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昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈について
その2:艦橋

艦橋について

 アオシマ1/350長良型の艦橋は阿武隈や鬼怒の公式図と比較して1.5mm程度高く、またトップマストも実際より長いようです。これは煙突との関係でかなり目立つので、可能であれば修正したい部分です。本製作では艦橋をそっくり作り直しているため製作そのものに関しては何もありません。艦橋で問題になったのは公式図の信憑性でした。

 艦橋構造は大和ミュージアムの公開資料
『軍艦阿武隈 艦内側面及上甲板諸艦橋平面(四枚ノ内二)』(昭和18年5月末現在)
に依っています。
 この図面は昭和17年1月末現在の図面(学研本球磨・長良・川内型収録図とほぼ同じもの)と比較して、全体で以下の違いがあります。
1.単装機銃増設の加筆なし
2.艦橋前の13mm連装機銃用の機銃座を更新
3.1番煙突・及びカタパルトのそれぞれ前に兵員待機所更新
4.魚雷発射管室上の増設分三連装機銃を更新(文字のみ)、5番主砲消去、
 及び中央甲板右舷側の後端延伸を更新
5.7番砲は高角砲ではなく14cm砲のまま
6.艦橋への21号電探設置とそれに伴うトップマストの後方傾斜、
 及び探照灯管制器用フラットの後方への延伸をそれぞれ更新
7.各艦橋平面図で40cm信号灯と1.5m測距儀の位置を入れ替え
8.同じく上部艦橋甲板の信号所を抹消、羅針艦橋後部を拡張し
 信号所の文字記入更新
(ただし7〜8は艦内側面図には未反映)
 また、図面の履歴に関しては、

右上の図面来歴の項目に「昭和17年1月末日現在(新設改造工事完成ノモノ)とあり、
その下に「昭和18年5月末日現在(新設改造工事記入)」と書かれています。
更に下に人名と思われるハンコが押され、
下に「三月末トシ電探関係を記入ス」とあります。
出図は佐世保海軍工廠造船部、
製図日付は昭和17年4月20日ですが、
出図日の項目に19.6.15の印が押されています。

 以上が図面の概要です。そもそも艦橋甲板平面と艦内側面図の間に矛盾がある上に、
日付も曖昧でどこまで信頼が置けるのかよくわかりません。学研本の図面のように将来予定または未定の工事を描き入れて、履歴の現在時点の姿を正確に反映していない可能性も考えられます。

 履歴の前の日付が18年5月で、阿武隈は19年10月の戦没ですから、加筆で3月末ならば昭和19年3月末しか意味を成しません。前年の10月に横須賀海軍工廠で行われた7番主砲の連装高角砲への換装を始めとする改修工事の内容が反映されていないので、文字通りその時点に於ける電探関係のみを加えたものと思われます。
 しかしながら、前の日付が昭和18年5月末ならば既に21号電探が装備された後です。21号電探の設置工事が米軍のアッツ島侵攻の関係で二転三転した事から元の図面には記載されていなかった可能性も考えられますが、いずれにせよ写真からの照合で21号電探の設置場所に関してはほぼ実情を反映した内容と考えられます(照合に関しては後で述べます)。

 それを踏まえて、写真または従来資料に沿っていると考えられる部分は昭和18年5月頃の状態と判断し、更に以下7点に関して考慮することにしました。

・艦橋前機銃座の有無
・羅針艦橋天蓋の測距儀の仕様
・昭和18年4〜5月に増備された8cm・6cm双眼鏡の位置
・21号電探装備に伴う主砲射撃所の撤去
 及びトップマストの後方傾斜と探照灯管制器用フラットの延伸
・信号所の上部艦橋甲板から羅針艦橋後部への移設
・艦橋の40cm信号灯と1.5m測距儀の位置の入れ替え


・艦橋前機銃座の有無
 開戦当時の阿武隈には艦橋前部に13mm4連装機銃が1基装備されていたとする資料が多く、タミヤ1/700も同様ですが、真珠湾攻撃当時の撮影とされる艦橋を捉えた有名な写真からは7.7mm留式機銃が2基あるようにしか見えません。ここに4連装機銃が存在し得ない事は戦前の写真と比較して、前方に突き出した機銃座がそっくり無くなっていることと残されたスペースでは機銃が旋回できない事からも推察できます。

 そして昭和17年4〜5月の改装でこの部分に13mm連装機銃が装備されました。昭和18年5月末現在の舷外側面及上部平面図には戦前と同じような機銃座が描かれています。これは一般に昭和18年8月1日撮影と言われているシルエット状の写真で艦橋前面下部が突き出して見えることから、図面通り機銃座込みでの装備だったと考えられます。

 ちなみに、上述の図面では7.7mm機銃は1・2番煙突の間の大型吸気口の上に描かれており、恐らく連装機銃の設置に伴ってこの位置に移設されたのではないかと考えます。これは大戦末期に25mm単装機銃と取り替えられたようですが、その正確な時期ははっきりしません。

・羅針艦橋天蓋の測距儀の仕様
 ほとんどの資料では「阿武隈は大戦前に測距儀を6mに換装(大戦中もそのまま)」とあります。しかしながら大和ミュージアム所蔵の公式図では4.5mとなっています。実際に模型を製作してみても、艦橋上に6mを載せると真珠湾攻撃当時の写真と比較してバランスが全く合いません。タミヤ700も4.5mに近い形状ですが、この矛盾を検討した作例は私が見聞きした範囲では見当たらないようです。そもそも阿武隈の羅針艦橋天蓋の「幅」は、測距儀の中心位置で約6m50cmで、仮に6mを装備していたとすれば天蓋ほぼ一杯の長さになるはずです。

 阿武隈の比島沖海戦の戦闘詳報の中にこんな記述があります。
五.戦果及び被害
(二)被害
二兵器機関(主トシテ浸水ニ依リ使用不能トナル)
a.砲術科
(vii)四.五米測距儀仰角10度以上使用不能
 これにより少なくとも最終状態に於いては4.5m測距儀が搭載されていたことがわかります。多摩や鬼怒の公式図から見て主砲射撃用とは別に高射用の測距儀が装備されていたとは考えにくい事から、本製作に於いて羅針艦橋天蓋の測距儀は図面通り4.5mと判断し、ハセガワの装備品パーツを付けています。

・昭和18年4〜5月に増備された8cm・6cm双眼鏡の位置
 学研本球磨・長良・川内型に掲載された田村俊夫氏の兵装変遷レポートによれば、この期間に舞鶴で修理が行われた際に艦橋に双眼鏡が増備されたとあります。本製作では「装備位置不明につき未反映」です。
 これは昭和18年5月末現在の艦内側面諸艦橋平面図には記入されていません。舞鶴鎮守府の戦時日誌にも特に記載はありませんが、訓令は3月に出ているため、工事は確実に行われているはずです。

阿武隈と鬼怒の公式図に於ける艦橋の双眼望遠鏡の位置と数
図はいずれも羅針艦橋を示す
(この画像はクリックすると別窓で拡大表示します)

 昭和18年10月現在の鬼怒の公式図を見ると、8cm双眼鏡は羅針艦橋の窓の側面の部分の外側に、6cmは信号所の中と外側に描かれています。これが訓令で増備された分かどうかはわかりませんが、阿武隈も装備できるとすればこの場所以外には思い当たりません。ただ、存在の有無が明確にわかる写真が手元にない上に、信号所はともかく羅針艦橋の窓の外側に双眼鏡を付けてしまうと艦橋全体の印象がかなり変わってしまうため、これだけの根拠で設置に踏み切ることはできませんでした。これは今後明確な資料が出てくれば改めて付けることにします。

・21号電探装備に伴う主砲射撃所の撤去
 昭和18年5月末現在の艦内側面諸艦橋平面図では、主砲射撃所を撤去し下の主砲指揮所の天蓋の前部マストの中心位置に21号電探を設置したように描かれています。また主砲射撃所内にあったと思われる94式方位盤と双眼鏡は主砲指揮所に移設し、トップマストは後方に傾斜、探照灯管制器用フラットも後方に延伸されています。ただし、図面の概要で述べたように電探関係のみ19年3月に履歴改訂があるため、18年5月と設置状況が変わっている可能性も考えられます。

(この画像はクリックすると別窓で拡大表示します)

 丸エキストラ戦史と旅No.11に、昭和18年9月下旬とされる右舷二時の方向から撮影された阿武隈の写真が掲載されています。ディテールが潰れ気味でやや判読し辛い部分がありますが、21号電探の装備や5番主砲の撤去、25mm三連装機銃増設に伴う中央甲板右舷側後端の延伸、2番煙突の白塗装が写っている事、また艦載機が写っていない事などから、昭和18年夏〜秋頃の写真で間違いないようです。この写真を見る限りでは18年夏の時点で21号電探設置に伴う主砲射撃所の撤去は図面通りに行われたようです。ただし、トップマストは直立しているように見えます。

・前部トップマストの後方傾斜と探照灯管制器用フラットの延伸
 阿武隈の電探設置に伴う前部トップマストの傾斜の有無に関しては、資料によっても写真によっても差違があり、はっきりした確証はありません。
・傾斜していると考えられる根拠
 前述の公式図及び軽巡川内の電波探知機装備要項図
 丸スペシャルNo.98 北方作戦p78のキスカ島撤退作戦中の写真
・傾斜していないと考えられる根拠
 福井静夫氏作成の各種機銃、電探、哨信儀等現状調査表の内容
 丸エキストラ戦史と旅No.11の写真 
 この他に昭和18年8月1日撮影とされるシルエット状の写真が存在し、トップマストは直立しているようにしか見えませんが、これは撮影時期が違うのではないかと考えています。根拠は下でまとめて述べます。

 トップマストの傾斜の有無は21号電探の設置位置と関係があります。電探は敵の位置を知るための兵器ですから、一基のみの設置で電波発信に死角が出ることは機能上あり得ません。公式図では前部マスト主脚の中心位置としていて、トップマストとの間隔が足りないため傾斜させないと電探を360度回転させる事ができなくなります。これに対して福井氏の現状調査表では主脚より前方の主砲指揮所の天蓋上としていて、その場合は傾斜させなくても旋回が可能になります。
 現状調査表は搭載兵器の設置状況を示すものですから、「艦型図の正確性」には意味がないのかもしれません。しかし、何らかの図を元にして描かれたものである事は間違いありませんから、形状の違いを表の趣旨だけを理由に無視することはできません。

 軽巡川内の電波探知機装備要項図は大和ミュージアムの公開資料の一つで、阿武隈公式図の21号電探の装備に伴う改装内容とほぼ一致します。川内の前部トップマストが傾斜している事はラバウル港で撮影された戦没直前の写真から確認できます。

 最終的にはキスカ島撤退作戦中の写真で傾斜しているように見える事と、川内や鬼怒で同様の工事が行われたと考えられる事から、昭和18年7月の段階で公式図の内容通りに工事が行われたと判断しました。また21号電探の送受信アンテナは840kgと重い装備品で、安定したマストの中心位置を外してより構造が弱いと思われる主砲指揮所の天蓋前方に設置するのは不合理ではないかという個人的な考えも入っています

 探照灯管制器用フラットの後方延伸に関しては、キスカ島撤退作戦中の写真では延伸されていないように見えるのに対し、丸エキストラ戦史と旅No.11の写真では延伸されているように見えます。電探装備に伴いマストを傾斜したとすれば、開戦時のままではトップマストの支柱が管制器の旋回範囲に入ってしまうため、川内の仕様に合わせて延伸する事に合理性は考えられます(川内は昭和17年当時とされる図面で電探装備前からこの形状だった事が示されています)。本製作では図面に従い延伸状態で製作しましたが、これも確証はありません。

各艦橋写真と模型との比較
(この画像はクリックすると別窓で拡大表示します)

 また、最初の図で示したように電探を示した艦内側面図はトップマストの先端までは描かれていません。川内の電波探知機装備要項図では現在あるマストをそのまま傾斜させるよう指示されているため、本製作でもそれに従ったのですが、完成後に実艦写真と比較してみるとヤードの位置は開戦時より上方に取り付けられていたようです。


 前檣トップマストの傾斜の有無を考えるに当たって、キスカ島撤退に成功して帰投した昭和18年8月1日撮影とされるシルエット状の写真が存在します。これを見る限りではトップマストは明らかに直立しているように見えます。

 この写真は出所がはっきりしているもので、世界の艦船1969年9月号(No.145)の解説によると、当時第五艦隊司令部暗号長として旗艦那智に乗組まれていた宮原重弘海軍中尉が撮影した一連のスナップの中の一枚ということです。私もこの模型を作るまではキスカ撤退の写真だろうと思っていたのですが、田村俊夫氏の改装状況の調査レポートや第一水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報などを突き合わせてみると、どうもつじつまの合わない部分が出てきます。

(1)前部マストトップの21号電探が無く、主砲射撃所が残存しているように見える
(2)1月に撤去された5番主砲が残存しているように見える(他の砲と見え方が同じ)
(3)6月末に南方に移動したはずの艦載機が写っている
(4)艦尾甲板の陸軍高射砲が見当たらない


丸スペシャルNo.33 軽巡長良型U p68より引用

 このうち、(3)の艦載機に関しては、キスカ島撤退当時の阿武隈には搭載されていなかった事が幾つかの資料から推察できます。

 昭和18年6月の第一水雷戦隊戦時日誌の命令通達の項目にこんな記載があります。
発6月21日 連合艦隊司令長官
受6月21日2130 大和 連合艦隊司令長官 同各司令官 (軍令部総長)
GF機密第二一一四一五〇〇番
連合艦隊伝令作第六〇〇號
1.各指揮官ハ概ネ七月五日迄ニ左ノ兵力ヲ南洋ニ派遣
 同地着後内南洋部隊指揮官ノ指揮下ニ入ラシムベシ
2.大和第十四戦隊阿武隈第十六戦隊香椎青葉内搭載水上偵察機全機
[以下略]
 同じく作戦経過概要に於いて
 6月30日 主要作業
 阿武隈γ[飛行機]ヲパラオ方面ニ派遣ス
 すなわち阿武隈は昭和18年7月以降、艦載機を搭載していません。そして艦に復帰する旨の記述がないまま9月15日付を以て所属そのものが削除されています。キスカ島の撤退作戦当時に艦載機を搭載していないのは作戦行動中の記録写真からも明白で、戦時日誌戦闘詳報にも使用した記述がありません。にもかかわらず、上記の写真には艦載機が明確に写っています。

 以上の点から、この写真は一般に言われている昭和18年8月1日に撮影されたものではないのではないかと考えます。少なくとも電探装備前の5月以前、もし5番主砲が残存していたとすれば昭和18年1月以前の写真かもしれません。これは宮原中尉が那智に乗り組まれていた期間が判明すればより絞り込む事ができますが、模型製作では設定時期に合わないという事が確認できれば良いので、それ以上のことを調べる予定はありませんが。


・信号所の上部艦橋甲板から羅針艦橋後部への移設
 上で述べた丸エキストラ戦史と旅No.11の昭和18年9月下旬幌延の写真からは、前部マストの斜めの支柱は羅針艦橋後端の内側に入り込んでいるように見えます。仮に開戦時のまま羅針艦橋後端を延伸していなかったとすれば、後端は斜めの支柱の位置近くで切れるはずです。それで延伸とそれに伴う信号所の移設は図面通り実施されたと判断しました。

・艦橋の40cm信号灯と1.5m測距儀の位置の入れ替え
 同じ写真からは、開戦時に羅針艦橋にあった1.5m測距儀の下側の半円筒状の基部が見当たらず、羅針艦橋甲板の影がそのまま艦橋側面まで伸びているように見えます。問題は1.5m測距儀が艦橋のどこにも見当たらない事で、仮に図面の通り測距儀が上部艦橋甲板に移されたのであれば、艦橋中部はかなり大きな構造物でブロックされるはずですが、写真からはどう目をこらして見てもそのような影や物体があるようには見えません。ただし、公式図に従って製作した模型と比較すると、艦橋側面の見張所から離れた位置に長細い影のようなものが見えるのが気になります。光源の位置にも依りますが、影があるとすればそれに接する形で元になる構造物があるはずです。

昭和16年12月と18年9月下旬の艦橋の比較
(この画像はクリックすると別窓で拡大表示します)

 そもそも双方の位置を入れ替える可能性はあったのでしょうか?

 長良型軽巡は6隻建造されましたが、艦橋の側面に40cm信号灯用の張り出しと1.5m測距儀が装備されている艦は、阿武隈と防空巡洋艦改装後の五十鈴、図面上ですが鬼怒の3隻が確認でき、また川内型は三隻共に装備されています。

 このうち、昭和18年10月現在の鬼怒の公式図と、防空巡改装後の五十鈴の写真では、信号灯用張り出しが上、1.5m測距儀が下になっています。特に五十鈴の装備位置は阿武隈の図面で示されている位置とほぼ同じです。川内型は戦前の写真では神通が五十鈴や鬼怒と同じ、川内と那珂は測距儀が上、信号灯用張り出しが下になっています。ところが、川内の昭和17年時とされる公式図や前回触れた電波探知機装備要項の図では、測距儀の位置が戦前より下げた位置に描かれています。

 これら他艦の例から見て、理由はわかりませんが、大戦中に測距儀と信号灯用張り出しの位置を入れ替える可能性も否定はできません。本製作では入れ替えた状態としましたが、上記の通り写真からは多分に疑念が残るため、昭和18年7月の時点でそうなっていたかどうか確証はありません。

 以降、次の項にて。