Chase 12 - 示された目標

 
 煙草の空き箱が壁に当たって、力無い音を立てると床に落下した。
 それには目もくれず、仰向けに寝そべった木津は、空き箱を投げ付けた右腕をぶらりとベッドの脇から床に垂らした。
 火の点いていない煙草が、それをくわえた唇のいらだつような動きにつれて、ひょこひょこと落ち着きなく揺れる。と、それがいきなり止まった。腹の上に所在なさげに載せられていた左腕が気怠そうに持ち上がってくると、煙草を口からつまみ上げ、三本の指の背と腹の間に挟むと、真ん中から真っ二つにへし折った。「く」の字に折れた煙草の残骸は灰皿へではなく、そのまま床の上に放り出される。
 机の上の灰皿は、先の方だけ吸っては消したような吸い殻が堆く積み上げられ、灰やら灰になる前の葉やらが散らばった反故の上にこぼれて、さらに辺りを汚く見せている。
 組み合わせた両手を枕代わりに、木津は大きく息を吐いた。それから腹筋運動の要領で、だが勢いよくどころか、むしろ面倒くさそうな様子を変えることなく上体を起こし、もう一つ息を吐くと、組んだ手をほどいて頭をばりばりと掻き、出てきた雲脂を振り払うように頭を左右に振った。
 ベッドから下ろされた爪先が、脱ぎ捨てられたサンダルを探る。裏返しになった片方をちょいと蹴飛ばしてひっくり返し、怠そうに足をそこに突っ込む。ずいぶんと遠くに放り出されていたもう片方を、これもまた爪先でつまんで引き寄せ、引っかけると、やっと立ち上がる。
 これもまた怠そうに運ばれる足との間でぺたぺたと冴えない音を立てるサンダル。やっとドアの前まで来ると、手がノブを引く。
 何かの当たる大きな音と手応え。
 と同時に、猛烈に甲高い悲鳴が、ドアの隙間経由とインタホン経由とで二重に部屋の中に響き渡る。
 泡を食ってドアを閉じる木津。
 ややあってから、木津はもう一度ゆっくりとドアを開いた。
 誰もいない。
 と思いきや、視線を落とすと、しゃがみ込んで頭を抱えている峰岡の姿があった。
 「……ぃったぁ〜い」
 「おい、大丈夫か?」すんでのところで吹き出しそうになるのをようやく堪えて木津が問う。「とんでもない音がしたけど」
 額をさすりながらよろよろと立ち上がった峰岡は涙目になっている。
 「ばかになっちゃったらどうするんですかぁ!」
 「ごめんごめん。で?」
 「えーと……あ!」
 「どうした?」
 両手で頭を抱えた峰岡に木津が真顔で訊ねる。峰岡は木津に向き直り、
 「今のショックで何をしに来たか忘れちゃいました」
 「……しばいたろか?」
 飛び退きながら峰岡が言う。
 「冗談ですってばぁ!」
 気の抜けた微笑を木津の顔に認めてから、峰岡はようやく戻ってきた。
 「入ってもいいですか?」
 「おうさ、コーヒー買ってくるから、入って待っててくれや」
 木津と入れ替わりに部屋に入った峰岡は、その途端充満する濃い煙に顔をしかめ、さらに例の吸い殻やら空き箱やらに目を止めると溜息を吐いて、そのひょうしに吸い込んでしまった煙にむせ返りながら、早速片付けを始めた。
 換気器のスイッチを入れ、床に落ちた空き箱とへし折られた煙草、それから散らばった紙屑を拾い上げ、築かれた山を崩さないように慎重に灰皿を脇の吸い殻入れに運び、灰を被った反故を取り上げると吸い殻入れの上で払い、揃えて机に戻そうとしたところで、ふと手を止めた。
 裏返しになった写真が一枚、これだけ乱雑になっていた机の、何故かそこだけ何にも浸食されていない一隅に置かれていた。
 そこには二年ほど前の日付と、もう一言何かが細い女手で記してある。
 峰岡はそれに手を伸ばした。が、ドアの開く音に反射的に手を引っ込めて振り返った。
 「あ、悪いね、毎度毎度」
 空になった灰皿を見て木津は言うと、またベッドに腰を下ろし、手にしたコーヒーを音を立ててすすった。
 「んで?」
 「あ……」
 「何だ」と木津は身を乗り出す。「本当に記憶が抜け落ちたか?」
 峰岡は額をさすって「大丈夫みたいです」と幾分早口に言う。「でですね、S−ZCなんですけど」
 木津は一旦引っ込めた身を再び乗り出す。
 「部品の交換だけで済んじゃったそうです。もう動かせるそうですよ」
 木津は天井を仰いで、さっきまでのとは違う長い息を吐いた。
 今日も格闘戦の訓練があったのだが、その時に木津は朱雀の一部を損傷させてしまっていたのだ。さっきまで腐っていた理由の一つはそれだった。
 「で、阿久津主管からおまけの伝言です。何があったか知らないけど、あんまりはしゃぐな、だそうです」
 木津は肩をすくめた。はしゃいでいるつもりはさらさらなかったんだがな。むしゃくしゃしてはいるとしても。
 「それからですね」峰岡は続ける。「今日これからなんですけど、アックスは安芸君以外みんな出払っちゃうんです。結城さんと由良さんは夕方から当局に行くそうですし、小松さんは用事があるから帰らなきゃならないって……」
 「皆まで言うな」
 そう言って制する木津の顔は、峰岡が思わず後ずさるほどにやついていた。
 「やりますよ、不寝番だって何だって」
 そして言うまでもなく、これがもう一つの理由だった。
 

 暗い室内で、スクリーンに映し出された画像の色彩だけが、机の上と、スクリーンに見入る顔の上に、毒々しい光を投げている。
 右手の動きに応じて次々と画像は現れ、消える。一連の画像に続いて、今度はいくつかの表がスクリーンに出てくる。顔がそれに近付けられる。表に並べられたいくつもの数値を食い入るように見つめる目。
 再び右手が動き、繰り返されるのも何度目かになる画像を、ほとんど執拗なまでに表示させる。
 現れたのはRフォームのG−MB。ガンメタルの車体色は、それが当局の仕様に合わせた「特一式特装車」ではないことを示している。それから同じくG−MBのWフォーム、Mフォームの画像。続いて青いボディ。S−RYの三態が前に倣ってその姿をスクリーンに現す。
 右手が操作を続ける。
 S−ZCを映すスクリーンを前に、唇は声にならない言葉をつぶやいた。
 脇に立っていた男がそれを聞き取ろうとするようにスクリーンに顔を寄せた。
 スクリーンに釘付けになっていた視線がその時近付いてきた顔へと移され、右手の指がスクリーンの中を指した。
 男はまず無言で頷き、それから念を押すように低い声で言った。
 「こいつですね」
 

 続けざまに大きなくしゃみをした木津に、安芸がちり紙を箱ごと手渡す。
 鼻をかみながら礼を言う木津。
 「どっちかにしませんか? 話すか鼻をかむか」
 ちり紙を丸め、とどめに鼻をすすると、
 「ま、いいじゃないか」
 そして伏せたカードを再び手にする。
 苦笑しながら手札を切った安芸が場のカードを全てさらっていく。
 「ひっでぇなぁ、裸かよ」と舌打ちしながら木津は自分のカードを場にさらす。
 安芸がカードを切り、場に出された木津のカードをこれもまた取ると、
 「上がりです。六点」
 「あひゃー!」
 大袈裟に両手を上げてみせる木津。場に散ったカードをかき集めて切り始める安芸の弾けない口調。
 「これで四十三対ゼロですよ。レート下げますか?」
 「なぁに、まだ三回ある」
 「……煙草の火が消えてますが」
 木津は寄り目をして煙草の先を見ると、平静を装ってライターを取り出し、火を点け直すと三、四度立て続けにふかしてから配られたカードを手にした。
 安芸が手札から最初の一枚を切り、台札に手を伸ばすと、零時の時報が鳴った。
 「お客さん、来ますかね」と安芸がつぶやく。切った手札もめくった台札も安芸には戻ってこない。
 が、場札を見た木津は逆に勢い込む。
 「来た来た!」
 威勢良く手札を切り、台札をめくる。
 「よし来た! 大当たりだぜ」
 場札をかき集める木津を笑いながら見る安芸。峰さんは、歳の割にすることがおじさんぽいと仁さんのことを言っていたけれど、どうして、こんなふうに夢中になるところはむしろ子供っぽいじゃないか。きっと今夜も喜んで当番の代役を引き受けたんだろう、おもちゃを欲しがる子供のように、「ホット」に会いたい一心で。
 結局その回は木津が十四点を上げた。
 「運が回ってきたな」
 札を切り混ぜながらにやりとする木津に、安芸は黙って微笑んでいた。
 十数分後、安芸の穏やかな微笑はそのままだったが、木津のにやりは高笑いに変わりつつあった。
 「こいつぁラストで大逆転もありだな」
 配られた手札を見た木津の顔は笑いにひきつらんばかりだった。
 「おっしゃ、行くぞ」
 木津の指が手札の一枚を摘み上げた。
 その時、木津にとっては久々の、そして待ち焦がれていた音が聞こえた。インタホンからのチャイムの三連打。手札を伏せて、安芸が情報を読みに行く。
 「……お客さんです。ワーカー五、W区の廃棄物貯蔵エリアで……砲撃訓練?」
 目を上げると、木津が自分の手札を惜しそうに眺めている。
 安芸は言った。
 「運が向いてきましたね」
 

 先を走るG−MBが少し速度を落とすのを見て、木津もスロットル・ペダルを踏む足を少し浮かせる。
 ブレーキランプの向こうに、別の光が闇に現れ、消える。どうやらあれが例の砲火らしい。
 「結構大きいのを担いで来ているようですね」と安芸。「あの光り方からすると」
 それを聞いて木津はにやりとした。相手はでかければでかい方がいい。その方がこっちも派手に暴れられる。ただし勝手に暴れるわけにはいかないのが辛いところだ。指揮を取るのは俺じゃなくて進ちゃんだからな。
 その安芸から早速指示が出る。
 「ライト落とします。ソナーで走行」
 「了解だよ」
 木津の左手がコンソール・パネルのスイッチの上で踊り、消されたライトの光の代わりに、フロント・ウィンドウにはソナーからの情報から合成された電光の描く路面が浮かび上がる。と、その直後、それをかき消すような強烈な閃光が鉛色の夜空に走った。
 「何だ?!」
 木津は反射的にブレーキを踏んだ。
 同じく前でG−MBを止めた安芸が言う。
 「照明弾ですね。しかしどうして?」
 「その訳ってのを訊きに行くべさ」
 木津はさっきの自分の言葉も忘れたか、ハンドルを切り、安芸の前に出るとペダルを踏み込む。引きつるように歪む唇を、舌が一、二度舐めた。
 「仁さん、慌てないでください。向こうからも見られてます」
 安芸の言葉を裏付けるかのように、背後に弾着の爆発音。だがそれははるかに後方からだった。有効射程外だとしても、単なる威嚇にしても、狙いが不正確過ぎる。
 何か企んでいる?
 安芸もペダルを踏む。S−ZCを追い始めるG−MB。
 向こうからの砲撃はあれ以降ない。それどころか、「訓練」砲撃も止んでいるらしく、砲火も見えない。照明弾の残照もほとんど消えている。
 逃げたか? 待ち伏せか?
 ナヴィゲータの画面によると、向こうの陣取っているのは長大な廃棄物貯蔵庫の向こう側、運河に面した積み出し作業場らしい。
 安芸はその旨を木津に伝えると、言った。
 「仁さんは西側から回ってください。先に仕掛けてもいいですけれど、くれぐれも無理をしないでください。車体だって修理したばかりなんでしょう?」
 「おうさ」
 どうやら仁さんは今の言葉は聞いてくれていないらしい。加速していくS−ZCのテールを見て安芸はそう思った。
 一方その木津はコクピットでひとりつぶやいていた。
 「欲求不満だけは解消させていただくぜ。とりあえず奴がいようがいるまいがな」
 後輪を滑らせながら十字路を曲がる。横Gが木津の攻撃的な気分に拍車をかける。
 廃棄物貯蔵庫の壁が迫る。速度を落とすことなく木津はハンドルを切り、長い壁に沿ってS−ZCを走らせる。
 突然壁が切れる。やはり減速なしで木津は角を曲がり、細長い長方形をした倉庫の短辺を数秒で走り切ると、角でS−ZCを朱雀に変形させ、警戒姿勢をとって停止した。
 木津の舌が唇を舐める。
 砲声はしない
 暗視装置のスイッチを入れ、建物の陰から向こうをうかがう。
 見えた。安芸の言った通り、長く太い砲を中心に据え、その周りをハリネズミのように砲身が取り巻いている、凶悪そうな武装ワーカーのシルエットが一つ。
 一つだと?
 第一報ではワーカーは五両だと言っていたはずだ。ナヴィゲータの情報を信用すれば、隠れる場所はない。他は逃げたのか?
 木津は舌打ちをした。期待していなかったと言えば必ずしも正しくはないが、久々の出動でもはずれを引かされたわけだ。こんな状況で奴がいようはずがない。
 レシーバから安芸の声。
 「仁さん、仕掛けなかったんですね」
 木津は応える。
 「あんまり焦ってやるほどのものでもなさそうじゃないか」
 「そちらから目標は確認出来ますか?」
 「ああ、二〇パーセントだけな。そっちはどうだ?」
 「やはり一両だけしか確認出来ません。それに、確かにこれもエンジンが動いていないように見えます」
 「トラブって逃げ損ねたクチか? そんな間抜けな代物じゃ、絶対『ホット』の息の掛かった奴じゃないな」
 「どうします? 期待外れだったかも知れませんが、やりますか?」
 「俺が?」
 「たまには動かないとなまりますからね。ここはお任せします」
 「ありがたくって涙が出るね」
 苦笑いしながら木津は朱雀の左腕をワーカーに向ける。
 「ま、最初はノックぐらいしないと」
 トリガーが引かれる。
 衝撃波の直撃を受けて、砲身の何本かが折れ曲がった。それでも本体は動こうとする気配をみじんも見せない。
 「本当にいかれてるのか? また中で自殺したりはしてねえだろうな」
 「とりあえずは武装解除させますか」
 「そうだな」
 応えながら木津は銃の設定を変更した。そして再度トリガーを引く。向こう側からは安芸もまた一呼吸遅らせて衝撃波銃を放った。
 ワーカーを覆うような砲身が次々と潰される。残るは大型の一門のみ。
 「ここまで来ても抵抗なしか」
 「考えられるのは三つですね。トラブルで本当に二進も三進もいかなくなっているのか、それで中で自殺しているか、それとも」
 「それとも?」
 「こちらを巻き込んでの自爆でも企んでいるのか」
 木津が口笛を長く鳴らした。
 「ただし他の四両がどこかに隠れているのでなければ、という前提でですが」
 ふん、と鼻から息を吐くと、木津は言う。
 「確かめてみるか。進ちゃん、ライトで俺を追え」
 そう言うが早いか、朱雀が貯蔵庫の陰から飛び出し、ハーフに戻ると沈黙する武装ワーカーにまっしぐらに突っ込む。それを玄武のライトが忠実に追いかける。
 ワーカーの沈黙は変わらない。玄武が照射を続けながら周囲を警戒するが、それ以外からの動きも全くない。
 「本気で寝てやがんのか?」
 砲口の正面に躍り出したハーフが再度朱雀に変形しジャンプ。闇の中でスポットライトを浴びた緋い痩躯に、しかしやはり何の攻撃も仕掛けられはしなかった。
 舞い降りた朱雀は砲身に馬乗りになる。
 見ている安芸の方が不安に駆られてくる。もう一つの可能性、朱雀を巻き込んでの自爆という可能性はまだ否定されていないのだ。
 ライトに照らし出された朱雀とその下のワーカーを安芸は見る。そして気付いた。
 「仁さん、右爪先の少し先にハッチがあります。開けられますか?」
 「どれさ?」
 砲身の上で腹這いになった朱雀の右手が、ワーカーの側面を探り、一本のレバーの上を人差し指がなぞった。
 「それです」
 「ちょっと無理だな。指が太過ぎる……進ちゃん、援護頼む」
 止める間もなく、安芸は開かれる朱雀のハッチと、そこから滑り降りる木津の姿を見ることになった。
 安芸の左手は衝撃波銃の制御板の上に移された。生身の人間と金属の塊と、両方に気を配らねばならない。それに一門の銃で対応しなければならない。
 警戒姿勢をとる玄武が、こういう時のための装備も何も入っていない空っぽのバックパックを負う背中をかすかに揺らした。
 一方そんな安芸のことは最初から念頭に置いていない木津は、ワーカーのハッチに続くステップに降り立った。
 ノックをする。もちろん返事のあるはずはない。それを確かめると、木津はハッチのハンドルを引き、同時に身をかわした。
 中からは怯えたような声だけが聞こえてくる。他には発砲も何もない。
 当局ならこういう時は拳銃を構えて飛び込むんだろうけどな。中途半端に手伝いをやらされてる民間のつらいところだ。そう思いながら、木津はドアの陰からコクピットの中を覗き込んだ。
 シートの上で、身を強ばらせてハンドルやらレバーやらを手当たり次第に動かしている多分まだ二十歳そこそこの若い男。その怯えたような顔が木津のヘルメットに向けられては、またむやみにハンドルを、レバーを動かそうとする。
 「よせよせ」と、男のものすごい表情に笑いを誘われながら木津が声を掛ける。「トラブってるんだろ? 諦めて降りろ」
 男がもう一度木津の顔を見た。と、いきなりシートから腰を上げ、低い姿勢のままで猛然と、叫び声を上げながらハッチの方へ飛び出してきた。
 木津は半歩退くと、さげた足でハッチのドアを思い切り蹴った。
 ドアの閉じる音と、飛び出そうとした男の頭がそこに勢いよくぶつかる音とが一緒になって響く。
 それを聞きつけてか、安芸がレシーバ越しに声を掛けてくる。
 「仁さん? 問題ないですか?」
 「ああ、今のところはな。こっちの兄ちゃんは丸腰らしいし、このワーカーも本気で動かないらしい。そっちはどうだ?」
 「動きはありません」
 「ふむ」
 応えとも言えないような応えを返しながら、木津はハッチをゆっくりと開けた。
 誰もいない。
 と思いきや、視線を落とすと、足をこちらに向け、狭いコクピットの中でくずおれている男の姿があった。
 「こっちも動きがなくなっちゃったが、どうする?」
 「また自殺ですか?」
 「そんな大仰なもんじゃないよ」と木津は経緯を説明して聞かせる。
 微かに笑いを含んだ安芸の声。
 「同じことを今日峰さんにやってませんでしたか? たんこぶが出来てたみたいですが。それはともかく、当局に引き上げの要請を出しましょうか。乗員はコクピットに閉じ込めておけば大丈夫でしょう」
 「ああ、頼むわ」
 そう言いながら木津は、結局自分の前では沈黙したままだった巨砲と、そこに跨っている朱雀を見上げた。久々にしては、何ともつまらない出動だったな。朱雀よ、お前さんの出番なんざ、無いに等しかったじゃないか。今夜は「ホット」相手とはいかないまでも、せめて一暴れくらいはさせてもらえるかと思ったのに。
 金属製のステップを蹴り、木津は一歩踏み出してふと足を止めた。
 「進ちゃん、質問」
 「何ですか?」
 「俺はどうやって朱雀に戻りゃあいいんかね?」
 「え?」
 「いやさ、降りてくるのは何も問題なかったんだが、登るには足場も何もなくってさ」
 「……仁さんって結構後先考えないで行動する傾向がありませんか?」
 そう言いながら、玄武がゆっくりとこちらに近付いて来た。
 「済まんかったね」
 にやつきながら木津は差し出された玄武の手のひらに腰掛けた。そしてコクピットの脇まで持ち上げてもらうと、身を翻してシートへと滑り込んだ。
 同じように身を翻して、今度は朱雀が砲身から飛び降り、着地する。
 と、安芸のつぶやきが聞こえた。
 「おかしいな……」
 「どうした?」
 「当局の担当が応答しないんです」
 「久我のおばはん通してもらったら? こういう時は出て来てるんだろ?」
 「そうですね」という応えに、LOVEを呼び出す安芸の声が続いた。
 木津の予想通り、久我が応答してきた。
 だが状況を伝えた安芸に久我の返してきた言葉は、予想外のものだった。
 「当局は現在事情があって身柄、車両共に収容出来ないと伝えてきています。止むを得ないので、LOVEに一時収容を行うことにしました」
 「このでっかいワーカーを、俺達二人してえっちらおっちら担いで帰って来いってのかい? 棒か何かにくくりつけてさ」
 茶々を入れる木津に、久我はいつも通りの平静さで応える。
 「これから回収班を送ります。それまで両者は状況を保持」
 「へーへー」
 答えながら木津はワーカーにもう一度視線を投げた。
 重たげな塊のように見えるそれは、あの若い男をコクピットに入れたまま、相変わらず動く気配を見せようとはしなかった。
 

 午前二時。
 久我の執務室に、引き上げてから着替えもしていないままの木津と安芸、そして夜中に飛んで来たにしては妙に乱れのない姿の久我が顔を揃えた。
 「今回はやはり妙な印象は拭えません」
 一通りの報告を済ませてから、安芸がそう付け加えた。
 「そうだよな」と木津が口を挟む。「あんだけのでっかい大砲を積んだワーカーだ、どう見たって奴の配下だろうと思ったら、抵抗も何も無しときたもんだ。関連があるんだかないんだか、それさえも分からん」
 「少なくとも」久我が言う。「重作業車両については、明朝当局の許可を得てからこちらで解体作業を行いますので、例のマーキングの有無は確認出来ると思います」
 「乗ってた奴はどうするんだ?」
 「当局の指示があり次第、身柄の引き渡しを行います」
 「それもよく分かりません」と、これは安芸。「今回に限って、何故当局が直接収容に当たらなかったんでしょうか?」
 「理由はこちらには伝えられていません」
 木で鼻を括ったような久我の口調に、思わず木津が切り出す。
 「理由も聞かずにはいそうですかと返事しちまったって訳かい?」
 調子を変えることなく久我は答える。
 「こちらから当局にそういった内容を詮索することは出来ませんので」
 毎度のことながら、この人感情ってもんがあるのかね。木津は腕を組み、椅子の背もたれに上体を預けた。
 そこに再び安芸。
 「で、乗員の身柄は引き渡しまではどこに置かれるんですか?」
 「いくら何でも留置場までは完備してないだろ? ここには」と木津の茶々。
 「代用出来る施設は存在します」
 また一言言いそうになる木津に先んじて、安芸がその施設の何たるかを問う。
 「例えば什器倉庫のように、外からのみ施錠出来て、屋外へつながる窓のないところであれば問題はないでしょう」
 木津は煙草を取り出そうと胸ポケットを探ったが、ドライビング・スーツのままだったことに気付いて、ポケットを探り当て損ねた右手をそのまま顎に持っていき、ぽりぽりと掻いてから大きく息を吐いた。
 「で、そこに放り込むべきご当人は、今はどこに置いてあるんだ?」
 「今は医務室で検査中です。額に打撲による裂傷が認められるようですが、脳波には問題ないとの報告が来ています」
 安芸が木津にちらりと視線を走らせた。木津が横目でそれに応える。
 久我はそれに気付いたらしかったが、特に何も言わずに続けた。
 「もし明朝の段階で当局からの身柄引き渡し要請が来ないようでしたら、お二人には臨時の留置場の準備をお手伝いいただくことになるかも知れません。その際はよろしくお願いします」
 

 ドアが開き、灯りが点る。
 昼間峰岡が片付けたままの状態を保っている部屋。戻ってきた木津は、キー・カードを整頓された机の上に放り出そうとして、ふとその手を止めた。くたびれたパンダのキーホルダーが揺れる。
 すっかり見通しが良くなった机の上。紙屑の谷間になっていた、昨日から置きっ放しにしていた写真のある一隅までが見渡せた。
 木津は机から写真を取り上げるとベッドに腰掛け、手にした写真を見ながら、低い、それでいて不思議と優しく聞こえる口調でつぶやいた。
 「……ごめん、今日もだめだったよ」
 そして似つかわしくない溜息を一つ吐くと、右の手のひらに顔を埋めた。
 「くそっ……いつまで……」
 穏やかな微笑を留めた写真が、木津の左手で震えた。
 

 

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