インタホンを通して、今ではすっかりおなじみになった声が聞こえる。
「阿久っつぁんいるかい?」
阿久津が直々にドアを開けに行った。
「仁ちゃん、来たか」
「呼ばれちゃ来ないわけにもいくまいに」
「そりゃそうだ」
相槌を打ちながら、阿久津は木津に作業台の脇の椅子を勧める。
「コーヒー?」
「ああ、薄いのをたっぷり」
腰掛けた木津の前に、阿久津は資料の束を投げてよこす。
前回の出動、木津に言わせれば「戦闘」から一週間近くが過ぎようとしていた。
「どの程度汲んでもらえたかね?」と木津が問う。
自分の分のコーヒーをすすってから、阿久津は鼻の頭を掻いた。
「お主の書いてきたほとんどのところは容れさせてもらったつもりだよ。正直な話、開発主管としては汗顔の至りなんだが、青龍にせよ朱雀にせよ、『戦闘』に使うことは全く念頭には上せなんだ。まぁ、元の触れ込みが刑事捜査支援車両だってこともあるんだが」
運ばれてきた特大のカップを木津は口に運ぶ。喉が大きくごくりと鳴る。
「でも実際には『戦闘』だってこなさなきゃならないってことが分かったからな、『ホット』を相手にする以上は」
そこで言葉を切ってコーヒーをもう一口。
「で、どの程度かかるって?」
「もう一週間。ただし突貫工事」
「ひゃ……留守中はどうすんだ?」
「お主の足なら、最初ここに来た時に乗ってたボロ車が修理出来とるが?」
木津はふざけ半分に阿久津に白い目を向けて見せる。それを受けた阿久津はにやりとしてから、
「青龍の予備機が二台ある。それで穴埋めをしてもらって、改修は順繰りにやっていくしかなかろう」
「朱雀の穴は? そう言えばもう一台作ってんだろ?」
「お主の運転の実績と今回の改修を容れたら、進捗が半分くらい後退したよ」
木津は肩をすくめる。
「仕方なかろう。部分部分の改修だけじゃ済まんのだよ。つぎはぎで改修なんかしてた日にゃ、いつか必ずバランスを崩す。そういうもんだ」
「……聞いたことがあるな、そんな話」
そこで阿久津がにやりと笑った。
「しかしな、久我ディレクターは、S−ZCを最優先で改修しろ、と言ってきたよ」
「人をこき使う気だな、あのおばさん」
笑いながらカップの底に残ったコーヒーを一気に空けると、阿久津はおかわりを注ぎに立った。
「当局から来た、例の結城ちゅう御仁も、トレーニングは済んだらしいな」
「へぇ。腕はどうなんだ?」
「そこまでは聞いとらんが、さして悪い話も入っては来んなぁ。個人的にゃあちと虫が好かんがな」
「そりゃあ俺ん時だってそうだっただろ?」と、にやにや笑いながら木津。「んでもって、後でころっと態度が変わるんだ」
「それを言うなや」
困った顔になる阿久津を見て、木津は声を上げて笑い、そしてさっきの資料を取り上げると尋ねる。
「で、わざわざ呼びつけたのは? こいつの話だけじゃあるまい?」
阿久津の顔も仕事の表情を取り戻す。
「全然関係ないという話でもないがな」
「てぇと?」
「この改修に絡むデータ採りをしたいと思っとるんだ。で、テストドライバーのお主に操縦を頼みたいというわけでな」
「何だ、そういうことかい。お安いご用じゃないか」
「その間、S−ZCは優先的にいじらせてもらうよ」
「了解。んで、どのぐらいかかる?」
「三日程度の予定だが」
「三日ね」
地下駐車場。
修理の成った、だがまた直ぐに工場へ戻される予定のマース2・S−RYのコクピットに、くしゃみこそしてはいないものの、噂に上った結城の姿があった。
ごく薄いマニュアルを片手に、計器板の隅から隅までをそれと照らし合わせるかのように矯めつ眇めつ見つめ、スイッチの一つ一つを指で確認している。
「こうして見ると、確かに造り込みは細かいな……あまり過ぎるのも危険ではあるが」
その手が変形レバーの上へと動く。グリップが握られる。が、そこで止まった。
「さすがにここで変形させるわけにはいかないか」
で、レバーの遊びを軽く揺すぶるだけにして、さらに結城は計器板のチェックを続けた。スイッチ、メーター、警告灯。
長いことそんな動作を続けてから、最後に結城の指は計器板右下の小さなボタンを押した。その横のスロットから小さな、ほとんどスティックと言ってもいいカードが飛び出した。つや消しの銀色の地に青のストライプが三本入っている。S−RYのキー・カードだった。
結城はそれを抜き取ると、ドアを開いて車外に降り立った。
照明の光は、ボディの深い青の上に白い筋を何本も描いている。
結城はその上を人差し指でゆっくりとなぞった。素材の温度が伝わってくる。
同じようにゆっくりと、今度は立ったりしゃがんだりしながら車体を眺め始めた。
「なるほど……可動部分は完全にカバーされるということか。この状態でならいいが、Mフォームではやはり可動部分が弱点だな。重点的に改修されるはずだ」
そこに
「あれ?」
と声が掛かる。
「結城さんじゃないですか?」
顔を上げる結城に向かって近付いてくる、事務服姿の男がいた。
「あ、安芸さん、でしたか?」
「そうです。ご精が出ますね」
「やはり任される車両についてはしっかり見ておきませんと」
安芸は静かに微笑むと、尋ねた。
「シミュレーションが終わられたそうですね。感触はどうでしたか?」
結城は微笑だにせず応える。
「操作は自信を持って出来そうです。しかし、前回のような強力な兵力を相手にするとなると、不安でないとは言えませんね。みなさんのようにうまく立ち回れるか」
「うまくやろうと思っているわけじゃありません」と、表情は変えないままに安芸が言う。「必死なだけです。でも、あれだけ苦戦したのは、この前の出動が初めてでしたよ」
結城が怪訝そうな顔をする。
それを見て、安芸は傍らのS−RYに視線を落とした。
「あれだけの重火器を積んできた相手は初めてだったんです。これまで対応してきた武装暴走車なんか、あれに比べればかわいいもんでしたよ」
「そうなんですか……ほっとしましたよ。毎回あんな乱戦なのかと思って」
それから結城は、久我ディレクターに前回の映像を見せられる前に、これをあなたに求めていると言われたことを付け加えた。
安芸は再び笑うと言う。
「それは運が悪かったですね。木津さんも最初同じことを言われたそうですが、その時はやはり武装暴走車の対応でしたからね。ああ、でもその時小松さんが重傷だったか」
「このマース2のドライバーだった?」
「そうです。有炸薬実体弾の直撃を受けたんです」
思わず結城は頭を掻いた。まいったな、と言わんばかりの表情で。
「あちらでは」と逆に安芸が尋ねる。「高速機動隊にいらしたんでしたね?」
「なので、訓練はしていても、実際に銃器を使う機会はなかったんです」
「そうですか。でもトレーニングでの成績は優秀だったと聞いていますよ」
結城の視線がS−RYへと流れた。
「お邪魔したようですね、すみません」と安芸。
「いいえ……安芸さんは何をしに見えたんですか?」
「研究所の本職の方で、こちらに置いてある預かりの車両に用があったものですから」
木津は今度はディレクターの執務室で、ウルトラ・エスプレッソのカップと久我を前に座っていた。
阿久津からの依頼の話は予め耳に入っていたのか、木津からそれを聞いた久我は、まずは黙ってうなずくと、よろしくお願いしますと言った。
「それはそうと」と、木津が改めて口を切る。「ものは相談なんけどさ」
久我は黙ったまま次の言葉を待っている。
「阿久っつぁんの件が済んだら、一、二日帰って部屋を片付けて来たいなんて思ってるんだけど、お許し頂けますでしょうかね?」
「そうですね、もう二ヶ月もここに詰めたままになりますし」と、カレンダーも見ずに久我。よく覚えている。
「大丈夫そうかね?」
「出動の体制ですか? S−ZCは改修作業に入っていますし、とりあえずは安芸、結城の両名で対応できるでしょう」
「二人でか。しかも一人は新参で」
「状況によっては峰岡をサポートに付けることも当然あり得ます」
「大丈夫なんかいな?」と、木津はその峰岡が運んできたエスプレッソのカップを手に取る。「怪我はなかったにしてもさ」
「もしもの場合はあなたにも連絡を入れますので」平然と久我が言う。「ただ、木津さん、あなたはS−RYはお使いになったことがありませんね」
「確かにないけど、乗るのにいちいち調整が必要なもんかね?」
「調整とは厳密に言うと少し違いますが、キー・カードへの書き込みがあります。メイン・キー・カードの場合、同一車種であっても互換性はありませんから」
「そりゃそうだ、互換性なんかあった日にゃキーにならん」と木津の茶々。「でも、書き込んであるのはシートとかハンドルとかの位置だけじゃないのか?」
「学習データの呼び出しもさせています」
「物覚えのいい車なわけだ」
「なので、あなたにS−RYをお使いいただくためには多少の準備作業が発生します。それよりはむしろ」
「朱雀の改修を最優先にした方が効率がいいってわけか」
久我の眉間にかすかに縦皺が寄る。が、何ごともなかったかのように「S−ZCの改修をですね」
どういうわけでこの女は通称で呼ぶのを嫌うんだろう。そこまでお堅くなくてもいいと思うんだが。しかしそう思っただけで、木津は言葉にはしなかった。
「それでもあと一週間はかかるって阿久っつぁんは言ってたな」そう言うとウルトラ・エスプレッソをむせることなく飲み干し、木津は続ける。「その間、『ホット』にはおとなしくお休みいただけてりゃいいけどな」
「そうですね」
平然と久我は答え、自分のカップを口に運んだ。
木津はまた肩をすくめ、訊いた。
「それじゃ、週末にいっぺん帰らせてもらうわ。いいか?」
「承知しました。峰岡にはその旨は予めお伝えおきください」
腰を浮かせた木津はにやりとする。
「真寿美がさびしがるってか?」
久我は例によって例の如く表情の一つも変えないままで、
「事務上の必要がありますので」
立ち上がった木津はそのまま天井を見上げて、あーあと声混じりのため息を吐いた。
木津から話を聞いた峰岡は、上司とは全く違った調子で、
「それじゃ、お帰りは週明けですね。それまでの間にこちらで何かしておくことはないですか?」
木津は分かり切った答えを出すのに、腕を組んで、少し考える素振りを見せる。
「別にないかなぁ」
「そうですか……」
少し気抜けしたような峰岡の表情を見て、
「んじゃ、俺のパンツでも洗っとく?」
半ば微笑んだまま口をへの字に曲げて峰岡が、
「今は遠慮しておきます」
その顔をじっと見つめる木津。それがぷっと吹き出した。
「本気にするなって」
「だって木津さんの場合、本気で言わないとも限らないから」
「……『木津さん』?」
あ、という感じで峰岡は目を丸くし、口に手をやる。
「……仁さん」
「はい正解」
再び微笑んだ峰岡の頬がふと固まる。
「仁さん」
「ん?」
「帰っても、パンツ洗ってくれる人、いないんですか?」
「まじめな顔でそーゆーこと訊くかね?」
赤くなる峰岡を見ながら木津は答える。
「自分で洗ってますよ、こーやってごしごしって」
腰を入れて洗濯の仕草をして見せるその姿に、今度は峰岡が吹き出した。
笑いがなかなか収まりそうもないのを見て、木津はもう一度ちょっかいを出そうとしたが、小突く真似をするだけにして言った。
「それじゃ、留守中はよろしく頼むわ。お客さんも何もないといいな」
踵を返す木津を、まだ半分笑いながら峰岡は呼び止める。
「これを阿久津主管から預かってます」
峰岡のスカートのポケットから取り出されたのは、ここに来る時乗ってきたあのポンコツのキー・カードだった。
「修理は終わってるそうです」と言いながらキーを差し出す峰岡の頬が少し赤くなっていた。きっとそのポンコツをつぶしたことを思い出したらしい。「本当に、あの時はすみませんでした」
「あ?……ああ、すっかり忘れてたよ。阿久っつぁんとこで修理したんだっけ。どこまで手を入れてくれたかな」
出された木津の手にキー・カードが渡される。それには峰岡の体温が残っていた。
ふと木津の視線が手のひらに落とされる。が、その顔はすぐに上がり、
「ありがとう。それじゃ、あとよろしく」
久し振りに腰をおろす愛車のシートは、何となく尻の落ち着きが悪かった。それだけS−ZCのシートになじんでしまっている自分を木津は感じた。
キー・カードをスロットに挿し込み、スタータのボタンを押す。と、全く予期していなかったスムーズさでモーターが回り始める。
「ありゃ……ユニット載せ変えたんか。サービスいいねぇ、阿久っつぁん」
一通り計器盤に眼を通すと、木津は少しだけ爪先を動かす。やはり今までとは違い、反応は機敏だ。
「けど、こいつは朱雀じゃないからな、お忘れなきように、仁ちゃん」
独り言の通り、思い切りペダルを踏み込んでも加速はS−ZCには遥かに及ばないが、それでも滑らかにかつてのポンコツは地下駐車場を後にした。
またS−RYを見に来た結城が、それを目にした。
「あれは……木津仁?」
車は工場地区を抜け、緩衝地帯を中継にする二本の長い橋を渡ると、都市区域に入っていった。
週末の夕刻、久し振りに乗り入れる繁華街は結構な賑わい振りを見せていた。四、五人で連れ立った学生風、聞こえはしないがきっと大声で駄弁りながらショーウィンドウを眺めて歩く奥様のペア、ろくに前も見ずに手をつないで歩く若い男女。
こんな風に歩いている誰にしても、「ホット」のような物騒な存在など知る由もないのだろう。木津は燃え尽きかけた煙草をもみ消すと、スロットル・ペダルを踏み込んだ。
「知らない方が幸せさね、何の係わり合いもなけりゃ」
交差点を曲がる。なおも賑わいは続いている。ショー・ルーム、ファスト・フード・スタンド、喫茶店……
木津はわずかに目をくれただけだった。
「とりあえず俺にゃもう関係ないしな」
メインの通りから分岐する路地を折れ、いくつかの角を曲がりながら、しばらく車を進める。見えてきた。潰れもせずに、ボロアパートは立っていた。
脇の駐車場に車を滑り込ませる。降り立ってみると、周囲の車は二ヶ月前と全く変わった様子がない。半分が空室のこんなアパートでは、住人の出入りも別にないらしい。
玄関を通ると、これも相変わらず管理人の姿がない。木津は急に現実に引き戻されたような気がした。二ヶ月経っても何も変わっていないこんな情景の中に戻ってみると、武装暴走車やら武装ワーカーやらも、青龍や朱雀も、そしてあの死に物狂いの攻防でさえ実感が薄れてくる。
それほどまでにいつもと変わりなくエレベータのドアは開き、廊下は続き、部屋のドアは木津を迎えた。
鍵を開け、ドアノブに手を掛けると、木津は妙な違和感を感じた。ノブに触れた手を顔の前に上げる。指先は汚れていない。レースで転戦していた頃にも経験はある。二ヶ月近くも放って置けば、埃がたまらない方がおかしい。
誰か入ったか?
ふたたびノブに手を掛けると、木津はゆっくりとドアを引く。
人の気配はない。
部屋に身を滑らせ、ドアに鍵をかけると、靴も脱がずに中を見回す。相も変わらぬ乱雑さだが、何かが違う。部屋の主以外には分かるまいが、かき回したような跡がある。それも、物盗りのやり方には見えない。
中に入る。床の上はさほどでもない。せいぜい放り出されている物と床との間に何か落ちていないかを確かめた、という程度だ。実際に置いてはいないが、普通なら金目のものがありそうだという場所をいくつか見てみる。生憎とろくな物は入れていないが、それでもざっと中身だけは改めたらしい。だがなくなっているものはない。
テーブルの上は?
置いてある紙の類は、メモだろうが何だろうが端から中身を読んだらしい。と、その時木津の顔色が変わった。その視線の先には、分解された写真立てが散らばっている。
木津はばらばらの部品をひとつひとつ、半ば躍起になって拾い上げる。一番下、写真立ての本体の下に、裏返しになって中身の写真が見つかった。
そっと拾い上げて裏返す。傷付けられてはいない。もう一度裏側。写真の日付ともう一言が、木津のではない別の筆跡で書き込まれている。
舌打ちが部屋の中にうつろに響く。
「……ここまでやるもんかね、何を探してたんだか知らないが」
と言うと、今の自分の言葉に木津は考え込んだ。
一体何を目当てに部屋に入り込んだ? 物盗みではあるまいというのは、最初の印象から変わっていない。書類、というほど大げさではないが、その類を全て読んだということは、所謂スパイって奴か?
じゃあ、何で俺がスパイに狙われなきゃならない?
ふと木津の口元に歪んだような笑いが浮かんだ。何で俺が、か……あの時と同じような台詞を言ってるな。
しかし、何故スパイが? 思い当たるのはただ一つ、俺がLOVEに足を踏み入れ、そこで仕事をし始めたということだけだ。
ということは……奴か?
木津は手にしたままの写真に視線を落とす。それを胸ポケットにしまい込むと、テーブルの上の紙を端からかき集めて丸め、ライターで火を点けて、流しに投げ入れた。それから床の上に散らばったものを端から拾い上げ、部屋の奥に押し込み始めた。ごみ、古雑誌、がらくたの類……
「こうと分かってりゃ、お茶くみでも引っ張って来るんだったな」
ふと見ると、流しの中で上がっていた炎が鎮まっている。灰の上からこれでもかと言わんばかりに水をかけ、さらに何一つ残らないように流した。
その時、突然ドアチャイムが部屋の中に鳴り響いた。
はっとしたように木津の頭が持ち上がる。
誰だ?
木津がドアの方へと踏み出そうとすると、もう一度チャイム、そして男の声。
「あれ? 仁ちゃん、帰ってたんじゃなかったのか?」
肩に入っていた力をがくっと抜き、木津はドアを開けに行った。そしてそこに立っていた男に声をかけた。
「目敏いねカンちゃん」
「たまたま帰り際に通りかかったら、車があったからさ。長いお留守だったね、半年ぐらい?」
「馬鹿言え、二ヶ月だよ」
「そんなもんかねぇ」
「そんなもんだよ。また明後日から行くけどさ」
「今度も長いんかい?」
少し考えると、木津は言った。
「行きっぱなしかも知れないな」
相手は驚いたのとおどけたのが半ばずつ入り混じった表情を見せてから、にやりと笑い、仕草を交えて言った。
「じゃ、行くかい、呑みに」
目が覚めると同時に、二日酔いの頭痛が木津を襲った。布団から頭も出さないまま手探りで枕元にあるはずの目覚まし時計を探そうとして、そこでやっと自分が腕時計をはめたままなのを思い出した。見ると十七時を過ぎていた。
痛む頭を無理に持ち上げると、流しまで重い体を引きずって行き、蛇口から直接水を飲み、さらに頭にも水をかぶった。
昨日燃やした灰の残りがまだ流しの中にわずかにへばりついている。
ゆうに五分もそうしていてから、やっと木津は頭を上げ、滴を両手で払い除けた。そして濡れたままの髪をぐしゃぐしゃと掻くと、ベッドに腰を下ろし、部屋の中を見回した。
昨日自分で引っかき回してからは変化がない。もっとも引っかき回したところで何が出てくるわけでもないが。MISSES絡みの代物を一式置いてきたのは正解だったか。
「お帰りなさい」
弾けた声を上げながら、車を降りた木津を峰岡が出迎えた。
「お部屋、片付きました?」
大げさに首を横に振る木津。
「ずぇんずぇん」
その様にまたくすくすと笑いながら、「お片付けそっちのけで、お酒でも呑んでたんじゃないんですか?」
「そういうわけじゃあるんだけど、長いこと放って置いたから、やっぱり一日そこらじゃ無理だったわ」
「それじゃ、お部屋から毎日通勤にしちゃうっていうの、どうですか?」
「それも気乗りしないな」そう言いながら、木津はあの家捜しされた部屋のことを思い出していた。
それを知る由もない峰岡が
「どうしてです?」
「実は……出るんだわ、これが」
幽霊の真似をしてみせる木津。
峰岡はそれを無視して、「そうだ、忘れない内にお返ししておきますね」と、三日前と同じように、スカートのポケットからS−ZCのキー・カードを取り出した。そしてキーホルダーにぶら下がった、半ば溶けかかったようなパンダのマスコットを指先でつついて揺らしてから木津に手渡す。「意外とかわいいのを付けてたんですね」
受け取りながら「まぁね」と木津。「てことは、もう改修から上がってきたのか? あと一週間はかかるとか言ってたのに」
「はい、阿久津主管も他のみんなも休日返上で大はり切りでしたから」
「そりゃ久我のおばさんも喜んだろうな」
「おばさんって、久我ディレクターはまだ三十六歳ですよ、独身だけど」と言ってから、慌てて峰岡は口を手で覆う。「あちゃー!」
「立派におばさんだよ」笑いながら木津。「俺より十も上じゃあな。で、おばさん三十六歳独身の今日のスケジュールは?」
「部屋にいらっしゃるはずですけど」
「そんじゃ、帰着のご挨拶でもして来ますかな」と歩きかける木津に、峰岡が言った。
「仁さんって、やることはおじさんぽいのに、意外と若かったんですね」
「おば、もとい、ディレクター殿、木津仁ただいま帰還いたしました」
軽い調子で部屋に入ってきた木津の挨拶に会釈を返すと、いつもは事務的を絵に描いたような久我が、珍しく世間話めいた問いを発した。
「お疲れさま。お部屋にはお変わりはありませんでしたか?」
木津の調子はこの一言で一変した。
「大ありだったよ」ソファにどっかりと身を投げ出し、言った。「留守中に誰かが潜り込んでたよ。家捜しされたらしい。奴だか子分だか知らんがね」
久我の片方の眉が上がった。デスクから離れ、木津の前に座ると、詳しい話を求めた。
木津はあった通りを話してから、付け加えて言った。「……前にいっぺん朱雀で帰った時、チェックでも入れられてたかね」
「そのようですね。あちらも私たちの存在に積極的に意識を向けるようになったというわけです」
その口調が何やら確信めいた響きを帯びているのを木津は感じ取った。久我自身の言葉がそれを裏打ちした。
「これであちらも、私たちに行動の的を絞ってくるでしょう」
今度は木津の眉が上がる番だった。
「朱雀に乗って行けと言われた時にも、後から少しひっかかっちゃいたが……分かってて仕掛けたのか?」
「情報収集のために住居侵入を敢行するという」とわずかに言葉を切ると、「予想以上の効果が出ています」
「予想外、の間違いだろ?」
「あちらに漏れそうな情報は、あなたの手元には全くなかったと思っていますが、そうではありませんか?」
肩をすくめた木津を見ると、久我はソファに腰をかけ直し、話し始めた。
「こちらに『ホット』の矛先を集中させれば、それだけこちらとしても当局からの指示を達成するのに早道になるわけです。もちろんあなたの意図の達成にもです」
何かいいように誘導されているような気がしないでもないな。まあいいか。
「つまり」木津が言う。「俺たち、いや、俺は噛ませ犬ってわけか?」
「黙って噛まれるに任せているおつもりもないのでしょう?」
久我の返事に、木津は再び肩をすくめた。
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