「木津さん?!」
計器盤の緑色の灯が反射するヘルメットの中に、峰岡の呼ぶ高い声はうつろに響いた。木津の耳には届くこと無しに。
シートベルトに体は保持されているが、ヘルメットを被った首は前に垂れ、動こうとはしない。バイザーを通して見える目は見開かれたままだ。
「木津さん! どうしたんですか?! 返事してください!」
答えはない。
コクピットの中、正常に動く計器に囲まれて、木津は意識を失っていた。
立ち上がった朱雀の姿に一瞬ひるんだ暴走車群だったが、その赤い躯が木偶の如く突っ立ったまま動こうとしないのを見て取ると、俄かに動き始める。搭載された火器の砲口を朱雀に向け集めるように。
「木津さん! 回避を!」
叫びながら峰岡の青龍は地面を蹴って跳び上がり、左腕の銃を乱射する。その衝撃波は斉射を開始しようとした武装車の一台の屋根をへこませ、もう一台の足元に大穴を開けてバランスを狂わせ、横転させる。
出鼻をくじかれ、攻撃の手にわずかな隙が生じる。
そこをついて、安芸の青龍が、立ち尽くしたまま動かない朱雀に駆け寄り、左腕で武装車へ銃撃を続けながら、右手を朱雀の背中へと伸ばした。
木津は半ば朦朧とした頭で、閉じた瞼越しに青白い光を感じていた。
その光が天井の蛍光管からのものであるということが分かると、もう一つ、自分の後頭部に蜘蛛の巣のように絡み付いている、重いような不快感もまたはっきりと意識され始めた。
すると、砂糖の塊が湯に溶けるように、部屋の天井の色、漂っている消毒薬の臭気、ベッドの上に横たわっている自分、ここが病室であるという事実が次々と分かってきた。しかし、何でこんなところで俺は転がってるんだ?
ああ、あの時「ホット」を仕留めようと、一気に人型に変形しようとして、目の前が真っ赤になって……気絶でもしたか? 俺としたことが。
そこまで思い至って、木津の顔がこわばった。
変形して、しかし「ホット」を仕留めたという記憶はない。敵の包囲の中、変形した直後から記憶は途絶えている。
S−ZCは?
まさか、集中攻撃を受けて損傷したのか? まだ一台しかないというあの車体を「ホット」の餌食に? ディレクターの制止を無視して飛び出したせいで?
まずい……
木津は目を見開き、ベッドの上に上体を起こした。
体のどこにも痛みはない。ただ後頭部の不快感が相変わらず残っているだけだ。
後ろを向いて何かを片付けていた看護婦が布の音を聞きつけて振り返った。
「あ、起きないで! そのまま……」
デスクの上は、何通かのレポートで埋められていた。
久我はその全てに目を通してしまっていたらしく、ただ神経質そうにペンを弄びながらコーヒーのカップを傾けている。
その様子は、何事かを決めかねているかのようでもあり、また何事かにいらだっているかのようでもある。
空になったカップをデスク上のわずかな隙間に置くと、インタホンから声が聞こえてくる。
「久我ディレクター、ご在室ですか?」
「はい」
「こちら医務室です。木津さんがお目覚めですが」
「分かりました」
インタホンの向こうでは、続く言葉を待っているような間。
だが久我は何も言わない。
やがて待ちかねたかのように問が来る。
「どうなさいますか? お出でになりますか?」
ややあって、やっと久我は答えた。
「行きます」
看護婦は受話器を置くと、再び木津の方に向き直った。
「ディレクターが参ります」
木津はベッドの上に上体を起こし、半ば泣き笑いのように表情をこわばらせて問う。
「どんな感じだった?」
その表情に、看護婦の方は半ば吹き出しそうな顔になりながら、
「おかんむりみたいです」
木津の泣き笑いから笑いの部分が抜け落ちる。
「本当に?」
「嘘です」
一転呆気にとられた木津の顔を見て、看護婦はとうとう吹き出してしまう。
「大丈夫ですよ、あの人はそんなに喜怒哀楽を出すタイプじゃありませんから」
「まぁそんな感じだとは思ってたけど……ところで、あんたは状況は知ってる?」
「状況?」
「俺がどんな状況でここに担ぎこまれたか、さ。別段怪我をしているような気もしないんだけど」
「ええ、外傷はありません」
この答えから、彼女は何も知らなそうだと木津は察する。これは久我ディレクターから直接話を聞くほかなさそうだ。ことと次第によると、詳細なしでお役御免のお払い箱、という事態にならないとも言えないが。
「それじゃ、俺は今まで何時間位のびてたのかな?」
「まる1日、いえ、もう1日半近くになりますね」
「そんなに? 何で?」
看護婦は椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「検査はさせていただいたんですけれど、結果は私も聞いてませんから」
「久我センセイは知ってるか」
「そのはずですね」
そこに、インタホンからポーンというチャイムの音。
「ご登場のようですよ」と、座ったばかりの椅子を蹴って、看護婦はインタホンへ。
名乗る声は、その通り久我のものだった。
病室に入ってきた久我の表情からは、看護婦の言う通り、そして自身の予想通り、木津は何も読み取ることは出来なかった。
「ご気分はいかがですか?」
その口調は、しかし無理に抑えたような静かさを帯びていたように、木津には感じられた。
「良くはないですな、正直な話」
久我は黙ったまま、資料のバインダーを抱えた両手を前に、木津の顔を見つめている。
その視線に木津は落ち着かない気分になり、立て続けに言葉を発していた。
「『ホット』は取り逃がしたし、それにS−ZCがどうなったかも気になるし、おまけに首の後ろが妙に気分悪いし」
看護婦がさっきまで座っていた椅子に、今度は久我が腰を下ろし、そして口を切る。
「残念ながら、昨日のグループには『ホット』はいませんでした」
「いなかった?」
「いわば『ホット』の影武者でした。車両はコールド・ユニット搭載のものだったのですが、ダミーの熱源ユニットと騒音源で『ホット』を装っていました」
「念の入ったことだな……それじゃ」と木津は言葉を切ってから、言う。「俺が飛び出していったのは無駄どころか、逆にこっちに損害を与えただけだったのか」
「ご心配なく。S−ZCには損傷はありません」
久我は表情一つ変えずに応える。
「本当に? あの状況で?」
「はい」
「どうして?」
木津は上体を乗り出す。
左手の威嚇射撃を続けながら、安芸の青龍は上体を屈めて朱雀に駆け寄り、右手をその背中に伸ばす。
背中に触れるや否や、青龍の指がすばやく朱雀の右肩の下に小さなハッチを探り当て、開く。
中には黄と黒の縞のフック。
青龍がそのフックを引き、そして飛び退るようにして地面に伏せた。
次の瞬間、動かない朱雀は変形した時と同じ速度でRフォームに戻る。
朱雀の胸を狙った暴走車の砲火がその上を通過していく。
伏せたまま、青龍が再度左腕の衝撃波銃を連射する。今度は照準を正確に付けて。
衝撃波は並んだ暴走車を次々となぎ倒していく。一つ、二つ、三つ。
「ラスト!」
峰岡が声を張り上げた。
「ホット」の排気音が轟く。
擱坐した仲間の車両の間を巧みにすり抜けて、「ホット」は逃げを打つ。
「マース3はキッズ1を保護! 『ホット』はあたしが止めます!」と峰岡。
「それほど」と安芸が応じる。「簡単じゃないと思うぞ」
その言葉通り、「ホット」は峰岡の青龍が放つ衝撃波を一つ二つとかわしていく。
起き上がった安芸の青龍は、地面に膝を着いて、まるで小銃を構えるかのような姿で左腕を伸ばした。
音ともいえないような重く鈍い音が続けて二度、周囲の空気を振るわせる。
最初の一発は、峰岡の狙いをかわした「ホット」の鼻先に浅く広い穴を穿つ。
「ホット」は舵を切り急制動。足元から白煙を上げ、車体を揺らしながら穴の縁ぎりぎりに止まる。
次の瞬間、テールを振った「ホット」の後輪を、安芸の二発目が確実な狙いで吹き飛ばしていた。
足の止まった「ホット」に、峰岡の青龍が飛びかかる。と、峰岡があっと声をあげた。
「どうした?」
「……自殺してる」
安芸の青龍が立ち上がり、Wフォームに変形すると、エンジンは動いたままの「ホット」の脇へ近寄る。
ウィンドウ越しに、拳銃でこめかみを撃ち抜いた男がシートの上で頭を垂れているのが見えた。
それをしばらく見つめていた安芸が言う。
「……違う、こいつは『ホット』のユニットじゃない」
「え?」
安芸は排気音と排熱の伝わる「ホット」のエンジンフードを引き上げた。そこにあったのは、見慣れたコールド・モーターのユニット配置と、そしてもう一つ、見慣れない機器が。
排気音と排熱が発しているのはそこからだった。
「こいつか……ホットのダミーというわけだ」
「じゃ、この人も……」
「『ホット』本人じゃないな」
「……そういう話か」
木津は天井を仰いだ。その顔が再度久我へ向けられる。
「で、俺をどうする?」
久我は木津へと視線を上げた。だが口は開かない。
「損害はなかったとは言え、無茶をしたからな」
そう言いながら、木津は右手を首の前できゅっと引いて見せる。
「これも覚悟はしてる」
沈黙したままだった久我が口を開く。だがその言葉は、木津の思惑からは全く外れたものだった。
「S−ZCは、変形のプロセスに一部改修を施す決定をしました。発生する衝撃には問題があるようですから」
何も言えずにいる木津に、久我はいきなり問いかけた。
「木津さん、あなたはあの事件の後、入院加療していらっしゃいましたね?」
「……ああ」
「加療部位はどこでしたか? 頭ではありませんでしたか?」
木津は思わず後頭部に手をやり、そして自分をいつになく注視している久我の目を見返す。
「そうだ、俺がのびてる間に検査をしたとか聞いた。その結果はあんたがつかんでる。そうじゃないか?」
バインダーを抱く久我の腕にわずかに力が込められたように見える。
木津は体ごと久我に向けると、もう一度問い詰める。
「結果は出てるんだろ?」
久我はわずかの間無反応でいたが、やがてゆっくりとうなずくと、言った。
「はい。先程私の手元に届きました」
間。
「それで?」
「S−ZCの改修は行いますが、それだけではあなたが今回のような事故を起こさなくなるという保証はありません」
「俺の体も改修が必要だというわけか?」
「そうです。あなたの頭部には、当時の事件で受けた傷で、完治していないと思われるものがあります。それが今回、一種後遺症のような影響をもたらしたのです」
木津は表情を固くしながら
「変形のショックでか?」
「はい。その兆候はシミュレーション以前の初期測定でわずかながら認められていました。ただ、私は実際の変形シミュレーションでどの程度の影響が出るかを見極めるつもりでいました。しかし、今回実戦で支障を来す重大な影響が出得るということが図らずも明らかになりました」
「行動中に気絶しちまっちゃあな……」
あの野郎……追い詰めてやろうという機会をつかんだ矢先に、こんな傷なんかを残しておくとは……
木津は歯を噛みしめた。
久我は黙ってその様子を見ている。ともすればまた神経質そうに動き出そうとする指を抑えながら。
木津が立ち上がる。
思わず見上げる久我の目に、その肩は不思議に高く見えた。
「……で、俺をどうする? 改修か、それとも廃棄か?」
「どうしたね真寿美ちゃん、しょぼくれた顔して」
そう声を掛けられて、
「しょぼくれてなんかいませんよ」と答える峰岡の顔は、その言葉とは裏腹にしょぼくれていた。
阿久津は、峰岡の持ってきた封筒を開けながら
「でも、前回の出動も首尾は上々だったんだろう?」
峰岡は答える代わりに、阿久津の取り出した資料をのぞくまねをした。
「何ですか?」
阿久津はざっと目を通す。
「……改修の指示だ。朱雀の変形プロセスを一部いじれと来た」
朱雀と聞いて、峰岡は少し体を固くした。
それには気付かず、阿久津は指示書にずっと目を通しながら話し始めた。
「あれかい、この改修は例の木津っちゅう人の関係か?」
「そうだと思います。まだお会いになってないんですか?」
「会ってないがね……何かやらかしてくれたんかね?」
「前回の出動の時、Rフォームから一気にMフォームに変形して、えっと……」
阿久津は資料から目を上げ、眼鏡の上から峰岡の顔に視線を投げた。
「気絶でもしたかね?」
答えない峰岡の表情を見て、阿久津は慰めるように微笑みながら言う。
「まあ、慣れない者がそれをやったら、普通は気絶ぐらいするさ。ごくわずかな時間とは言え、五Gから七Gはかかるんだから」
「……そう、そうですよね」と、峰岡に例のはじけた声が戻る。
「それに、阿久津主管が改修してくだされば大丈夫ですよね。初心者だって使いこなせますよね」
阿久津は声をあげて笑う。
「そうそう、それでなきゃ困るからね」
「よかった」
峰岡は満面の笑みをたたえて一礼する。
「それじゃ戻ります!」
「ご苦労さん」
ドアが閉まると、阿久津は再び指示書に目を戻した。
改修の納期は一週間後とされていた。
ライトボックスの蛍光管の青白い光が、暗い室内に医師と久我の相貌を浮き上がらせている。
四つの目は、ライトボックスのクリップに留められた数枚のモノクロフィルムに向けられている。
「……ご覧になれますか?」と医師。
「はい」
「ここが」医師はフィルムの上をペンの先で示し、「前回の手術痕です。周辺の組織の状況から、肩から首、後頭部にかけて、背後から多数の小片を浴び、その摘出術を実施したものと判断できます」
久我が無言でうなずく。
「摘出術は的確に行われたと言ってよいでしょう。ただ一つの小片を除いて、全てが除去されています」
「ただ一つ、ですか?」久我が問う。
「そうです」と、医師は別のフィルムの上にペンの先を移す。「これがその残りの一つですが、極めて微妙な部位に入っています。前回はそれ故に敢えて除去を見合わせたのでしょう」
「除去が困難ということですか?」
「そうです。ただ、摘出そのものが困難だというわけではなく、むしろ除去術の際の悪影響に配慮したのだと思われます。実はこの小片の周囲にはわずかに隙間があるのです。木津氏はVCDVの変形のショックを受けて失神されたとのことですが、受けたショックでこの小片が動いて周辺組織を刺激したためでしょう」
「では、完治は?」
医師はこの問いに初めて言葉を切った。
「……切開は行ってみます。ただし、もし摘出が可能だった場合、ご希望の一週間という期間での復帰は、必ずしも保証は致しかねます」
ライトボックスに向かって少し屈みこむようにしていた久我が姿勢を戻した。
「分かりました。それで、手術にはすぐかかれますか?」
「木津氏の状況によっては、明日の朝からでも可能です」
久我はうなずいて立ち上がった。
だがその表情は、常に比してやや険しかった。
医師は手を伸ばしてライトボックスのスイッチを切った。
明かりの消えた真っ暗な病室で、木津はベッドに横たわっていた。その目を開いたままで。
「……再手術か」
「峰さん峰さん」
通りかかった峰岡を安芸が呼び止めた。
「何? どうしたの?」
「木津さん情報」
峰岡の顔はぱっとほころんだが、しかし安芸の表情はさほどさえなかった。
「木津さん、元気になったの?」
「手術を受けるらしい」
「えっ?!」
蒼ざめる峰岡に、安芸は黙ってうなずいて見せる。
「……どうして? だって、だって怪我とか全然なかったのに」
「僕もしっかり聞いたわけじゃないんだけど、何でも昔の怪我の後遺症があるらしいんだ。で、このままじゃ朱雀には乗れないとかいう話らしい」
「そんな……そんな! だって!」
「落ち着けって。その手術がうまく行けば、何の問題もないんだから」
「……そう、そうよね」と、峰岡はうっすらと涙さえ浮かびかけた目をこすりながら言う。「あー、そうしてこんなに取り乱しちゃうんだろ」
その様子を見る安芸には、もう一つの自分の聞いた話を切り出すことはもう出来なかった。つまり、その手術が困難なものであるということを。
「阿久津主管いらっしゃいますか? 久我です」
インタホンに出た相手がしばらくお待ちくださいと応えると、続いて阿久津を呼ぶ声と足音とが伝わって来、そして阿久津の少ししわがれたような声が取って代わった。
久我はほとんど前置きもなしで切り出す。
「昨日の改修指示書の件ですが、いかがでしょう? 可能ですか?」
「大分お急ぎのようですな」と阿久津ははぐらかす。「乗員の準備の方が時間がかかるんではないですか?」
久我は言葉を詰まらせる。インタホンの向こうで阿久津の口が笑みにゆがむ音さえ久我には聞こえていそうだった。
だが次に聞こえた阿久津の声は、技術屋のそれになっていた。
「検討はさせてもらったです。大まかな線ではご期待に沿えそうですな。技術的な細かな話はしませんが。ただ、試算段階でRとWとの変形でコンマ二秒、さらにMとの変形でコンマ二五秒、Wを飛ばして一気に行くとコンマ五秒のロスが弾き出されてます。実機じゃも少し出るでしょうな」
「コンマ五秒強……」
「もう少し削ることは出来るでしょうが、しかしGの軽減とは裏腹ですぞ」
あとは木津の回復を待つか、さもなければ木津の腕でカバーするかしかない、というわけだった。
「どうしますかね? 進めてもよろしいのか?」
「計算上は、それ以上の結果は出そうにありませんか?」
今度は阿久津の方が少し考えていた。
「そうですなぁ……もう検討の余地はない、とも断言できませんな」
「であるなら、その計算をお願いします」
「分かりました。で、いつまでに?」
「今日の夕刻、再度連絡します」
そしてこの時刻、木津の体は手術台の上にあった。
久我はデスクの明かりを点けた。
窓の外はもう宵闇であった。
だが手術室からの報せはまだない。
今日何杯目かのコーヒーを開けた時、インタホンから別段待ってはいなかった声が聞こえた。
「峰岡です。あとはよろしいですか?」
「ああ、明日は休暇だったわね。あとはいいです。ご苦労様」
「はい、それじゃ失……」
インタホンの奥から聞こえた電話の呼出音に、廊下で峰岡は思わず言葉を切った。
部屋の中では久我が電話に応対している。
「久我です……はい……分かりました、すぐに行きます」
そして本当にすぐにドアが開き、久我が飛び出してきた。
もしかして……「木津さんですか?」
久我が振り向いた。だが答えはない。そのまま歩き出す久我の後を峰岡も追った。
「失敗?」
まだ額の汗も乾ききっていない医師は、無言でうなずいた。
顔色を変えてほとんど涙ぐまんばかりの峰岡を横に、久我はさらなる説明を待った。
「摘出は不可能でした。逆に摘出してしまえば、一部の伝達系に支障を来す、という状況だったのです。つまり、あれがあるからこそ日常生活レベルでは問題がないとも言えるのです」
「日常生活、ですか」と久我。
「もちろん今回望まれているのはそれに留まらないと存じています。今回極めて微量ですが、小片周囲の隙間に充填剤を入れました。
とりあえずこれでショックを受けた際に小片が動くケースは減るはずです」
「皆無にはならないのですか?」
医師は首を横に振った。
「充填剤が逆に組織を圧迫するようなことになっては問題ですから、ぎりぎりの少量しか使用できません。ただ今までと比べれば、相当良い方へ変化が出るはずです」
「分かりました。再度シミュレートを実施する必要がありますね」
そう言う久我の表情が、峰岡の目にはほとんど安堵の色を浮かべているようにさえ映っていた。
ああそうだ、これは木津さんにとってはきっとプラスになることなんだ。S−ZCだって改修されているんだし。これでこれから一緒に行動できるんだ。
そして峰岡自身もまた安堵のため息を漏らした。
「で」と久我が言葉を継ぐ。「このことは、木津さん自身には?」
「まだです。意識は戻っていますけれど。お話になられますか?」
「はい、早速」
ドアを開くと、ベッドの上に上体を起こして雑誌を読んでいた木津は、すぐに振り向いた。
「ずいぶんとお早いお越しだな。悪い報せか?」と言う木津は、しかし悪い報せを待っていたにしては平然としている。
返す久我もまた平然と口を切る。
「良いと取るか悪いと取るかはあなた次第かも知れません。少なくとも私にとって悪いとは言いきれませんでした」
「てぇと?」
「残念ながら後遺症の完治は望めません。その原因が除去不可能なためです」
木津は表情を変えないで聞いている。
「ただし、症状の軽減処置は行いました。発生の頻度は抑えられたはずです」
「でもいつ出るかは分からない、というわけか。まるで爆弾抱えてるようなもんだな」
手元の雑誌を閉じ、横のテーブルに放り出すと、木津は尋ねる。口元は穏やかに、だが眼は険しく。
「で、俺はこれからも『ホット』を追えるのか?」
久我は、まるで用意していたかのようにうなずき、そして「はい」と答えた。
「それで十分だ」と言うと、木津は向き直り、さらに独り言のように言った。
「あいつをこの手で仕留められりゃあな」
「木津さん!」
それまで久我の陰になっていた峰岡の小さな体が飛び出し、木津の横につんのめりそうになりながら駆け寄った。
「木津さん! よかったですね……本当によかったですね」
「……おいおい、何泣いてんだよ」
しゃくりあげる峰岡の小さな頭に、木津の大きな手が載り、その短い髪の毛を柔らかくくしゃっとかきあげた。
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