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『仮面/ペルソナ』(Persona)['66] 『欲望』(Blow Up)['66] | |||||
監督・脚本 イングマール・ベルイマン 監督 ミケランジェロ・アントニオーニ | |||||
今回の合評会課題作には、北欧と南欧の巨匠の同年作が並んだ。両作とも名のみぞ知る未見作だったので、宿題がまた一つ片付き、嬉しかった。先に観たのは、スウェーデンのベルイマン監督による『仮面/ペルソナ』。 最初にベルイマン監督作品を僕が観たのは、四十三年前にウディ・アレンの長大タイトル映画との二本立てだった『ある結婚の風景』['74]だ。比較にならないインパクトに恐れ入った。二ヶ月余り後に『沈黙』['62]と『処女の泉』['60]の二本立てを観賞し、これは端倪すべからざる作り手だと確信した覚えがある。 以後、観賞機会が得られれば逃さず観るようにし、翌年は、高知名画座でのヴィスコンティ作品との二本立てによる『秋のソナタ』['78]、テアトル土電でのヒッチコック作品との二本立てによる『沈黙』の再見、県民文化ホールでのブニュエル作品との二本立てによる『鏡の中の女』['76]と観てきて、すっかりお気に入り監督になった。翌年は観る機会がなかったのだが、翌々年の'85年に初めての公開時観賞作として『ファニーとアレクサンドル』['82]を観て非常に感慨深かった記憶がある。'88年には『モニカ』に改題されてリバイバル公開となった『不良少女モニカ』['52]を自分たちで上映し、遺作となった『サラバンド』['03]を '07年に美術館ホールで観、昨年、宿題にしていた『野いちご』['57]をDVD観賞している。 キリストの磔刑を思わせる掌への釘打ちや蜘蛛、首切りに血を流す羊、男性器の大写し等々の短いショットを連写してブニュエルの『アンダルシアの犬』['28]を想起させる実験映画風のオープニングで始まった本作は、ドラマ展開においても実験的な手法が随所に観られる、とても刺激的な映画だったように思う。二十五歳と言っていた看護婦アルマ(ビビ・アンデショーン)と失語症に陥った女優エリーサベット(リヴ・ウルマン)のどちらが患者か判らないような別荘での療養生活を通じて、仮面の下の“本当の自分”を問うていく姿が描かれていたような気がするが、医師も患者も看護師も揃って女性とした設えのなかでベルイマン的容赦ない目で女性、とりわけ母性と演技というか装いを炙り出し、「何もかもが嘘と芝居よ」との台詞を構え、実写映像と思しき焼身自殺のショットを印象深く挿入していた男性作家による本作を女性たちがどのように観るのか、実に興味深い気がした。 これは女性に限られた話ではないが、人が自ら嘘だという話は本音であることが多く、本当はという話は建前であることが多いとしたものだ。アルマが自らのものとして語っていた友人カテリーナと過ごした日々の話やエリーサベットの代弁として語っていた息子の写真を破り裂く顛末を明かす話の何を真実なり事実として受け取るのだろう。 演じることを生業とする女優とケアを以て職とする看護婦という設えがいかにも挑発的で、そのうえでエリーサベットの夫(グンナール・ビョルンストランド)にアルマをエリーサベットと呼ばせるばかりか、二人の顔の左右を繋ぎ合わせて一人の女性の顔にして映し出す念の入れようによって、本作が描くのは、アルマでもエリーサベットでもなく“女性の普遍”なのだと明示しているように感じた。アルマの怒りに触れて身の危険を感じて制止の声を発した場面以外、一言の台詞もなかったように思うエリーサベットを演じたリヴ・ウルマンが流石の存在感を発揮していたように思う。扉を開けるといきなり海が広がり波の寄せていた海辺の家の佇まいが印象深い。 翌日観たのは、イタリアのアントニオーニ監督による『欲望』。僕の好きな緑色が実に美しく画面に現れる作品ながらも、映画としてはまるで響いてこなかった。世界三大映画祭全てで最高賞を受賞している彼の映画で僕が観ているのは、四十一年前に高知名画座でフェリーニ作品との二本立てで観た『情事』['60]と、二十七年前に自分たちで上映した『愛のめぐりあい』['95]しかないので、カンヌのパルムドールを受賞している本作を観る機会が得られたことは嬉しかった。 それにしても、圧巻のスタッフ・キャストだと改めて驚いた。だが、当時のイギリス風俗を写し取っていることと、スタッフ・キャストの他には取柄を感じられなかった。「俺に撮ってもらえるのは幸運だ」と言い放ち、「美人には飽きた、内容に欠ける」などと嘯く売れっ子カメラマン(デヴィッド・ヘミングス)は、骨董屋の店番親父共々、実に尊大極まりない男で、審美眼に自負を持つ者にありがちな鼻持ちならなさが何とも厭味を醸し出していて、いささか気分の悪い作品だったように思う。 極端なまでのブロウアップによって死体と思しきものを見つけた辺りから物語的に多少は面白くなったが、写真家が公園に確かめに行く際にそもそもの盗撮に至ったカメラの携行を怠っていたばかりか、死体発見後も押っ取り刀でカメラを携えることなく思い出したように間を置いて再訪し、死体の消失に呆然としているさまに「いつまでもあると思うな、人気と死体」などと思ったりした。 本作の邦題は一体どこから付けたものなのだろう。自堕落はあっても欲望など、ほとんど感じられなかった気がする。原題どおり「引き伸ばし」なら納得なのだが、作品タイトルにはなりそうにない。謎の女を演じていた二十代のヴァネッサ・レッドグレーヴは確かに目を惹いたけれども、その魅力を十分に生かし切れていなかったような気がしてならない。十年後の『午後の曳航』が印象深いサラ・マイルズもまだ二十代半ばで、実に若々しかった。 すると合評会主宰者が「ね、カンヌのパルム・ドール映画はほんとほぼ、響いて来ないんだよね? 時代と共に古びる斬新さを評価するのがカンヌっぽい感じだよね。」と寄せてくれた。四十年近く前に観たきりだが、『パリ・テキサス』['84]など好かったと返すと『男と女』['66]もそうだと言っていた。そこでざっくりと'60年代パルムドール作を振り返ってみると、『“if....”もしも‥‥』['68]などもあったが、『甘い生活』['60]も『山猫』['63]も『シェルブールの雨傘』['64]も今なおいいと思う。そして、言われてみたら確かにいずれの作品もある種、スタイリッシュというか、オーソドックスな話法を逸脱した“斬新さ”の目立つ映画のような気がした。 映画の新しさには三つあるという話をしてくれたのは、1992年に第三回高知自主上映フェスティバルを開催した際に招いた佐々木敦さんだった覚えがあるが、いわゆる新作という“作品誕生自体の新しさ”、いつになっても観る者に瑞々しい新鮮さを与える“普遍的な新しさ”、同時代における斬新さが時の経過とともに色褪せていく“更新される新しさ”というような話をするなかで、フェスティバルで採り上げた“クーリンチェ少年殺人事件/恋愛小説ができるまで/バートン・フィンク/ギムリ・ホスピタル/アタラント号”のなかで、『アタラント号』は紛れもなく普遍的な新しさを湛えた作品だと講演で語ってくれていたことを思い出した。 合評会では、「私は「訳のわからないもの」好きなので、ぴったり来たのだと思う」と言いながらも判りやすくて面白かったという、何とも「訳のわからない」褒め方をしていたメンバーによる『欲望』評が面白く、また「『ペルソナ』とともにメタファーの多い作品で私好み」という発言の意味するところが判明してすっきりした。要は、メタファーという言葉に対する感覚の違いが大きかったようだ。 曰く、ポロック風の絵画や風景画はあるのにないと言う骨董屋爺さんの言葉やコインロール、パントマイムテニス、妻(僕はカメラマンの妻だとは思っていないけれど)が画家と寝ている…などに“心理学用語としてのメタファー(修辞における隠喩とは異なる意味があるらしいのだが、僕には不得要領のままだった)”を感じ、案外分かりやすく作品のテーマ(「意味の剥奪、という虚無と言ってもよい厭世的な世界像」だとのこと)を例えているな、と思ったのだそうだ。叩き壊されたジェフ・ベックのギターにしてもそうで、「ベックがステージ上で弾いていたら、壊されたネックでも価値あるものだったけれど、道端に捨てられたら、ただの壊れたネックになり、価値がなくなった」ということらしい。そして「いくら傲慢男がイラつくまでに貪欲に意味を尋ねても、意味なんてないよ、お前の脳内の迷妄に過ぎないよ、と意味を滑落させる。そうしたテーマを例えて表すシーンがそこかしこに散りばめられている箱庭のような作品なので、メタファという言い方が相応しいかな、と思い、使った」ということだったが、言うところの“心理学用語としてのメタファー”なるものが僕にはピンとこないままだった。そして『仮面/ペルソナ』についても、深層心理を表すような実験映像が差し込まれていて、西洋の自我の強さを感じたとのことで、「我と汝、分裂する自我をどうにかしてもらおうと、乱行した事や堕胎した事、子を愛せない事を懺悔するけれど、神は答えを与えてくれず、日常に戻るしかない女性二人」といった描出に“メタファー”を感じたのだそうだ。 五人のメンバーにおける支持作については、例によって意見が割れ、三対二で『仮面/ペルソナ』のほうが支持を集めたが、支持度の高低に大きな差がありながら同じく拮抗するなかでの選択結果が割れたメンバーたちから、歴然とした差を以て受け留めた者まで、支持の内容的にも見解がかなり分かれていたところが面白い。 興味深かったのが、『仮面/ペルソナ』の描いていた主題についての受け止め方の差異だった。僕は上述の如く「本作が描くのは、アルマでもエリーサベットでもなく“女性の普遍”なのだと明示しているように感じた」わけだが、自我の分裂と神の存在(不存在)を描いていると受け取ったメンバーやら、作り手にとって重要な意味を持つ映画や女性に材を得た自己表出というか告白として観たというメンバーもいて、大いに意表を突かれた。 演技と母性を軸に「何もかもが嘘と芝居よ」との台詞を設えて“女性の普遍”をベルイマンが描いているように感じた作品を女性がどのように受け取るのだろうかという僕の興味は、唯一の女性メンバーが「女性を描いた作品だとはまるで感じなかった」とのことで、すっかり拍子抜けしてしまった。彼女はオープニングのイメージショットとベルイマン作品ということで、主題としての神を強く意識したようで、僕には「明示」に他ならなかったショットも彼女にとっては、自我の分裂と統合を示唆するイメージという、別な映り方をしたようだった。 また、熱烈な『欲望』支持の声に対して、主宰者から「それならいずれアントニオーニの「愛の不毛」三部作(『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』らしい)を課題作にしようか」との提案もあった。本人の思惑としては、気になっている映画ながら課題作にでもしないと最後まで観られそうにないということもあったようだが、合評会の俎上に乗せられれば、思い掛けない話が聴けそうで楽しみになった。 | |||||
by ヤマ '24.12.12. DVD観賞 '24.12.13. DVD観賞 | |||||
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