『アナライズ・ミー』(Analyze This)['99]
『アナライズ・ユー』(Analyze That)['02]
『恋におちて』(Falling in Love)['84]
監督 ハロルド・ライミス
監督 ハロルド・ライミス
監督 ウール・グロスバード

 BS松竹東急よる8銀座シネマの世界の名優シリーズ 生ける伝説 ロバート・デ・ニーロ特集で未見のデ・ニーロ作品を三作続けて観ることができた。

 最初に観たのは『アナライズ・ミー』だ。1957年のマフィアのボスの会合が警察に摘発されるところから始まるのを観て、もうひとつの『ゴッドファーザー』なのかと思っていたら、とんでもなかった。マフィアの大物ボスであるポール・ヴィッティを演じるべそ掻きデ・ニーロに吃驚し、半ばヤケクソ気味にボスの会合で張ったりをかませて幹部ジェリー(ジョー・ヴィテレリ)を張り飛ばしてまくし立てる精神分析医ベン・ソベルを演じたビリー・クリスタルがなかなか可笑しかった。

 手元にあるマフィアのボスがノイローゼになった。頼みは気弱なセラピスト。と書かれた公開時のチラシの表には、太字でなぜだ?!なぜなんだ??全米興収ランキング10週連続トップ10入り!と記されているのがまた可笑しかった。そこまでの作品とも思えないのだが、当時、大泣きするデ・ニーロの姿は、よほどインパクトがあったということなのだろうかと思った。


 続編の『アナライズ・ユー』は、ポールによって中座させられるのが結婚式から葬儀に替わっていたけれども、基本的に同じ骨格の元にある、いかにもの二番煎じ作だったように思う。オープニングで意表を突き、笑いを取ったウエスト・サイド物語が最後まで活かされていたことには少しだけ感心した。思えば、ジェット団の連中のその後はどうだったのだろう。そして、ポール&ベン&ジェリーのトリオ映画だと改めて思った。

 すると「この時代アメリカでは男性も素直に自分の弱さを見せようのムーブメントがあったらしいです。」とのコメントが寄せられた。なるほど。西部劇や戦争映画などに典型的なマッチョイズムへの反動が背景にあったというわけだ。自分探しムーブメントとも重なっていそうな気がした。


 最後に観た『恋におちて』は、プラトニック不倫ものとして映友女性からの勧めも得ていた作品だが、モリーことマーガレット・ギルモア(メリル・ストリープ)が、フランク(ロバート・デ・ニーロ)との逢瀬に浮き立って、服をとっかえひっかえして鏡を観ながら、自分に対して何してるの?気は確か?と呟く姿に、メリルは十年後のマディソン郡の橋['95]でも、同じ台詞を吐いていたなと思わずほくそ笑んだ。

 物語の軸は、無論そのモリーとフランクのダブル不倫なのだが、僕の目を惹いたのは、むしろそれぞれの夫婦の会話だった。まさにアパートの鍵貸します['60]のようなしけ込み方をしながら、やっぱりできないわと言い出したモリーを尊重し、中断したフランクは、同じように列車が重要な役割を果たす終着駅['53]のジョヴァンニとは違って、女性に手を挙げたりしない本屋好きの知的な紳士だったが、妻のアン(ジェーン・カツマレク)から質されて別にと応え、せめて嘘をついたらと返されて思わず有り体を白状してしまっていた。

 それに対する妻のその(何もなかった)ほうがもっと悪いわという台詞は、むかし何かでも取り沙汰されていたような気がするが、本作を初めて観て当時さかんに交わされていた覚えのある“挿入行為の有無による差異”とは違うものがあるように思えてならなかった。言葉通りに何もなかったことが悪いのではなくて、嘘さえついてくれなかったことへの失望と怒りが言わせたもののような気がした。夫を質しつつも、嘘をついてくれたら乗りたい気がアンにはあったように思う。それだけに有り体を言われてしまったことに傷ついたような気がしてならない。それで出てきた言葉のように感じた。

 また、フランクはアンから「嘘」を持ち出されなければ、女性と会っていたなどと言い出したりはしなかったはずで、「せめて嘘をついたら」との挑発のもたらした影響は改めてすごいと思った。そのことがなければ、『終着駅』のジョヴァンニよりは遥かに自制心のある人物が、たとえ先に職場に電話を掛けてきたのがモリーからだったにしても、遠く離れた南部に赴任する直前になってモリーの“夫のいる自宅”に電話してしまう見境のなさを露にしてしまうこともなかったように思う。

 同様に、ギルモア夫妻においても、ブライアン(デヴィッド・クレノン)が妻に向かって片が付いたななどと冷ややかに述べたりしなければ、モリーの逆上めいたフランク訪問までは起こっていなかった気がしてならなかった。夫からの冷ややかで皮肉を含んだ一言は、迷いと罪悪感によって引き裂かれそうな葛藤に苦しんでいたモリーへの挑発になってしまっていたような気がした。だからといって悪いのがアンやギルモア医師なのではないが、いかにもありがちなことのように感じた。

 本作は、もう四十年も前の作品になるわけだが、恋愛におけるハードル【障害】の高さがそのまま、その純度を高めるものとして共通理解を得られる時代だったような気がする。だから、婚外恋愛をかように描いているのだが、そのことに隔世の感を覚える。両方の時代を生きてきている僕からすれば、関係者以外の者が称揚するものでも非難するものでもないように思うのだが、なぜか今や関係もない世間から叩かれ、関係もない人々に謝罪を要求される条理に合わないオカシなことになっている。不法行為ではあっても犯罪ではないのに、犯罪以上に断罪されるヘンなことになっている気がして仕方がない。愚かな時代になったものだとの嘆息を禁じ得ないでいる。
by ヤマ

'24.11.30. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画
'24.12. 1. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画
'24.12. 6. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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