Chase 11 - 忘れられた歌

 
 けたたましい目覚まし時計のベルが鳴ると、丘のように盛りあがった布団からのたのたと片方の手だけがにじり出てくる。
 その手は手探りで時計の在処を探り当てると、ベルのスイッチを押そうとして一度見事に空振りし、次の一撃はヘッドボードを直撃、三度目でようやく静寂の回復に成功した。
 それからもう一方の腕が布団から伸びてきて、二本揃ってうんと伸びる。
 続いてようやく頭が出てきた。短い髪の毛が寝ぐせであちらこちらに跳ねている。少し顔がはれぼったいような感じもする。昨夜のお酒が残っちゃったかな?
 とても二日酔いとは見えない軽快さで起き直ると、峰岡はベッドから降りて足どりもまた軽やかに洗面台に向かった。
 まるで少年のような威勢のよさで顔を洗うと、顔を拭ったタオルを絞って頭に巻き、パジャマのままでキッチンに立って朝食の支度、さらにコーヒーを沸かす間にクローゼットの扉を開いた。
 パジャマの上下がベッドの上に放り投げられ、わずかの間露わになった、VCDVの乗り手にしては華奢な裸身が、ベージュのブラウスとワインレッドのスカートに包まれた。
 頭のタオルはそのままに、シリアルとサラダとヨーグルトにカフェ・オ・レの並ぶテーブルに着くと、テレビのスイッチが入れられる。天気予報は晴れ、季節の割には穏やかに暖かくなるらしい。後はルールをよく知らないスポーツのニュースを聞き流しながら、朝食の皿をたいらげる。
 甘いカフェ・オ・レを飲み干すと、食器一式は洗浄機の中に並べて、自身は歯磨きのための洗面台経由でドレッサーの前に陣取る。巻いたタオルの下で、跳ねていた髪はどうやらおとなしくなったようだ。こいつに軽くブローして止めを刺し、していないと同然の化粧をすると、モスグリーンの厚手のカーディガンを羽織り、洒落っ気のない代わりに機能性は十二分のショルダーバッグを取り上げた。
 出発準備完了。
 エレベータでアパートの地下に降りる。駐車場には通勤用のパステル・イエローの小さな丸い車。まさかこの車の運転手がS−RYのような代物を操り、暴走車両の相手をまでするのだとは、誰も思うまい。
 キー・カードを押し込み、スタータ・ボタンでエンジンを始動させると、同じ指がエアコンとオーディオのスイッチを入れる。
 エアコンは温風を吐き出すまでに少し時間がかかったが、オーディオの方はすぐに音楽を流し始めた。メディアから呼び出されたのは、彼女お気に入りのゆったりとしたストリングス。そこに自分の鼻歌を乗せると、峰岡はスロットル・ペダルを踏み込んだ。
 表通りに出ると、いつも通りに整然とした通勤車両の流れ。小さな車体をひょいと滑り込ませ、いつも通りのコースをたどる。
 緩衝地帯へ渡る橋のたもとで、左右から道路が交差する。通りしな、その左手で信号を待つ列の先頭に、峰岡はメタリック・グレーのカウリングを付けた大型二輪車の姿を認めて微笑んだ。
 やがて背後で信号が変わり、件の二輪車が高めのモーター音を響かせながら、峰岡の車を追ってきた。
 カウリングと同じ色のフルフェイスのヘルメット、革のジャンパーに身を包んだ安芸が、峰岡に挨拶代わりのパッシングを浴びせる。それに峰岡が返事をする間も与えず、安芸の二輪は峰岡を抜き去っていく。
 行き会えばいつものこと故、別段スロットル・ペダルを踏み込むでもなく、峰岡はそのままのペースで車を走らせる。
 「外橋」と呼ばれる、緩衝地帯と工場区域を結ぶ橋を渡り、さらに車を走らせると、一緒の流れでこちらに渡ってきた車がそれぞれの勤め先へと分かれ、その数を次第に減らしていく。そうやってほとんどの車が消えても、峰岡は走り続ける。そして区域のほとんど外れに近い、更地と廃工場が周囲の大方を占める中に地味に建つ特殊車両研究所の駐車場へと車を滑り込ませる。
 始業十五分前。今日もいつも通りに到着。
 

 「おっはよーございまーす!」
 始業の鐘と同時に、今は事務服に身を包んでいる峰岡は久我の執務室に飛び込む。
 久我はもう一時間も前からそうしているかのようにデスクで書類に目を通していたが、その視線を峰岡の方へ上げて挨拶を返した。
 峰岡はいつも通りにコーヒーの支度を始めながら、細かい話までは決して返って来ないと分かってはいる質問を、これもいつものように久我に投げかける。
 「昨日の出動の記録ですか?」
 久我の答えは簡単な肯定のみ。
 「『ホット』関係だったんですか?」
 この問いには簡単な否定のみ。
 「最近めっきり減ったみたいですね。アックス・チームが出来てから、一回も来てないんじゃないですか?」
 これには久我の答えはなかったが、峰岡の言葉は事実だった。出動の中心が安芸率いるG−MBのアックス・チームとなり、峰岡や木津にこれまでの任務が回ってこなくなってから早や一ヶ月近くになろうとしていたが、その間の出動要請は五回、そのいずれもが、件の甲種手配対象者とは無関係であることが明らかとなっていた。
 「これだったら、当局で本格的にG−MBを使い始めれば、MISSESもいらなくなっちゃいますね。仁さんがっかりするだろうなぁ」
 「その心配はないでしょう」
 予期せぬ答えに、久我に背を向けていた峰岡は振り返ったが、抽出完了を報せるコーヒーメーカーのチャイムにすぐに呼び戻された。
 もちろん久我は心配のない理由を説明しはしない。
 秘書同然の峰岡にも、この上司が何を考えているのか分からないことがしばしばだったが、こういう時は殊更にその印象が深まるのだった。
 入れたてのコーヒーを机に運びしな、その理由を尋ねてみようかと峰岡は思ったが、結果の見当が付くので止めてしまった。その代わりにこう言った。
 「でも仁さんは最近ずいぶんくさってるみたいですよ。出動のお呼びがないからって」
 

 「ふぅん……」
 久し振りに久我に呼び出された木津は、話を聞くと、煙草をくわえたままさほど気もなさそうな素振りを見せた。
 「で、俺もやるの?」
 「そのつもりでお呼びしました」
 「進ちゃんとこだけでやってりゃいいんじゃないのかい?」
 あからさまに皮肉な口調をものともせず、久我は言った。
 「これもテスト・ドライバーの業務の一つと理解して頂けると思います」
 木津は前歯でフィルターを二度三度噛み潰してから煙草をもみ消すと、腕を組んでソファにふんぞり返った。
 「ま、そういう契約でもあったしな」
 この台詞が単に了承の意味だけを含んではいないことは木津の口調からだけでも明らかだった。だがきっとそれを承知の上でだろう、久我はよろしくお願いしますと言った。
 木津は反り返ったまま、視線だけを久我に向け、口を開く。
 「それだけの契約でもなかったと思うけど、気のせいかね?」
 久我は調子を変えることなく答える。
 「これまでに『ホット』の関係する出動はなかったので、契約という点では決して反しているとは言えないと思います」
 「俺としては、奴がいるかいないかは自分の目で確かめたいんだがね」
 「当局からの情報では信を置くに足らないとおっしゃるのですか?」
 そう言う久我の口調は、信を置かれなくてもさして困りはしないという風に聞こえなくもなかった。
 「天気予報よりも精度が低いんじゃないかね。雨の予報が出ても、実際は雲しか出てきてないってことが多いような気がするぜ」
 「『ホット』が麾下の部隊を直接指揮しなくなったのは、その組織が拡大していることの反映だと当局では見ています」
 「当局では、か」
 木津はそう言いながら反り返ったままだった上体を起こし、ポケットから煙草の箱を取り出した。そして次の一本を抜き出す手を止めて、久我に言った。
 「あんたはどう見てるんだ? 『ホット』が動かない理由ってやつをさ」
 久我は木津の口から新たな煙が吐かれるのを待ってから答えた。
 「当局にG−MBが配備されたという情報はあちらでも入手しているはずです。恐らくは当局が動くのを待っているのでしょう」
 「玄武でか?」
 「G−MBで、です」
 訂正されて木津は肩をすくめた。それから
 「性能を掴もうって胆なのかね?」
 「性能を把握するのであれば、把握に値するだけのものを十分に引き出し得るのは当局よりは私たちの側です。であればアックス・チームの出動を狙って行動に出てくる方が有効です」
 「それもそうだ。てことは、性能目当てじゃない?」
 「単に性能だけでなく、構造や機構の情報を得るために、車体そのものの鹵獲を目論んでいるとも考えられます」
 「どうやって? ワーカーで寄ってたかってふん捕まえようってのかい?」
 木津は煙草を吸うと、天井に向けて長々と煙を吐き出し、続けた。
 「まさか、その格闘の訓練ってのは、そういう場合のためってんじゃないだろうな?」
 「厳密に言うと少し違います。確かにワーカー等との格闘は念頭に置いてはいますが、それは必ずしもVCDV鹵獲への対策というわけではありません。あくまで実際の出動時における必要性に鑑みてのことです」
 「今まではその必要性があったようにも思えないがな。それとも俺が出て行かなくなった間に、それっぽい動きでもあったかい?」
 「いえ、その逆です」
 おっ、という顔をする木津。
 「これまでに『ホット』がその活動を表立てていないからこそ、その疑念が生じます。『ホット』が新たな手段を講じてくる場合、その前に必ず数週間の行動停止期間があったのはご記憶ですか?」
 そう言われてみれば確かにそうだった。
 「……なるほど」
 「それにもちろん今回の訓練をテスト・サンプルの取得に留める気はありません。特にあなたにとっては」
 木津はまた肩をすくめて、煙草をもみ消した。
 

 翌日の午後、昨日までの穏やかな陽気とはうって変わって小雪でも舞いそうな曇った空の下、そして管制室に入れなかった野次馬の視線の下、テストコースのセンターフィールドに六台のVCDVがRフォームで並んだ。
 「こうして見ると何てことないよなぁ」
 「そりゃあさ、多少デザインが凝ってるだけで、一般の車とそう変わんないから。特にG−MBなんかそうだろ?」
 「やっぱりVCDVは変形して見せないとインパクトがないよな」
 そんな野次馬の声が届くはずもない管制室の中、管制官席で直々に指示を出しているのは、珍しく久我だった。
 久我がマイクに向かって一言発する。
 センターフィールドで数秒と経たない間に次々と立ち上がる朱雀、玄武、そして青龍。
 野次馬の群れから歓声が上がる。
 いや、歓声を上げたのは野次馬だけではなかった。まだ素材の匂いも取れていない新しい玄武のコクピットで、由良もまた視界の中に立つVCDVの姿に驚嘆していた。
 バックパックを背負ったような幾分ずんぐりした姿にガンメタルの機体色と、一種凶悪そうにさえ見えなくはない玄武。それに比べて片や濡れるようなメタリック・ブルー、片や爆ぜるようなソリッド・レッドの、共にシャープなフォルムを持った青龍、朱雀。そして由良が玄武以外の二機を見たのはこれが初めてだった。
 「すごい……」
 思わず漏らしたその声をマイクが拾ったらしい。結城が声を掛けてくる。
 「でもS−RYよりはG−MBの方がパワーはありますよ。S−ZCは使ったことがないから知りませんが」
 「そうなんですか」
 そこへ久我の次の指示が飛んだ。
 「アックス3、アックス4、前へ」
 雑談してるのが聞こえたかな? 少し顔をしかめてアックス4の結城が玄武を数歩進める。その横で同じく由良の玄武が前へ出る。
 「お二人は当局の訓練で格闘技の経験はおありのはずですね。最初に模範演技と言うことでお願いします」
 この指示に面食らったのは由良だった。確かにVCDVの基本動作はマスターしているつもりだし、出動もさほど派手な事件にこそ出くわしてはいないものの、数次に亘ってこなしてはいる。一方で当局では格闘技は確かに得意で、隊の中のみならず当局中でも相当上位にあるのは自他共に認めるところだった。しかしその両方をいきなり結び付けろとは……
 そんな由良とは対照的にはっきりとした、結城の了解の復唱が聞こえた。
 結城の玄武が位置を変え、由良の正面に立つ。残る四人はそれぞれがテストコース周回路へと待避する。
 相対し、構えを取る玄武を前に、コクピットで由良は頭を掻いた。
 結城の玄武が歩を進める。
 野次馬のざわめきが鎮まった。
 

 「いや、しかし」
 小松が息を吹きかけて冷ましながら湯気の立つ中国茶をすすり、口を切った。
 「強いねぇ、由良さんは」
 由良は休憩室の椅子の上で頭を掻いた。
 小松の言葉を受けて安芸が言う。
 「さすが有段者ですね。あれだけ簡単に投げて、しかも機体を路面に叩き付けないように加減できるなんて」
 「でも確か、姿勢が不安定になると、衝撃を吸収するように自動的に手足のダンパーが柔らかくなる制御がされているんではありませんでしたか?」
 幾分早口に由良が問う。
 「それだけじゃ全部は制御できませんよ。え? ということは無意識で?」
 「なんでしょうかね?」と、また由良は頭を掻いた。
 「でもそれで助かったべ。力任せに投げたれたら、阿久っつぁんが泣くぜ」
 ただ一人由良の仕掛ける投げを堪えきった木津も、紫煙の間から口を挟んだ。
 「しかし、俺だって朱雀のパワーがなきゃ踏ん張りきれなかったよ、あれは」
 「いえ、技というのは力だけでかわせるものじゃないんですよ」とこれは結城。由良と共に指南役に回った彼も、最初の模範演技で真っ先に由良に投げを喰らったのが響いて、この場では少しく影が薄かった。
 「力じゃなくてすばしっこさかね、お茶汲みみたいにさ」
 そう木津が引き合いに出した峰岡の青龍は、組み付かれるのを嫌ってフィールド中を逃げ回っていたのだった。もっとも結局は結城にも由良にも捕まって軽く尻餅を搗かせられたのだったが。
 思い出して皆が笑い出す。
 その中から安芸が身振りを交えて問う。
 「ああいう技って言うのは、相手の力を受け流して仕掛けるんでしたっけ?」
 「おおまかに言えばそんな感じですね」答えたのは結城。
 「その辺の加減を勉強させてもらわないといけなさそうだねぇ」小松がまた茶をすすりながら言い、その様子を見て木津が笑った。
 「爺むさいなぁ、小松さん」
 「そりゃ三十路だしねぇ。君たち二十代の若者とはちょっとね」
 「何を言ってるんですか」と、この輪の中で一番歳の若い安芸も笑う。
 その脇で恐縮しっ放しだった由良はふとその丸い顔を窓の外へ向ける。
 「あ、落ちてきましたね」
 その言葉に、残る四つの顔が一斉に窓へと向けられる。
 「ああ、やっぱり雪になったか」
 「そう言えば」結城が言い出す。「雪が積もったら、VCDVでもやっぱり動けなくなるんでしょうかね?」
 「あれ?」
 木津がにやにやしながら口を切る。
 その横の安芸は、こういう顔の時の木津がどんな類のことを言い出すのか見当の付いている様子だった。
 「玄武の場合はさ、バックパックからスキーを出して履くんじゃないか?」
 「それじゃ朱雀はどうするんです?」
 「こたつでみかん」
 「爺むさいねぇ」と小松が言われた台詞をそのまま返して、また茶をすする。
 四人が笑い出す中、一人結城が真顔で、食い下がるように切り出した。
 「『ホット』が出てきても、ですか?」
 「その時にゃ」と口許は今まで通りににやにやしながら、しかし目からは笑みを消して木津は答える。「朱雀にもスキーを履かせてもらうさ。もっとも『ホット』がコールドなお日柄の時にお出掛けして来ればだけどさ」
 

 同じ頃、久我の執務室。
 「あ、雪」
 峰岡の声に、久我は作成中の資料から目を上げ、その視線を窓の外へ移した。
 窓の傍らに立ち、久我に背を向けて峰岡は外を眺めている。
 「冷えると思ったら……」
 そう言いながら振り返った峰岡は、久我の手がデスクの上で珍しく止まっているのに気付いた。その目は窓の外で舞う雪のつぶてを見つめている。
 峰岡もまた窓へと向かう。
 「でもきれいですよね」
 答えはなかった。
 久我は無表情のまま、手元も、そして視線をも動かすことなく、ただ雪を見ていた。
 と、その唇がかすかに歪み、何かをつぶやくように動いた。
 「はい?」と峰岡がまた振り返る。「コーヒーですか?」
 久我の頬が微笑むかのように動いた。
 「そうね、お願いします」
 窓の横を離れた峰岡は、鼻歌混じりにコーヒーメーカーへと跳んでいき、そして久我の視線はまた資料へと戻った。
 間もなく峰岡が熱い湯気の立つコーヒーを運んでくる。そして作りかけの資料の文面を映し出すディスプレイ・スクリーンの脇にカップを置く。と、カップと皿の立てる小さな音と同時に、スクリーンの中に電送文書の着信を知らせる画面が現れた。
 遠慮して首を引っ込める峰岡。
 カップに手を伸ばす前に、久我は通信文を開き、その視線の動きを峰岡の目が追った。
 ややあって、一通り読み終わったのか、久我は椅子に腰掛け直すと、やっとカップに手を伸ばし、まだ湯気の途切れないコーヒーを一口飲んだ。そして珍しく、峰岡の問いかけを待たずに自ら口を切った。
 「今日、当局のG−MBに初めて出動の命令が下ったそうです」
 おお、という表情の峰岡。
 「どんな内容だったんですか?」
 この問いに、久我は通信文を要約して聞かせた。曰く、工場区域D区某所にて武装暴走車四両発見の報あり、これに対し特種機動隊所属の特一式特装車四両出動。D区内副道路線某番にてこれを補足、目標全ての捕獲連行を完了した。
 「当局では特一式って呼んでるんですか。それにしても、当局の報告書ってつまんないですね」峰岡が言葉通りの顔つきで言った。「その特一式がどんなふうだったかって書いてくれなきゃ、うちに話をされてもしょうがないですよね」
 「これは公式の報告の一部です」と久我。「LOVEにとって必要な情報については、別に記録と見解を書いてきています」
 「ですよね。そうじゃなくっちゃ」
 久我の手がまたカップを口許へと運ぶ。
 「そう言えば」と峰岡。「相手は武装暴走車だったんですよね? ということは、『ホット』ですか?」
 コーヒーを飲み、吐いた息に続いて否定の答えが返る。
 「実際には武装はしていなかったとのことです。『ホット』との関連はないでしょう」
 「そうですか」峰岡の安堵の表情。「それで、G−MBはどうだったんですか?」
 

 後ろからぽんと頭をたたかれて、峰岡は顔をほころばせながら足を止める。振り返らなくても分かっている。こういうことをするのは一人しかいない。
 「何するんですかぁ仁さん!……って、あれ?」
 振り向くとそこにいたのは阿久津だった。
 「何だね真寿美ちゃん、仁ちゃんにもこういうことされるんかね?」
 照れ笑いをしながら峰岡は頷いた。
 「ご本尊様なら自分の部屋におるよ」
 「はい、ありがとうございます!」
 首が抜けそうなお辞儀を一つすると、ほとんど走り出さんばかりに峰岡は歩き始める。
 その背中に微笑すると、阿久津は脇に抱えた資料を持ち直し、急ぐ風もなく歩を進めた。
 

 部屋に入ると「ご本尊様」こと木津は、紫煙にまみれながら書きかけの資料と格闘の最中だった。
 「今日の訓練のレポートですか?」
 「ああ、でも形だけ。要点は阿久っつぁんに話しちまったから、これはおばさん対応」
 「主管に? それじゃあ、また朱雀を改造するんですか?」
 「いや、今回は特に改修の要を認めず、格闘戦用途には十分に堪え得る、てのが内容。で、一つ付け加えようかどうしようか考えてたんだけどさ」
 「はい?」
 「由良先生が強すぎ、って書いていい?」
 「お勧めしません」と苦笑いの峰岡。「それはそうと、一つニュースがあるんですよ」
 そう言って峰岡は、さっき久我から仕入れたばかりの当局のG−MB初出動の話をする。
 そこそこに興味を持ったような顔で聞いていた木津は、最後に相手が『ホット』ではなかったことを聞くと、にやりとした。
 「そいつぁよかった」
 峰岡は何も言わず、その理由も聞かなかった。久我から同じ話を聞いた時、思わず安堵の表情を浮かべたのは、木津の思いが想像できたからだった。だが、それに続く、指の骨を鳴らしながらの低いつぶやきまでは予想していなかった。
 「当局なんぞの手に掛けさせてたまるかよ」
 峰岡は思わず体を震わせた。
 「トイレだったら我慢しない方が健康のためにはいいぞ。あ、そう言えば雪はどうしたかな」と言いながら、にらむ峰岡から逃げるように椅子から腰を上げ、木津はカーテンを開ける。
 はらはらと舞う程度の雪は、積もるということもなく、うっすらと木の葉を覆っている。
 「何だ、大したことないな」
 「積もった方が好きですか?」
 木津は少し考えるような様子を見せてから、「そうさね、どうせやるなら徹底的にやって頂きたい」
 「仁さんらしいですね。それはそうと、この資料どうします?」
 そう言って、本当はそれを届けるのが目的だったのに、今までそっちのけにしていた本の束を差し出した。
 「ああ、その辺に適当に積んどいて」
 はいという返事の後に鼻歌を続けて、本を積むためのスペースを確保すべく、峰岡は脇机の上を片付け始め、木津は新しい煙草に火を点けて再び作りかけの資料と向かい合う。
 が、はっとしたようにその手が止まる。
 するはずの木津の作業の音がなく、自分の鼻歌しか聞こえないのに気付いた峰岡が、作業と鼻歌を中断して木津を見た。
 宙に浮いていた木津の視線が、峰岡に向けられた。
 「うるさかったですか?」
 小さくなって峰岡が訊ねる。
 「……いや、そんなことはないさ」
 そう言いながら、木津は視線を峰岡から動かそうとしない。いつもなら喜ぶだろう峰岡はうつむいてしまった。
 「いや」まだほんのわずかしか灰と化していない煙草を灰皿に押しつけると、ようやく木津は口を開いた。「その鼻歌、ずいぶん珍しい歌を知ってるんだな、と思ってさ」
 峰岡の顔が上がった。
 「これですか? 好きなんです、この曲。でもこの曲を知ってる人って、あたしの周りには全然いないんですよ」
 「丁度こんな天気の日の歌だったっけ?」
 「そうですね、こういう日にはよく思い出すんです。あ、もしかして仁さんも知ってるんですか?」
 「聞いたことはあるよ。本人の声でじゃないがね」
 その言葉と同時に、木津の視線は峰岡を離れ、瞼に閉ざされた。峰岡の嬉しそうな表情は、それを見て訝しげなものに変わった。
 木津は再び目を開けると、訊ねた。
 「その歌、歌える?」
 「え、え、え? ここでですか?」
 「それでもいいけど」と笑いながら木津。
 少し恥ずかしげに峰岡は、「外に聞こえちゃったらまずいですね」
 「大丈夫だろ、ガラスの割れるような声を張り上げなきゃさ」
 「うーん自信ないなぁ。前に誰の歌で聞いたのか分からないですけど、聞いてがっかりしないで下さいね」
 木津の頬に曖昧な笑みが浮かんだ。
 助走でもするかのようにもう一度数節を鼻歌で奏でると、峰岡は歌い始めた。
 トーンの高さこそ変わらないが、話す時の弾けた調子とは違う、深みさえ感じられるような歌声が流れる。
 木津は頬杖を突いて聞いていた。「あのこと」以前の自分を、そしてこの歌を聞かせられた時のことを思い出しながら。
 同じだな、こんな日にはいつでもこの歌だったっけ……
 唇にかすかに浮かぶ苦い笑いを、別の記憶が押し止めた。後頭部に回る木津の左手。指先が手術痕に触れる。それと共に、脳裏に忘れようとしても忘れられない記憶の残像が蘇る。爆発音、爆風、突き刺さる破片、なぎ倒される体、あの悲鳴、血、そして消えていくホット・ユニットの爆音。
 止められた笑みは噛み締められた歯の間で完全に消えた。
 そこに飛び込んできた峰岡の高い歌声が、木津を現実に引き戻す。
 歌は強拍から最初のパッセージの再現へと移り、そして終わった。
 ふうと一息吐くと、少しく紅潮した顔を両手で覆う峰岡。
 「あ〜調子に乗って全部歌っちゃった!」
 木津は笑いながら拍手をする。
 「こんなに歌が上手かったんだ。知らなかったよ」
 「ありがとうございます」と照れながら峰岡がもう一度頭を下げ、そして訊ねた。「仁さんは歌は?」
 「俺が歌うと、ガラスが割れる程度じゃすまないよ。衝撃波銃もびっくりってやつだ」
 いつものように吹き出しながら峰岡。
 「それじゃ今度出動する時は、ぜひ見せて下さいね、歌で暴走車を止めるところ」
 「おい!」と木津は小突く真似。それから腕を組んで言った。
 「今度は一体いつその機会がお恵みいただけるもんだか、まるっきり見当が付かないけどな。奴からも、おばさんからも」
 それを聞いた峰岡の表情に、またかすかな不安の影が落ちた。
 

 

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