特殊車両研究所LOVE内、久我の執務室。久しぶりに持ち場から腰を上げた阿久津の姿がそこにあった。
阿久津は久我のデスクの前にどっかりと座り込んで、口中剤を口に放り込んでがりがり噛むと、持ってきた資料を久我に付きつけんばかりに差し出した。
「S−ZCとS−RY五両、全て改修は完了です。改修点は予め資料でお知らせしておいた内容の通り、あれ以降の変更はありませんです」
デスクの上に置かれた資料を手に取ると、久我は一番上に乗ったS−ZCの改修作業報告書を読み、それから続く五部のS−RYの報告書をひと通りながめると、何も言わずにその全ての表紙にサインをして抜き取り、揃えてから阿久津に戻した。
「結構です。お骨折りに感謝します」
そんな型通りの労いなど無用といった雰囲気さえ感じさせるような調子で阿久津が無言でうなずくと、その頭が上がるのを待って、久我が問いかけた。
「後から頂いた変更は、テストで収集したデータに基づいてのものですね?」
「テスト?……ああ、木津君に手伝ってもらったやつですかな。無論です。盛り込ませてもらいましたとも」
そう言うと、阿久津は腕を組み椅子にふんぞり返った。
「追加テストや改修要目の量の割には完了は早かったですね」
ふんぞり返った上体を今度は前のめりにさせながら、阿久津は言う。
「邪魔が入りませんでしたからな」
その言葉の通り、あれからこの日に至るまで、当局からMISSESの出動が要請されるような事件は一度もなかった。
「何をしてござるのだか」
そう阿久津が続けると、久我が受けて
「当局の方でも『ホット』はじめその配下の動静は把握していないようです。従って、MISSESも当面は交代制の出動待機とするつもりです」
興味なさそうに口中剤を追加する阿久津。それを見てと言うわけではあるまいが、久我は話を変えた。
「S−ZC二号機については、先週の提出仕様にさらに変更が加えられると聞きましたが?」
阿久津の目元が少し細まる。
「そりゃあ、木津君のクレームやらテスト結果やらがたんまりありますからな。いろいろと取り込ませてみたくもなりますわい。変更分の仕様書がお入り用ですかな?」
答える久我は一切表情を変えずに。
「確定した物が用意できるのならば、提出をお願いします。ロールアウトの予定とそれまでのスケジュールも、それぞれ目処が付くようでしたら」
黙って肯く阿久津に、久我はさらに問いを続けた。
「それからG−MBの方は、これまでのスケジュール通りロールアウトするということでよろしいですね?」
「よろしいです。変更はござんせん」
LOVEの中にあてがわれた私室で、椅子にもたれて、木津はぼんやりと煙草を燻らせていた。いや、別にしたくてこんな風にぼんやりしているわけではない。
最近はM開発部以外からもテスト走行の仕事が来たりするようにはなった。しかし、それとてそう度々あることでもないし、あったとてVCDVとは違って極めて退屈な代物ばかりだった。そしてそれ以上に退屈なことに、朱雀を駆っての出撃がまるでご無沙汰になっていた。
一体俺は何をしてるんだろう、そう木津は思う。奴を追うのが目的でここに来たはずなのに、このところその機会は奴からは恵んでもらえない。逆にこちらから討って出るというのは久我の念頭には全くないらしい。と言うより、LOVEが当局から認められているのはいわば現行犯的な行為への対応だけで、いわゆる捜査レベルには口を出すな、と言うことなのか。それにしちゃその捜査とやらが進んでいる風は全然ないが。
半分が灰になり、今にもこぼれ落ちそうになっている煙草を灰皿でもみ消すと、そのまま机に頬杖を突いた。その肘の傍には、キーホルダーの溶けかけたようなパンダのマスコットが、つかれたようにあおむけに転がっている。そして朱雀のメイン・キー・カード。
ヤニ臭い木津の指がそれをひとまとめにつついて転がす。パンダがうつぶせに、またあおむけに。
きりもないその仕草を止めたのは、インタホンからの呼び出し音と弾けた声だった。
「仁さん、峰岡です」
「開いてるよ」
入ってきた事務服姿の峰岡は、いつもとは違って手ぶらだった。
「仕事じゃないね」とひと目見て木津。
「あれ? どうして分かるんですか?」
それには答えず、笑ったまま木津が逆に尋ね返す。
「仕事でないとすると、何の用だい?」
「お邪魔でしたか?」
「んにゃ、暇で閑でヒマでひまで困ってしまってわんわん鳴いてたんだが」
その答えを聞いた峰岡の顔が少しほころんだが、それは木津の言いっぷりのせいばかりではないようだった。
「週末もですか?」
「週末なんかなおのこと暇でしょうがないさ。パンツ洗うぐらいしかすることがなくってさ」と、また仕草混じりで答える。
「そうなんですか」と言う峰岡の表情は、ますます嬉し気になる。ようやくそれに気付いた木津がいぶかしげな顔で、
「何を企んでる?」
「知りたいですか?」
「ああ……もしかして」
峰岡の上体が心持ち乗り出す。
「こっちから『ホット』狩りへ出向こうって話じゃあるまいな」
峰岡の乗り出した上体が元に戻る。そして半ばため息混じりに、
「仁さん、いつも『ホット』のことばっかりですね」
「そりゃそうだよ、そのためにここにいるんだからさ。でも最近は奴も面を出そうとしないし、それで暇を持て余してるってわけさ……でもどうやらお嬢さんの御来駕の目的はそうじゃなさそうだな」
「ええ、残念ですが違います。実は」と言葉を切ると、ひときわ大きな声で「デートのお誘いです」
聞いた木津が固まった。
言った峰岡の方もその頬が心持ち赤く染まっている。
しばしの間。
先に口を切る木津の言葉はおうむ返し。
「デート?」
峰岡は何も言わず木津の顔を見つめる。
木津はもう一度、
「デート、ですかい?」
「あ、いえ、デートとかってそんな大袈裟なことじゃなくて、ですね、もし暇で暇でどうしようもなかったら、暇潰しにお買い物にでもつきあっていただきたいな、なんてちょっと思ってみたりしただけなんです」
身振り手振りをも交えた峰岡のこの狼狽ぶりに声を上げて笑い出さんばかりの木津が、問いかける。
「買い物って、何を買いに行くんだい?」
「えっ?」と、言われてそれを初めて考えている様子の峰岡。しばらくして、「えーとですね、そう、一応服とかこまごましたものを買おうかな、なんて思ってますけど」
木津は新しい煙草の封を切って、一本取り出すと、火を点ける前に一言、
「でもさ、俺は服に関しちゃあーだこーだ言うだけのセンスってのは、まるっきり持ちあわせてないぜ」
一転えっという顔つきになった峰岡。
木津は火を点けた煙草をぱっと吹かすと、追い討ちをかけるように言った。
「運転手と荷物持ち程度だったら何とかなるけどな」
その夜。
自室の鏡に映る峰岡の顔は嬉しさにとろけきっていた。
無理やり普通の顔を作ってみるが、こみ上げてきてどうにも止まらない笑いに十秒と持たない。我慢しようとそこで飛び跳ねてみるが、その様子はどう見てもはしゃいでいるようにしか見えない。
そこで、しなければならないわけでもない我慢をするのは早々に放棄して、溶けかけた自分の顔をもう一度鏡で見た。
週末のお楽しみへの期待があふれかえった自分の表情を見ているだけで、もうたまらなくなった。
とどめに一人で万歳三唱する峰岡だった。
「では出掛けます」
デスク脇のコートハンガーからグレーのジャケットを取って袖を通すと、久我は峰岡に告げた。
「お気をつけて。連絡先はいつも通りですね。お戻りは?」
「今日は戻らない予定です。定例の他に、もう一件調整がありますから」
「分かりました」と峰岡。「それに今日は週末ですしね」
週末だろうがそうでなかろうがあまり関係なさそうな久我はその言葉には意を留めず、
「待機担当の二人には外出の旨は伝えてありますね?」
「はい、安芸君に言ってあります。結城さんが見えなかったんですけど、また車庫ですね、きっと。暇さえあればVCDVの研究してますから」そして一つ付け加えた。「木津さんみたいにぼーっとしてないですよ」
「木津さんは最近は出動もないから、さぞ退屈していることでしょうね」
「そう言ってました」と峰岡は笑う。「木津さんには生憎だけど、今日もまた何もないですよね」
そう言う峰岡の声が、いつにも増して元気がいいのに、さすがに久我でもおやと思ったらしい。だがそれには触れず、簡単に
「油断は禁物」
と言うと、お願いしますと付け加えて執務室を出て行った。
そのすらりとして高い背中が閉じるドアに隠されると、峰岡はまた緩み始める頬を両手で押さえた。そして何とか気を紛らわそうとするように、デスクの上のコーヒーカップを片付け始めた。その傍らに置かれた時計は、終業まではまだ四時間余り残っていることを示している。
峰岡の予想通り、結城の姿はまた地下駐車場にあった。
改修のあがってきたS−RYが並ぶ。結城は自分に任されたマース2に乗り込み、コクピットの中で計器板や操作系を確かめてまた降り立ち、数日前と同じように、矯めつ眇めつ改修の加えられた車体の細部を確かめていた。まるで全ての構造を暗記しようとしている風でさえあった。
「ああ、やっぱりこちらでしたか」
急に聞こえたその声に結城が驚いたように顔を上げると、いつかのように事務服姿の安芸が近付いて来ていた。
結城は心持ち気色ばんで、
「何かありましたか?」
応える安芸は特に慌てた様子もなく、
「いいえ、一つお伝えしようと思って来ただけなんです。久我ディレクターなんですが……」
「当局に出張?」
木津は峰岡の言った言葉をおうむ返しに聞き返した。
「あれ?」と峰岡は首を傾げる。「仁さんは知らなかったんでしたっけ」
「ああ、聞いてないけど」
「毎月一回うちとあちらの間で定例会議みたいなのをやってるんですよ」
言ってから峰岡はやぶへびだったことに気付いて顔をしかめた。
「そうか、奴の捜査の進み具合なんかが話に出るんだな」と、案の定の木津の台詞。
「何もないみたいですけどね」早口にそう言って、峰岡はその話題を切り上げた。「ところで、今日終わったらですけど……」
木津は最後まで言わせず、
「はいはい、分かってますって。それじゃ、どこで待ってればいい?」
「外の駐車場に行きます」
「外の?」
峰岡は笑って付け加えた。
「まさかS−ZCとかS−RYでってわけにはいかないでしょ?」
「それもそうだ」木津も笑う。「デートにゃちと色気不足だぁね。もっとも俺のポンコツ改・パワード・バイ・阿久津にしたって、それ程色気のある代物ってわけじゃないが」
パワード・バイ云々を聞いてまた笑い出す峰岡を前に、一本煙草をくわえ、火を点ける前に尋ねた。
「で、どの辺に行くかは決めたんかい?」
「ばっちりです!」
「気合い十分、てとこだな」
「えへへへ」
そこに軽い音色のチャイムが鳴る。
木津は反射的に腕時計を見る。が、それと同時に本業をすっかり忘れていた峰岡の大声が木津の鼓膜にきんと響いた。
「いっけない! お茶淹れなきゃ!」
峰岡の目はもう三十分も前から時計を見る方が多くなっていたが、この五分というものはほとんど時計の秒針とにらめっこだった。 五、四、三、二、一……
終業チャイムの最初の音が鳴る。同時に峰岡が椅子を蹴らんばかりに立ち上がった。
「峰岡帰ります! お先に失礼します!」
周囲の呆然とする目をよそに、峰岡は猛然と部屋を飛び出していった。
同室の一人がつぶやいた。
「MISSESの召集、じゃないよね?」
もう一人が言う。
「それよりも速いよ、今の方が」
「おんや?」
足早に帰宅の途に着くLOVEの他の従業員たちに紛れて、のんびりと屋外の駐車場に出てきた木津は、かつてポンコツだった愛車の助手席側に見慣れない後ろ姿が立っているのに気付いた。
秋らしく淡い黄色のワンピースに重ねられたベージュのボレロ。少し高めのヒールを履いた細い足首がこちらへ返った。
木津は首を傾げ、もう一度「おんや?」とつぶやいた。
見慣れたいつもの事務服や出動時のドライビング・スーツの時からは想像出来ない程にめかし込んだ峰岡がそこにいた。
だが見違えるほどめかし込んだ姿とは裏腹に、弾けた声はそのままだった。
「仁さん、遅いですよぉ」
「悪い悪い、支度に手間取ってさ」
そう言う木津はいつもと変わらず、シャツにジャケットという支度に手間取りようのなさそうなラフな格好だった。
「しかし、どこのお嬢さんかと思ったよ。いつもと全然雰囲気が違うから」
この木津の言葉に、とろけそうな顔になりながら峰岡が
「ほんとですか?」
「見た目だけは」
「仁さんの意地悪ぅ」と言いながらも、その口調は別段腹を立てている風でもなかった。
そんな二人を見ながら車に乗り込み帰宅する人の流れは最初のピークを過ぎて、徐々にまばらになってきた。
「さて」と、逆にそれを見た木津は自分の車のドアを開けた。
「では参りましょうか、お嬢様」
車は他の帰り車に紛れて緩衝地帯を抜け、運河を渡る橋にさしかかる。その上からは都市区域の夕明かりが見渡せた。
「ここを通るたびに、きれいだなって思うんですよ」と峰岡。「そう思いません?」
指一本でハンドルを操る木津は、煙草をくわえた歯の間から半ば適当に相槌を打つ。
「俺はどうも無粋でね、そういうのより計器盤のランプの方に目が行くんだよ」
「それもさびしいですよ」
溜息混じりに言う峰岡の目は、窓の外の灯から木津の横顔へと移されていた。
やがて橋を渡りきった木津の車は、標識の矢印に忠実に道を辿り、少し前に自分にはもう関係ないと木津が思ったばかりの繁華街のとっ付きで、渋滞に捕まった。
「どの辺で停めればいい?」
「えーと、一番近いところでいいですよ。どうせだから少し歩きませんか?」
「散歩?」
「いやですか?」
「たまにはいいかもな」
峰岡がまたにっこりと笑った。
ナヴィゲーションの画面は、数百メートル先の駐車場に空きがあることを示している。
ショーウィンドウに頭一つ分は背丈の違う二つの影が映り、行き過ぎる。
峰岡はショーウィンドウの中よりも、むしろそこに映るその影、並んで歩く自分と木津の姿を見ていた。
店から店へとウィンドウの展示は変わっても、映る自分は変わらず木津と歩いている。店毎にそう思いながら、峰岡は頭が少しぼぉっとしてくるような気がした。
一方の木津は、右に左に行き交う雑踏を眺め回している。よくもまぁこれだけ人がわいて出たもんだ。平和なことだ。そんな平和がとっくの昔にどこかに吹っ飛んでしまった奴だっていないわけじゃないのに。
「痛むんですか? 手術の跡」
「ん?」
峰岡の声に我に返ると、木津は無意識に後頭部に手をやっている自分に気付いた。
「ああ、そういうわけじゃないよ。ただ少し寒いんでさ」
「寒い?」
「ほれ、手術の跡にハゲがあるから」
「やっだぁ!」
人目も憚らず爆笑しながら峰岡は、次の店のウィンドウに目をくれると、その前で立ち止まって中に見入った。
「寒いんだったら、この辺でちょっと入って行きませんか?」
ショーウィンドウを見る木津。その中には若い女が喜んで着そうな服をまとった、半ばハンガーではないかと思うような抽象的なマネキンが立っている。
木津は頭をぼりぼりと掻きながら、自動ドアをくぐる峰岡の後に従った。
しばらくして出てきた木津の手には、袋が一つぶら提げられていた。
すまなそうな言葉を口に出す峰岡に、木津は荷物持ちは約束通りだと言う。
「それに口も金も出さなかったしさ」
「いくら何でもお金まで出してもらったら困っちゃいますよ」と声高に峰岡。その声が少し小さくなり、「口だったら出してもらえると嬉しいかも知れませんけど」
「あー、そりゃ役不足だな。似合う似合わないの区別もつかないからさ」
突然峰岡は真顔になる。
「似合うって言ってもらえればそれだけでも嬉しいんですよ、女って」
「ふうん、そんなもんかね」と天を仰ぎながら木津。「誰にしても」
「えっ?」
「それじゃ、茶でも啜りに行くか? 夕飯はどうする?」
「え、え、え、え?」信じられない、といった顔の峰岡。「夕ご飯まで一緒にしてもらっちゃっていいんですか?」
「いいともさ」と、峰岡の反応に逆に驚いた木津。「なんつー顔してるんだ?」
「だって、だって……」
「いいから茶にしようぜ」
峰岡は一層弾んだ声で、はいと応えた。
「だったら、いいところがありますよ。仁さん、甘いものはだめでしたっけ?」
「んにゃ、喰えるもんなら何でも喰う」
「じゃ、行きましょう」と言う峰岡の小さな手が、しなやかに木津の腕に巻き付いてきた。人々の流れに見え隠れしながら再びショーウィンドウに映っては行き過ぎる二つの影。
角を一つ入りしばらく行くと、そこは雑踏からは見放された路地で、表通りの喧噪は遙か後方に取り残されていた。
「ここなんですけど」
峰岡が足を止めたのは彼女と同年代の女はとても近寄りそうにない、年月を経てきた感じの落ち着いた佇まいの喫茶店だった。
木津は口を開けてその門構えを見ている。
「どうですか?」と峰岡。
「似合わ……っと、こういうところが好みなんだ。意外だなぁ」
「静かで落ち着けて、いいんですよ、このお店。ケーキもおいしいし」
「元気印にこういうところに連れて来られるなんて、ちょっと想像出来なかったよ。こんな店があるとも思わなかったし」
「仁さん、読みが甘い」ぴっと人差指を立てて得意気に峰岡。「入りましょう?」
あまり広くない店の中には、他には老夫婦らしき男女と書き物に耽る若い女との二組の客がいるだけで、BGMもない。
数世紀遡った欧風のテーブル。峰岡にはミルクティーとミルファィユ、木津の前には通常濃度のエスプレッソが運ばれて来る。
皿とカップを置くと、峰岡とは馴染みらしい初老のマスターは、木津の存在を見て、おやと言い、峰岡がえへへと笑うと二つ三つうなずいて引き下がった。
「これがおいしいんですよ」と、峰岡はミルファィユの皿を前に、金色のフォークでその一番上の層を少し持ち上げてみせる。
「ほら、見えます? こんなふうにパイとクリームが七重になってるんです」
「ななえ……?」
峰岡がふと顔を上げた。視線が木津の視線とぶつかる。と、木津はいきなり節を付けて
「七重八重〜、十重二十重〜」
峰岡は吹き出しながら「そんなに大きかったら食べきれないですって」
木津は何も答えずにエスプレッソを啜ったが、おどけて見せながらその頬に浮かんだ微笑が少し固かったのは、エスプレッソの味のためではなさそうだった。
だが峰岡はそれには気付かず七重止まりのミルファィユと格闘を始めている。
木津はその様子を黙って眺めている。
皿の上を三分の一ばかりやっつけた峰岡が、ミルクティーを一口飲むと、口を切った。
「しゃべらないですね」
「俺?」
峰岡はうなずく。
「いつもこんなもんだろ」
「そうかなぁ……昔からそうでしたっけ?」
「多分ね」
金のケーキフォークがパイの一枚の上で動き、皮をぱらぱらと崩す。
「仁さん、聞いてもいいですか?」
「何?」
だがエスプレッソの澱をデミタス・カップの底で弄ぶ木津を前に、峰岡はすぐには問いを口に出さない。
「何だい?」と促されて、意を決したように峰岡の口が開く。
「仁さん、どうして『ホット』を追いかけてるんですか?」
答えは思いがけなくもすぐに返った。
「貸した金を返してくれないからさ」
峰岡の頬がぷっとふくれる。
「冗談ばっかりぃ」
「冗談じゃないさ」と木津は煙草の煙と一緒に答えを吐き出す。「奴には医療費の貸しやら何やらがたんまりあるんだ」
あっと言う顔をする峰岡。
「あの傷のことですか?」
木津は答えない。
「そうなんですね」うなずくでもなくそう言いながら、峰岡の手のフォークはパイ皮に挟まれたクリームをつついていた。「で、もし探し出せたら、仕返しするんですか?」
「仕返しっつーかね」木津の頬が少し緩んだ。「ガキの喧嘩じゃあるまいし……」
「そうですね、仕返しっていうのはちょっと変ですね。それじゃ、自分で捕まえて当局に引き渡すって……」
峰岡が言い終わらない内に、木津の低い声が。それを聞いて、峰岡は一瞬無意識に身震いした。
「引き渡すだけで済むとは思えんがな」
それから一転明るい声と表情で、
「ぼちぼち腹が減ったな。コーヒーで刺激されたかな」
いきなり話が変わったのに峰岡は付いて来られなかったらしい。どぎまぎした様子で手を動かし、皿の上に半分ほど残って立っていたミルファィユをフォークの先で引っかけて倒してしまった。
「あん!」
「何だ、皿の外にでも飛び出すもんかと思ったぜ。そうしたら拾って喰ったのに」
峰岡はそう言う木津の顔を見る。冗談のような真顔。そして案の定吹き出した。
「そんなにお腹空いてたんですか? だったらケーキ頼めばよかったのに」
木津はにやにやしながら、
「うまいところを思い出すにゃ、腹が減ってた方がよかんべ。ましてご馳走する立場となっちゃさ」
それを聞いた峰岡は再び信じられないといった顔をする。
「ご馳走って、え、え、え?」
「おいしい食べ物や飲み物を出して、もてなすこと。また、その食べ物や飲み物。以上国語辞典の定義より」
「そうじゃなくってですね」
と言いかけた峰岡の顔から笑いが消えた。
木津もまた同じように冗談抜きの真顔に。
だが次の表情は対照的だった。受令器が発するMISSESからの重苦しい呼び出し音に、峰岡はがっかりして泣き出しそうな顔になり、一方木津は獲物を前にした餓狼のようににやりとした。
「どうしてこんな時に来るのよぉ!」
「おいでなすったか!」
素早く立ち上がる木津に続いて、峰岡も重い腰を上げた。
「悪いけど、ご馳走はまた今度にさせてくれや」と、何か勘違いしているような木津。そしてついでに峰岡の皿からミルファィユの残りを摘み上げて口に放り込んだ。
「状況は?」
勘定を済ませて店を出てきた木津が、先に外で連絡を取っていた峰岡に尋ねる。
「ディレクターが当局から指示してきてます。安芸君と結城さんがもう出てるみたいなんですけど、苦戦してるらしいです」
「敵の数は?」
「それがはっきりしないんです。四両なのか八両なのか」
「何で倍も違っちゃうんだ? 久我のおばちゃんは乱視持ちか?」
「聞いたことないですけど、そんな歳じゃないと思いますよ」
「誰も老眼とは言ってねーぞ。それはそうと、奴はいるのか?」
「さあ、それは……」
「行きゃあ分かるか」
木津は握り拳にした右手を左手に打ち付ける。静かな路地にその音が響く。
「行くべぇ」
黙ってうなずく峰岡に、木津はもう一言。
「大丈夫だな?」
「はいっ」
木津の勢いに励まされてか、応える峰岡の声からは、ついさっきまでの残念そうな調子は消え、頬は緊張感に引き締まっていた。
「よし!」
そして木津と峰岡は、何も知らない平和な雑踏の中に駆け出して行く。
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