げていた。
ドアのインタホンが鳴り、続いて到着を報せる安芸の声が聞こえる。久我はソファの方に一瞥をくれてからドアを開いた。
先に入ってきた木津がまず問う。
「見つかったか?」
一方の安芸は、こちらに振り向いたソファの人影に気付いて、とりあえず会釈する。
久我は木津に答える。
「まだ連絡はありません」
「出口は固めたのか?」
久我が答える前に、インタホンが鳴った。
気色ばむ木津を横に、落ち着いた様子で久我が応答する。
「久我です」
「由良です! 押さえました!」
ソファの二人もこちらに振り返る。
木津は久我を押しのけるようにしてインタホンに向かい大声を上げた。
「どこだ?!」
「木津さんの部屋の中です!」
「何だと?」
久我がすっと割って入る。
「被疑者の状態は?」
「失神しています。締め技を掛けましたので……でも身柄は確保しています!」
「これ以上の逃走は不可能な状態にしてありますか?」
「手足は縛っておきました。大丈夫です」
「分かりました。応援を……」と言いかけたところに、また木津が割り込む。
「俺の部屋の中にいたってのはどういうことだ? 何をしてたんだ?」
「さぁ……資料か何かを探している風にも見えましたけれど」
「資料? まさか、朱雀のか?」
そこに今度は紫煙に荒らされた声が。
「身柄が確保されたのならば、早急に引き渡しを行っていただきたい」
三人が三様に声の方へ顔を向ける。中でも一番冷淡な表情を見せた久我が、インタホンに向かって指示を下す。
「もし一人で連れて来られるようなら、私の執務室へお願いします」
「大丈夫です、了解しました」
通話が切れる。木津が慌てて呼びかけるが、遅かった。構わず久我は呼び出しボタンを押し、出た相手に警戒態勢の解除を報じるように告げ、そして当局の役付きに向かって、何の感情も交えずに言った。
「お待たせいたしました。間もなくお引き渡しできるものと思います」
木津は思わず久我の顔を見る。この人、一体どこまで冷静でいられるんだ。感心するよ、ホント。この部屋に爆弾か何か放り込まれても、こんな調子で対応するんだろうな。
間もなく逃亡者捕縛と警戒態勢解除の放送がこの執務室にも聞こえてきた。続いて由良の声が。久我がロックを解除する。
報告通りに両手両足を縛られた、失神したままの男を、まるで丸めたハンモックのように担いで、由良が意気揚々と入って来た。
ようやく立ち上がった漬物石に、男を床に降ろした由良は敬礼し、所属氏名を名乗る。
なるほど、当局式の挨拶ってのがあるわけだ。そう木津は思った。民間は所詮は部外者扱いか。
若いの共々答礼すると、漬物石は御苦労と言葉を掛けた。そして若いのに、床に転がったままの男を連れて行くよう簡単に指示すると、さらに由良に話し掛けた。
「やはり当局の人間だな」
由良は今回の脱走騒ぎの一因が自分にあることを主張したが、そんなことは問題ではないとまで役付きは言ってのけた。脱走は状況にも一因があろうが、事態の終息にあたったのは紛れもなく由良個人であろうと。
居心地悪げな由良に、漬物石はさらに問う。
「もう一名当局の人間が派遣されていると聞いているが?」
「はい、同じく高速機動隊より……」
言いさしたところに、相当腹に据えかねたらしい木津が割り込んだ。
「その結城の兄ちゃんはどうしたんだ? 戻って来る様子がないじゃないか」
そこにさらに、インタホンの呼び出し音が割り込んで来る。
「何だぁ? まだ何かあるのか?」
久我が呼び出しに応じる。そして聞こえてきた言葉に、木津は自分の耳を疑った。
「地下駐車場です。結城さんがS−ZC二号機を出しましたが、指示か許可は出されていますか?」
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