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調理実演過去ログ:ホワイトエンサイン1/350巡洋戦艦フッドを作る
その11:艦橋について
2000/05/27

はじめに

 艦橋の自作で、あと残った主要構造物は後部マストだけになりました。煙突はキットの部品を使うため、マストが建てられれば全体の形がやっと見えてくるだろうと思います。
 以下、8ヶ月分の泥沼です。意外に考える事は多かったです。

艦橋について

 キットの艦橋は司令塔甲板と上下の船室、司令部甲板の床、司令部艦橋〜防空指揮所まで一体化された部品、後部防空指揮所とマストが一体化された部品の4つのパーツから成っています。特に司令部艦橋〜防空指揮所まで一体で抜いた部品の出来は凄く、ガレージキットの常識ではとても考えられない抜き方ですが、作る側にしてみればこれでは各甲板のディテールアップも塗装すら満足にできません。加えて3本のマストのうち前方の1本は後部防空指揮所の甲板と一体化して艦橋の上に付ける形になっていて、その中心を貫いた構造ではないため、組立後の強度にも不安が残ります。田宮の1/700のように艦橋正面と後方の船室や甲板を分割していればまだ手の入れ様もあったのですが…この部品を更に甲板や船室毎に切り離して組むのも同じように手間がかかるだろうという結論で、原型や抜き型の担当者には本当に申し訳なかったのですが、図面を引いて全て自作することにしました。

(1)…シェルターデッキ(SHELTER DECK)
(2)…信号甲板(SIGNAL PLATFORM)
(3)…司令塔甲板(CONNING TOWER PLATFORM)
(4)…司令部艦橋(ADMIRAL'S BRIDGE)
(5)…羅針艦橋(FORE BRIDGE)
(6)…防空指揮所(AIR DEFENCE POSITION)
(7)…対潜見張所跡(ex-TORPEDO LOOKOUT)
(8)…主砲射撃指揮所(CONTROL TOP)
(9)…風除け(WIND SCREEN)

 艦橋は基本的にはキットの解釈に従い、細部モールドの根拠は主に「ANATOMY....HOOD」の図面と写真、「Monografie Morskie HOOD」の図面と立体図と写真、「Warship Profile」「Marine-Arsenal」の写真に依ります。構造も実艦に準じたもので、3本のマストはシェルター甲板まで貫いた形になっています。大半はキットや資料の解釈に従ったのですが、1ヶ所私の判断で変更した部分があります。それは司令部艦橋中央部両脇にある風除け(Wind Screen)で、キットの指示や大半の資料には最終時には撤去されていたと書かれているものですが、私は最後まで残っていたのではないかと考えて、キットに有ったエッチングパーツをそのまま付ける事にしました。「ANATOMY...HOOD」の最終時の側面図には風除けが描かれて無く、キットもそれに従って最終時には付けない指示がされているのですが、1940年10月迄の写真を突き合わせる限り風除けが完全に撤去されていたようには私には見えないのです。しかも「ANATOMY...HOOD」の改装要項には、風除けを撤去した旨の記述がありません。

 そもそもこの疑問は「Warship Profile」と「Marine-Arsenal」に掲載されている、1940年10月に撮影されたとされる外舷塗装中の左舷中央部の写真で、司令部艦橋の風除けの部分が手前に張り出しているように私には見えた事から始まっています。もしこの時点で既に風除けが撤去されていたのなら、この部分は奥の構造物がもっと暗い調子で映っているのではないかと。それと「ANATOMY...HOOD」のP91に掲載されている1931年頃の艦橋の立体図と、「Monografie Morskie HOOD」のP58に掲載されている最終時の立体図を比較
すると、後者は風除けの前面を塞いだだけの表現に見えます。
 これは Warshipの掲示板に疑問として書いた事なので、読まれた方もあるかもしれません。ホワイトエンサインモデルの Dave Carter氏の見解は、司令部艦橋(の甲板)が1939年の改装で拡張された際に風除けは撤去されたと考えている、それ以降の写真で風除けのように見える部分は内部の隔壁の一部ではないかということでした。確かにそう解釈するのが本当かもしれませんが、前に述べた理由からどうにも納得できなかったので、風除けはそのまま残して前面の下側だけを裏からプラ板で塞ぐ解釈を取りました。

艦橋背面。
「Warship Profile」のP164
もしくは「Marine-Arsenal」のP34の写真をお持ちの方は
司令部艦橋中央付近の構造物の見え方を比較してみて下さい。

ポンポン砲の砲座の下側の張り出しが実艦より大きい事は
塗装後に気が付きました(^^;)。
現状はこれで通すつもりですが、
あるいは失敗覚悟で削るかもしれません。

 艦橋の背面も明確な資料が無いため、「ANATOMY....HOOD」に掲載されている1931年頃の立体図を元に、その後に追加されたり撤去された甲板や装備を考慮してまとめたのですが、あまり自信はありません。防空指揮所の後方に一段高くなって角窓が付いている構造物は Torpedo Control Positionと説明されている部署で、ANATOMYの立体図では背面まで角窓が回り込んでいるように見えます。この部分を明確に示した写真は手元になく、一旦そのように製作したのですが、「Marine-Arsenal」に掲載された比較的鮮明な写真で、背面には窓は両脇にしか無かったと判断しました。

 前に述べた、1940年10月に撮影されたとされる外舷塗装中の左舷中央部の写真が「Marine-Arsenal」のP34に掲載されていますが、この写真を見る限り、Torpedo Control Positionと思われる部分の背面には窓がなく、しかも直立梯子が付いているのがはっきりとわかります。また裏表紙には1930年代中頃に撮影されたと思われる、艦橋を左舷後方喫水線位置から見上げた写真が掲載されていますが、ここには直立梯子は写っていませんが、窓枠も見当たりません。このような理由から、Torpedo Control Positionの背面には両脇だけ窓を表現して、中央に直立梯子を付けた形としています。

 ただ、水線上に4基装備された固定式の魚雷発射管(シェルター甲板の開口部の艦尾側の端の下側にあるハッチ)は最後まで残っていたと考えられるため、この部署も機能はしていたと考えられますが、前方は防空指揮所で視界が遮られ、後方もほとんど窓が無かったとすると、側面の窓だけで充分な指揮ができたのだろうか?という疑問は残ります。また、艦橋を貫く3本のマストのうち、後方の2本に関しては背面部分が一部皮を剥いだような形になっています。これは写真からはっきりと確認できますが、なぜこのような構造になっているのか全くわかりません。模型では2mmの真鍮パイプの一部を切り取り、中に1.4mmのパイプを通して表現しています。

 あと、舷灯の位置も資料から完全に判断できなかった事の一つです。竣工時は司令塔甲板の後部船室の両舷側に専用の張り出しを設けてその上に装備されたものと、その上方に装備されたものの2組があったとされており、キットはその状態のままとしています。ところが「ANATOMY...HOOD」によれば、1939年2月〜6月の改装で信号甲板に2基の高角砲射撃指揮装置(HACS Mk-III DIRECTOR)が装備された際に、舷灯を完全にさえぎってしまう事から、舷灯は張り出しと共に撤去され、接していた船室の形状も直線に近いものに変更されたとあります。この部分に舷灯も張り出しも見当たらない事は、前述の1940年10月頃撮影の外舷塗装中の左舷中央部を撮った写真からわかります。しかし、当然どこかに無ければいけない装備であるにもかかわらず、それ以降の舷灯の扱いは資料に言及が無く、最終時の図面にも舷灯は描かれていません。

 Dave Weldon氏の作例では羅針艦橋の後部張り出しの前に1組のみとしており、確かに1939年以降の写真ではそれらしい「影」は見えるのですが、確実に舷灯なのか、私には判断できませんでした。それに、この位置ですと羅針艦橋が艦首方向に向かって広がった形状になっている関係で、艦の真正面からは舷灯が完全に遮られ、また後部の張り出しにも遮られて斜め後方からも舷灯が見えなくなります。これでは舷灯の役目を充分に果たしていないように思うのですが、ただ、この位置以外に舷灯を装備できる場所が(手持ちの少ない写真からは)見当たらないことから、それに従って付ける事にしました。

 舷灯と主砲射撃指揮所の前に付いているライトは、コトブキヤのおたすけグッズのライトクリスタル、クリスタル・エメラルド・ルビーの各SSサイズのものを、多少手を加えて使用しています。それ以外に艦橋に付く細かい装備品(各種射撃指揮装置、信号灯、ヤードなど)は、最後の段階でまとめて製作して付ける事にします。

 艦橋頂部に付く主砲射撃指揮所(CONTROL TOP)も、キットの部品はモールドの一部に疑問があった事に加え、外観も実艦写真から受ける印象と少し違うように感じたので、下側のサポート共々図面を描いて自作しました。この部分は外形にはそれほど疑問に思う事はありませんでしたが、唯一、1939-41年頃に撮影された実艦写真との比較で、正面から見て逆三角形のサポートの先端部分が垂直に切り落とされているように見える部分の意味が、最初は良く理解できませんでした。

 これも Warshipの掲示板に書いた事なので、読まれた方もあるかもしれません。つまり主砲射撃指揮所の背面両端に装備されていたポンポン砲の射撃指揮装置が1936年の改装で撤去(羅針艦橋後部の張り出しへ移設)された際に、その下側にあったサポート部分の先端も切り落とされたとの事で、それでやっと理解できました。ただ、図面から先端を切り落として仕上げたものの、実艦写真と比べると角度などがかなり違うように見えます。ここは図面通りに仕上げましたが、疑問の残る部分の一つです。あと、天蓋に付く主砲
方位盤はキットのパーツを使いますが、これはレーダーなどの関係で製作の最後の段階で付ける事にします。

 艦橋の塗装は船体と同じですが、防空指揮所から主砲射撃指揮所の基部までのマストとサポート部分をフラットブラックで塗っています。これは手持ちの模型の塗装説明図や資料のカラーガイドには記されていないことで、私が知る限りこのような解釈を取った模型は見たことがありません。あるいは奇異に感じられる方もあるかもしれません。
 これはWarship Profileや Marine-Arsenal等に掲載されている1940-41年頃撮影の写真から、この部分がいずれも外舷よりも暗い色調で塗装されているように見える事を根拠としています。Dave Weldon氏の作品ではダークグレー(AP507A?)と解釈しており、それに従うべきか最後まで迷ったのですが、煙突上部が同時に写っている写真ではどれもほぼ同じ色調に見えることから、フラットブラックと判断しました。

艦橋。

左:製作前の検討(1999.09.27)、
右:自作作業終了(2000.05.27)。
ただし、キットの羅針艦橋甲板(無塗装パーツの下から3段目)の
正面の開口部は私が検討の為に開けたもので、
キットのオリジナルは実艦同様閉じられています。

また、キットの司令部艦橋甲板(無塗装パーツの下から2段目)の
側面中央部付近にある半円形の張り出しは
その直下に有った舷灯を保護するガードを表現したものですが、
これも1939年の改装で舷灯が撤去された際に
右下の張り出し共々撤去されたものと考えています。

舷外電路、再考

 製作記の10番目で、1940年8月撮影の艦首側の写真には舷外電路にカバーが無く、同年10月撮影の左舷中央部の写真にはカバーが掛けられていることに対して、他の英国戦艦の実例から最終時のフッドの舷外電路には全部カバーが付いていると判断して製作した事を述べました。

 ところが、その後入手した「Marine-Arsenal」のP34に掲載された1940年10月に撮影されたとされる外舷塗装中の左舷中央部の写真は、「Warship Profile」のP164に掲載されているものよりやや艦首側にトリミングされていて、後者でカットされていた2番主砲基部前半部付近で舷外電路の束が2つに別れている事がはっきりと判ります。このため、艦首側に貼ったプラ板を剥がしてキットのエッチングパーツを貼る羽目になりました。厳密に言えば艦首側の舷外電路は船体への留め金が上下互い違いになっていて、ベルマウスの付近で電路の束の間隔が開いているのですが、これを再現しようとするとまた手間がかかる上に再現できた所で見栄えも良くなるかどうか疑問に感じたのでキットのパーツをそのまま貼っています。

 艦首側に舷外電路のカバーが無かったのならば、艦尾側にも無かった可能性が考えられますが、1940年以降で艦尾状況が明確に判る写真は手元に無いため、艦尾側はカバーを掛けたままとしています。

 以降、次の項にて。