(1)帆装復旧(ただし一部の三角帆は復旧せず)
(2)船体白色塗装
(3)船首楼甲板のキセル型通風口撤去
(4)船首楼の機銃台撤去
(5)電動測深儀用のブーム撤去
(6)フォアブリッジ上の見張り台撤去
(7)メイン・ミズンマストの空中線展開ヤードの取り付け位置変更
(8)舷梯用ダビッド1基撤去
(9)アフターブリッジの操舵室撤去
(10)アフターブリッジ上に方位探知アンテナ設置
初代海王丸は1955年に帆装復旧工事を行い、翌56年より帆船としての遠洋実習航海に就きました。この当時の姿は「80日間世界一周」等の劇場映画にも残されています。 帆装は戦前と同じとされましたが、竣工時で述べたように三角帆6枚分に関しては通常は使用されなかったようです。また、フォアブリッジの天蓋にあった見張り台が撤去されたほか、大戦中に増設されたアフターブリッジの操舵室はこの頃には完全に撤去されています。 電動測深儀用のブームは戦後しばらく経った後に撤去されましたが、時期に関してははっきりしません。戦後引揚船当時の写真には残念ながら船首楼右舷側が明確にわかる写真が無く、日本丸の1949年頃とされる写真には残存しているように見え、帆装復旧直後の写真では撤去されていることから、海王丸も50年代の前半頃迄には撤去されたと考えますが、確証はありません。五十年史の入渠工事記録に記載はありませんが、その際に船底装備の音響測深儀に更新されたようです。 |
(1)バウスプリットのチェーンのステイの一部を鋼棒に変更(1957年)
(2)レーダー及びレーダーの導波管を設置
それに伴いフォアロアステイの取付位置を変更(60年秋)
(3)船首楼右舷外側の吸気口を1本切断、あるいは撤去
(4)各マストのローヤル及びトップゲルンマストにタールを塗布
(5)方位測定ループアンテナをフォアマスト先端に新設、
アフターブリッジ上のアンテナを撤去(59年春)
(6)フォアマスト背面のデリックブーム撤去
(7)フォアブリッジの操舵室縮小(58年春)
(8)フォアブリッジ天蓋に遭難信号自動発信機[SOSブイ]設置(74年秋)
(9)救命筏新設(66年秋に2個、70年代前半に2個増設、74年秋に装備位置変更)
(10)右舷1番救命艇のボートダビッドを重力式に換装(75年秋)
(11)左舷の内火艇と右舷の伝馬船を撤去(75年秋)
(12)ウェルデッキブルワーク右舷に舷門新設
(13)ウェルデッキ右舷側にギャベジタンクと直上甲板に投入口設置(73年春)
(14)中甲板の物資搬入ハッチを全て撤去
(15)実習生入口天蓋の通風口の形状変更、小型の天窓撤去
(16)煙突前及び機関室天窓背面の大型通風口の形状変更
(17)煙突頂部にミズンロアステイの防熱管を設置(75年秋)
(18)煙突背面のサニタリータンク上にタンクを増設
(19)機関室天窓左舷側の調理室排気筒の短縮及び形状変更
(20)ミズンマストのコースを角帆から三角帆に変更
(21)アフターブリッジ正面右舷内側及び天蓋の通風口の形状変更
(22)アフターブリッジ天蓋の船尾側左舷角に空中線引込口設置
(23)アフターブリッジ背面左舷側の通風口の形状及び高さ変更
今井と青島の1/100・1/150・1/350(両者共に同内容)のプラ製組立キットは、いずれもこの時期の設定となっているようです。ただし、これらのキットは日本丸がベースになっている上に、右舷側の舷側レイアウト、フォアブリッジ下部船室や2番倉口の形状、各部通風口の形状や配置、フォア・アフターブリッジ上の航海機器等に検討不十分な問題があります(スケールによって問題点は多少異なります。それはまた機会を見て詳しく述べる事にします)。 マストの塗装は前述の「80日間世界一周」の映像(1956年6月30日〜7月1日撮影)などを見る限り、少なくとも帆装復旧直後の1956年頃までは全てオレンジ色で塗装されていましたが、その後木製のローヤル及びトップゲルンマストには保護の目的でタールを塗るようになり、黒く見えるようになりました。 海王丸のレーダーは1960年秋の入渠時に装備されたもので、それに伴いフォアマストとフォアブリッジの間にレーダーの導波管が設置されました。設置当初のレーダースキャナは背の高いものでしたが、後に低いものに換装されました。日本丸は保護フェンスをスキャナに合わせて低く作り替えたようですが、海王丸に於いては背が高かった時代のフェンスの仕様をそのまま継承していたようです。 ウェルデッキ先端右舷側のキセル型通風口が2本から1本になった時期ははっきりしません。世界の艦船1980年4月号(No.280)のp13に掲載されている、1958-60年頃と思われる海王丸右舷船首の写真では吸気口が2本認められます。その後、1971年頃と思われる写真(「帆船」毎日新聞社刊1972:p101)では外側の吸気口が根元よりやや上の位置で切断され、先端にキャップ状のカバーが付けられているように見えます。そして少なくとも1980年代前半までには完全に撤去されたものと思われます。 フォアブリッジの操舵室部分は1958年春の改装で縮小され、現在の形になりました。ただし、前年の日本丸の改装に完全に準じたものではなく、操舵室の幅は窓2枚分広く、また張り出し部分に天蓋がないなど大きな相違点が見られます。張り出し天蓋の有無はともかく操舵室の幅が広いのは相応の事柄があったためではないかと思うのですが、理由は全く判りません。実習航海で日本丸の操舵室が狭いが故の支障は無かったらしく、また両船で航海関係の実習プログラムが異なる事もなかったそうです。 煙突周辺の通風口は、資料によっては「機関換装のため日本丸と相違が生じた」と記述しているものもありますが、1971年頃と思われる写真(「帆船」毎日新聞社刊<1972>)を見る限りでは、煙突正面と機関室天窓背面の計4基の大型通風口に関しては既に煙突正面左舷側を除いてカマボコ型のものに改修されており、1978年の主機換装工事以前から相違があったようです。更に1975年秋頃迄に煙突正面の2基は角ばったものになり、80年秋迄に機関室天窓背面の2基も同様の形状に改修されています。 救命筏は1966年秋の入渠時に装備されたもので、前述の1971年頃と思われる写真を見る限りではアフターブリッジ天蓋の船首側両端にそれぞれ1個ずつ装備されており、他の場所には見当たりません。五十年史には増設の記述がないのですが、少なくとも1974年春までには4個に増設したものと思われます。これは同年秋の入渠工事で架台新設の上、現在の位置に変更されました。 アフターブリッジ上の基準コンパスとジャイロコンパスレピータの「並び」は日本丸と逆で、それぞれの装備位置にも若干の相違が見られます。ジャイロコンパスが装備された1957年以前から基準コンパスの位置が異なっていた可能性もありますが、明確な資料がないため1955年までの図は竣工時と考えられる図面及び籾山艦船模型製作所の模型のままとしています。 ミズン・コース(前から3本目のマストの一番下の帆)は、70年代頃から角帆のクロジャッキから逆三角形のトライアンギュラー・コースを張るようになりました。これについては明確な規定があった訳ではなく、また変更の理由もはっきりしないのですが、直前に煙突があることや船尾舵輪から前方方向の視界確保などの理由から替えられていったようです。なお、日本国内沿岸の航行時にはこのミズン・コースは使用していませんでした(ちなみにトライアンギュラー・コースとは、一般的には操作の人員がより少なく取扱も楽であることから用いられるコースの一種であって、必ずしもミズン・コースに限定されるものではありません。20世紀の商用帆船の中にはコース全てをトライアンギュラーとした記録写真も存在します)。 |
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