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昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈について
その4:搭載兵器及び艦載艇

搭載兵器について

 5500トン軽巡の14cm主砲の後部には防水鈑と呼ばれる板が付いています。これはタミヤ1/700もアオシマ1/350の部品にも表現されていないものですが、阿武隈に関しては写真を見ると砲の位置によって形状に違いがあったようです。

 世界の艦船増刊No.42 新版連合艦隊華やかかりし頃の写真を見ると、1・2番主砲と3番主砲では防水鈑の側面の形状が異なり、7番砲には防水鈑自体が付いていません。4番砲の形状が3番と同じである事と7番砲に防水鈑がない事は真珠湾攻撃当時の写真から確認できます。また、丸別冊14「北海の戦い」p262-263に、昭和18年7月7日撮影とされる艦尾甲板での記念写真が掲載されていますが、ここに写っている6番(旧7番)砲にも防水鈑は見えません。

主砲の防水鈑の形状及び有無
(世界の艦船増刊No.42 新版連合艦隊華やかかりし頃 p18,90より引用)

 他の5500トン軽巡の写真を見ると、昭和17年に雷撃で損傷した神通や18年に同じく艦尾を失った名取には、いずれも後部の砲に防水鈑が付いていません。そのため、本製作でも防水鈑は1〜4番までの砲に付けると共に、1・2番と3・4番では側面の形状を変えています。

 また、昭和17年1月末現在の公式図には後部の5〜7番砲の周辺に仰角制限装置と説明が付いた柵状のものが描かれています。これは5番と6番は左舷側の7時と10時の位置、7番は7時の位置で、いずれもシェルター甲板の張り出しの側のため、仰角下限一杯で甲板を損傷しないためのものと思われます。本製作では5番砲撤去後の設定なので、それ以外の二砲について装備を付けています。



 開戦時には前部マスト支柱の基部付近に山ノ内式礼砲が2基装備されており、昭和17年1月末の上部平面図にも描かれています。18年7月の時点で残存していたかどうかは不明ですが、昭和17年12月の第一水雷戦隊戦時日誌に機銃との交換要望が出されているため、その後の増設に伴い撤去されたと判断し、本製作では付けていません。

 昭和18年7月下旬のキスカ島撤退作戦の再出撃に当たって、艦尾に陸軍の88式7cm野戦高射砲を据え付けた事はよく知られています。幸い、第一水雷戦隊の戦闘詳報(アジア歴史センターRef.C08030085100「昭和18年7月22日〜昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)」)に設置要項が図入りで示されており、それによれば輸送船などに搭載された砲とは異なり、陸戦仕様の高射砲をそのまま甲板に据え付けたもので、アームの間を丸太で固定して中に砂嚢を詰めると共に、船体内部からも木材で補強工事が行われていました。本製作も基本はこの設置要領図に従ったのですが、疑問点も残りました。図中で示されている前後の長さの寸法が、阿武隈公式図の寸法より実寸で2m以上も短いのです。

設置要項図と公式図の比較
(この画像はクリックすると別窓で拡大表示します)

 陸軍兵器は完全な守備範囲外で、図書館にあった出版共同社刊「日本の大砲」掲載の図面を元に割り出してみましたが、仮に後部の足を水平に伸ばしたとしても4.5m程で阿武隈公式図の長さには合いません。しかしながら、設置要領図は概略図ですから設置する位置さえ合っていれば個々の装備品との距離関係には意味は無いのかもしれません。本製作では設置要項図に記入の寸法前後4mに合わせ、阿武隈後部甲板のハッチと吸気口の間の中間点に据えましたが、右舷艦首側の脚を固定する鋼索の位置がほぼ水平になるため、あるいは艦尾側に詰めて固定されていたのかもしれません。高射砲自体は前述の日本の大砲の図面を元に、プラ材と金属パイプとエッチング部品の余りなどから製作しています。


艦尾甲板周辺

 艦尾の爆雷兵装は昭和17年1月末現在の上部平面図に描かれています。内容は学研本の折込図面と同じで、本製作でもそれに従って片舷3個計6個を付けています。なお、開戦時の阿武隈には爆雷兵装は無かったとする資料がほとんどですが、個人的には有ったのではないかと考えています。詳しくは後で述べることにします。

艦載艇について

 艦載艇の種類と配置は、昭和17年1月末現在の上部平面図では
・9mカッター×1、30尺救命艇×2
・9m内火艇×1
・30尺内火艇(9m内火ランチ)×1
・11m内火艇×1
以上が描かれています。30尺は約9mなので、9mカッターは計3隻有ったということになります。また、30尺内火艇には内火ランチのような図が描かれています。旧海軍に於いては内火艇と内火ランチを一括して内火艇と呼ぶ事もあったらしいので、これは9m内火ランチと判断しました。
 この信憑性ですが、昭和17年11月20日〜28日に掛けて行われたアッツ島への輸送作戦の戦闘詳報(アジア歴史センターRef.C08030083400「昭和17年11月1日〜昭和17年11月28日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)」)の中にこのような記述があります。
○参考
二.使用可能舟艇
揚陸種別第二法[陸軍側準備舟艇不着の場合]
阿武隈 内火艇二(内一、六〇馬力 一 三〇馬力)
    カッター五(内二増載)
木曽 内火艇二(内一、六〇馬力 一、三〇馬力)
   カッター五
備考
二、第二法ニ於テハ阿武隈内火艇一、(三〇馬力)ヲ木曽ニ派遣セルモノヲ示ス
 つまり阿武隈の当時の艦載艇は60馬力内火艇×1、30馬力内火艇×2、カッターは増載分を引いた3という事になります。軍艦メカニズム図鑑「日本の航空母艦」p301の艦載艇要目一覧に依れば11m内火艇が60馬力、9mが30馬力ということなので、内火艇2隻とカッター3隻までは公式図の通りだった事がわかります。9m内火ランチは機関出力が判らなかったため、本製作では公式図の記載通りの構成としました。配置も公式図に従ったのですが、真珠湾攻撃当時の写真を見る限りでは搭載位置が違っていた可能性もあります。

 また、阿武隈のボートダビットは公式図上では3種類存在します。舷側に付くもの大小と甲板上に付くタイプで、これは真珠湾攻撃の際の写真からも裏付けられます。タミヤのキットでは舷側に付く小型のタイプが入っていないため、別途調達する必要があります。

ボートダビットの形状と位置
(この画像はクリックすると別窓で拡大表示します)

 なお、タミヤ1/700やアオシマ1/350の球磨/長良型のキットはいずれも艦載艇の中に11m内火ランチが含まれています。昭和17年1月現在の多摩の公式図が元になっているようで、確かにそう書かれてはいるのですが、図のランチの長さは9mカッターと同じです。また前述日本の航空母艦の要目一覧が正しければ、11m内火ランチの「排水量」は7.1tで、11m内火艇の5.7tよりも重く、もし装備されていたとすれば揚げ降ろしには11m内火艇のもの(上図C)と同等か更に大型のダビットが必要になるはずです。しかしながら両者のキット共にダビットには9mカッターや内火艇と同じ甲板上設置タイプ(上図A)が割り当てられており、この解釈には疑問が残ります。

 キスカ島撤退作戦当時は小発動艇を2隻搭載していました。ほとんどの戦記には大発と書かれていますが、第1水雷戦隊の戦闘詳報(アジア歴史センターRef.C08030084900「昭和18年7月22日〜昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」)から小発であることがわかります。搭載位置は丸別冊14「北海の戦い」p251で当時の先任参謀の有近六次氏が『飛行甲板か舷門付近の上甲板に枕木だけを設けて、これにのせる』と記述されている事から、デリックブームを旋回させるための人員のスペースや艦のバランスも考慮して舷門付近の両甲板上としました。ただし、デリックの項で述べたように左右に振るとその際にデリックの昇降ワイヤーを反対側のウインチに付け替える作業が発生する可能性があることから、左舷側シェルターデッキ上に直列配置だった可能性も考えられます(右舷側はスペース的に2隻は載らないようです)。なお、確証はありませんが、前述のアッツ島への輸送作戦の戦闘詳報では使用舟艇は陸軍側準備としている事から、この小発も陸軍からの供与品ではなかったかと考え、模型上の変化も考慮して海軍標準塗装ではなくそれより明るいグレイ+艦底色の塗装としました。


 予定ではあと一つ、後部甲板上の吸気口に関する事柄を書くつもりでしたが、他艦で少し調べる部分が出てきたので後日補足という形で述べることにします。


 以上で昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する事柄を一通り書きました。あと、それ以外の時期に関して引っ掛かっていることを少し述べます。