『淵に立つ』['16]
監督・脚本・編集 深田晃司

 深田作品は、LOVE LIFEしか観ていなかったが、六年前に当地でも上映され、気になっていた本作をようやく観た。映画日誌に実にややこしく一筋縄ではいかない関係が描かれる家族の物語だったと記してある『LOVE LIFE』以上に、一筋縄ではいかない秘密と楔を抱える夫婦の物語だった。

 画面に緊張感が120分間ずっと途切れないことに驚かされた。どう展開していくのだろうと固唾を飲みつつ、まさに淵に立って見つめるような緊迫感に観る側が見舞われる作品だったように思う。

 家族における秘密の話となると、すぐに想起されるのが秘密と嘘だが、本作には、秘密はあっても嘘が一つもなかったところが鮮烈で、罪悪感というものの射す影の描出に唸らされた。

 それにしても、出来事のほうですら、実際のところ何が起こったのか判らないことのほうが多い人の世にあって、心の内となれば、ほとんど何も判らないのが常であって、ある意味、知ることの怖さ、知らされることの怖さを描いている作品だったように思う。そのなかでもとりわけ強力なのが、知られていないはずだと思っていたことを実は知っていたのだと知らされることで、鈴岡利雄(古舘寛治)における殺人加担にしても、妻の章江(筒井真理子)における八坂(浅野忠信)との情痴にしても、知られていたことへの驚きよりも、知っていながらそのことを自分には気取らせなかったことへの衝撃のほうが大きいように感じられたところに感心した。人にとって何を知らずにいることが最も堪えるのかということの核心部分だと思う。

 それはさておき、娘の蛍(真広佳奈)に障碍をもたらした脳の損傷は、何によって生じたのかを思うとき、僕には事故のように思えて仕方がなかったのは何故だったのだろう。十九年前の殺人事件の顛末についてはさして気にならなかったのに、八年前の傷害事件の顛末のほうは、妙に気になって仕方がなかった。八坂の犯行によると受け取る者と、八坂は事故現場に遭遇したと受け取る者とでは、おそらく前者のほうが多いと思われるのだが、僕には後者の気がしてならない。

 その八年前の事件については、ネットであの事件の前に、筒井真理子と浅野忠信がいい関係になりつつあって、あとはもう時間の問題でSEXに至るだろうと思わせています。その後で浅野が青姦しているカップルを目撃し、その後に事件が起きます。あの青姦カップルは唐突に登場し、その後もドラマに絡みません。ということは、あのカップルを見て浅野が欲情し暴発して事件を起こした、というのが自然ではないか?と思います。さもなくばあのショットが意味を持ちません。その仮説を昨年深田晃司に会う機会がありぶつけてみました。「全くその通りです」ということでした。とのコメントを寄せて貰った。

 本作における道路越しに見えるような緑地内の木に凭せ掛けての青姦ショットは、蛍が頭から血を流していた場面との繋がりではなく、紳士的だった八坂が鈴岡家の台所で強引に章江との情交に及ぼうとして『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のフランクのごとく台所のテーブルに章江を押し倒す場面の前に登場したように思うが、余りに易すぎてギャグかねと感心しなかった。また、その意が「憚りなさ」にあるのではなく、寄せられたコメントのとおり「欲情の暴発」ということなら、尚更に安くなって全く感心できない。

 コメントを寄せてくれた方はああいう如何にも意味ありげなショットが嫌いです。冒頭の筒井と津田寛治の朝食のショットも不穏な空気が流れていて意味ありげです。本作だけでなく深田晃司の特性のように思い、もう少し力を抜いた演出をして欲しいと、せっかくの力量が空回りしているように思うんですよとも添えてくれていたが、僕は、テレビドラマ的に縷々描出したり、何もかにも台詞にしてしまう作り手よりも、言うなれば「如何にも意味ありげなショット」を提示してもらって、それを解釈する余地のある作品のほうが好みで、青姦ショットには感心しないながらも、「筒井と津田寛治の朝食のショットも不穏な空気が流れていて意味ありげ」のほうについては、悪くないと思っているどころか、この不穏な空気がずっと途切れずに120分間持続したことに大いに感心しているところだ。

 あざとく意味ありげなだけのショットと受け取るか、フックを掛けてきたと受け取るかの違いは、作り手との感性的相性による部分が一番かと思うが、触発されて響いてきた意味が、ピンと来て腑に落ちるか釈然としないかにもよるような気がする。青姦ショットに擬えて言えば、僕は、明け透けに交わる「抑圧しない憚りのなさ」を受け取ったので、些か易いなと失笑しながらも、章江への想いを抑えていた八坂の表出場面への繋がりを違和感なく許容できたが、もし深田監督が「全くその通りです」と答えたという八坂の「欲情の暴発」の引き金のように受け取っていたら、いくら何でも安すぎてダメだったろうと苦笑した。作り手の意図がどちらにあったかは、僕にとってはあまり関係のないことだから、監督自身がそのように答えていたとしても気にはならない。それは、作品というものは作り手の手を離れたら、作り手を(上にも下にも)超えるものだと思っているからだ。

 コメントをくれた方は作り手の意図を読み取るというのが映画を見る醍醐味だと思っているので、向き合い方が違うのでしょうとのことだったが、全く同感だ。僕は、作り手の意図よりも、作品が宿しているものを読み取ることのほうが断然好きだし、作り手が自作について語ることにほとんど関心がなく、また、語っている言葉についてもTPO次第で必ずしも本心を言っているとは思っていないようなところがある。それは、二十七年前に上梓した拙著作り手が何を撮ろうとしているのかとか誰の影響を受けているのかということについては、評論家や作り手自身が言葉にしているものをあまり重要視しないことP60)と綴った当時から何ら変わるところがない。




推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20161011
by ヤマ

'23. 5.12. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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