【備考】初代海王丸の
外観の移り変わりについて(暫定版)(1)


 初代海王丸は実働59年と非常に船歴が長く、大戦中〜戦後にかけては帆装を撤去して輸送船や引揚船としても活動するなど苦難の時代もあり、改修も多々ありました。年毎の入渠工事記録は「練習帆船日本丸・海王丸50年史」(成山堂書店刊<1980>) に記載されてはいるのですが、模型を製作する上で重要な外観に関する装備品の移り変わりという点で曖昧な部分が少なくない上に、記述が1979年で終わっています。最後10年間の記録は引退直後の1989年12月に航海訓練所の内部報「研究調査雑報第98号別冊」に追補という形でまとめられましたが、この資料は一般には頒布されず国会図書館や東京海洋大・神戸大海事科学分館の両図書館にも所蔵されていないため、ほとんど知られていないようです。

 初代海王丸/日本丸は実船が存在する上に写真や映像、図面といった資料も旧日本海軍艦艇とは比較にならない位多いのですが、市販された写真集の多くには時期を特定する上で重要な「撮影時期」の記載がなく、また船上のスナップに関しては両船のものが混在していても注記がないものすらあります。特に海王丸は通風口や装備品の変更/撤去が日本丸より多く、それも特徴の一つですが、各種書籍に掲載された図面や図解、博物館等に展示されている模型は、私が見聞きした範囲では内容の曖昧なものが少なくなく、旧海軍艦艇のように外観の変遷が判り易く整理された資料もほとんどないのが現状です。

 そのため模型の製作に当たっては、写真や図面や映像と上記の入渠工事記録から、それぞれの「時期」を特定する作業から始める事になりました。以下の図も厳密なものではありませんが、外観上の移り変わりを示した資料が乏しいため、6つの時期に分けて判る範囲で記すことにします。

※注
 図は上部構造を見やすくするため、各マストのフォアステイ以外の全てのリギング及び手すりや舷側側のピンレールを省略し、また救命艇はシルエットで描いてあります。左舷側の救命艇は右舷側と配置が異なるもののみ描いてあります。竣工時以外の図には番号で相違点を示していますが、これは前の時期から変更が確認できる部分の列記であり、図示の時期に全ての工事が行われたという意味ではありません。改修(推定)時期の明記がないものは全て実施時期不明です。

  また、これは外観上の大きな変化だけを整理したものであり、船体内部や機関関係・細かい装備品などの改装状況は省いています。特に最後の10年間は老朽化に伴う内装の改修や船体外板の取り替え工事が頻繁に行われていましたが、これらについても触れていません。その点、御注意下さい。


電動測深儀用のブーム(右舷のみ)
東京海洋大学
百周年記念資料館所蔵模型より
 竣工時のフォアブリッジの羅針船橋部分は手すりだけの露天式でした。帆を用いない機走の際には天候風雨に関係なくここで操船指揮を取り、機走用の操舵装置はここと直下の操舵室の中にありました。

 三角帆は戦前に於いては15枚装備していましたが、このうち6枚分に関しては戦後は通常使用されなかったようです(赤色の矢印で示したものがそれになります)。フォアマストの基部にある1番倉口用のデリックブームは立てた状態(マストに密接した状態)が収納位置だったようですが、図では便宜上水平状態で描いています。

 ウェルデッキの先端部の左右両舷にキセル型通風口が設置されていましたが、竣工当時は右舷側の通風口は2基装備されていました(青色の矢印)。また図では少し判りにくいのですが、右舷側のみ長船尾楼甲板の先端から船首楼甲板の方向に向かって電動測深儀用のブームが装備されていました。図では水平状態として描きましたが、実際は水平方向に加えて上下にも可動し、先端はファイフレール上に斜めに収納されていたようで、竣工当時の写真を見ると下の係船桁の支柱のように写っています。

 またこれも図では見にくくなってしまいましたが、船尾手動舵輪の覆いの外側の甲板上に、舵を操作するチェーンとガイドローラーが覆いからはみ出すような形で装備されました(緑色の矢印)。ここには後にカバーが付けられたのですが、そのカバーが竣工当時からあったものなのかどうかは、図面や竣工当時の写真を見ても良く判りません。東京海洋大学(旧東京商船大学)の百周年記念資料館に所蔵されている、籾山艦船模型製作所製の展示模型ではむき出しのままとなっているため、図ではそれに従って描きましたが、カバーは竣工当時から装備されていた可能性も否定はできません(ちなみに、かつてNHKが放映した1934年頃とされる映像では既にカバーが付けられている事が確認できます)。

 戦前の塗装に関しては言及した資料が全く見当たりません。日本丸の1940年第22次実習遠洋航海に同乗した、洋画家の田辺穣氏の写真集「南海」(1944年育英出版刊)によれば、前後のブリッジと実習生出入口、及び大型の天窓は煙突やマスト・ヤードよりも濃い色で塗られているように見えます。同著の絵画からレッドブラウンに近い色と解釈して示しましたが、色に関しては確証がありません(ただし、アサヒグラフ昭和15年4月10日号に掲載されている、紀元2600年記念航海の写真ではフォアブリッジは白色で塗られているように見えるため、時期によって違いがあった可能性もあります)。また、煙突上部の黒塗装は上端のみだったようです。


 (1)帆装撤去、及びフォア・メイン・ミズンのロイヤルヤードを各ロワーマストに固定(1943年1〜2月実施)
 (2)船首楼に25mm単装機銃台新設(45年7月)
 (3)船体黒色塗装、及びSCAJAPナンバー(K107)記入
 (4)各マストのシュラウド外側にドラム缶の応急筏設置
 (5)長船尾楼甲板先端の左舷側にラッタル新設
 (6)フォアブリッジの操舵室拡張、及び天蓋・見張り台新設(44年)
 (7)長船尾楼甲板から操舵室へのラッタルの設置位置変更、ウェルデッキへのラッタル撤去
 (8)実習生入口天蓋の通風口位置及び形状変更
 (9)煙突先端の黒塗装の範囲拡大
 (10)アフターブリッジに帆走用操舵室新設(44年)
 (11)アフターブリッジ天蓋に方位測定機設置(48年12月、機器そのものは42年3月に設置)
 (12)船尾手動舵輪覆い外側の操舵チェーンとガイドローラー部分にカバー設置
 (13)船尾に黒色旗掲揚

 大戦中の外観に関する主な改装は、まず1943年初めに帆装・ヤードを撤去し、次いで44年5月に練習生の増員に伴いフォア・アフター両ブリッジが拡張され、終戦直前に単装機銃台が増設されたようです。なお、塗装は帆装を撤去する1943年1月までは戦前のままだったようですが、それ以降は船体とマストの先端が灰色であった事しか手持ちの資料に記載がありません。船体が上部構造物を含むものなのか、1944年の船舶保護法に基づいて外舷21号・22号色に再塗装されたか否かも不明です。
 帆装を撤去した際に、前3本のマストのロイヤルヤード(最上段のヤード)は各マストのロワーマスト(マストの下側)の背面に固定し、また最も船尾側のジガーマストのスパンカーとブーム(ヤード)はそのまま残し、それ以外のヤードや索具類を陸揚げしたと五十年史にあります。ロイヤルヤードの処理は「在外邦人引揚の記録」(毎日新聞社刊1970)のp156中段に掲載されている、終戦後間もない時期と思われる写真から確認することができますが、図示した1949年頃まで実施していたかどうかは不明です。また、資料によってはマストの先端部分も取り外したと書いてあるものもありますが、少なくとも戦後の写真を見る限り、各マストはそのままの状態だったようです。

 海王丸は通風口の改修撤去が非常に多かったのですが、実習生入口天蓋の2基の通風口も何度も改修を繰り返し、確認できただけでも形状的に7通りの組み合わせが存在します。日本丸には通風口関係の改装があまりないのとは対照的です。

 終戦後は船体の中央部にSCAJAPナンバー(連合国軍総司令部GHQの船舶管理番号)を記入して、実習生の教育訓練を行いながら1949年まで在外邦人の引き揚げ業務に就きました。船体の塗装は1949年頃と伝えられている写真では黒色に写っているのですが、上述の記録写真では黒とは明らかに違う色(軍艦色または外舷21・22号色?)で写っているため、当初は戦時中の塗装のままで業務に就いていたようです。また、この時期は外航の大型船に日本国旗の掲揚が認められず、海外の港に入港する際には黒色の旗を掲げるよう指示されたといいます。

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