『太陽を盗んだ男』['79]
『竜馬暗殺』['74]
監督 長谷川和彦
監督 黒木和雄

 今回の合評会の課題となった“いわゆるテロリストとは一味異なる和風テロリストを造形した二作”は、ともに学生時分に同じ池袋文芸坐地下で観ている映画で、基本としている製作年次順からすれば、『竜馬暗殺』を先に観るところだが、十二年前に再見し、映画日誌にもしてあることから、四十二年ぶりになる『太陽を盗んだ男』を先に観ることにした。

 奇しくも前夜にここまでなんじゃこりゃの連打による映画だったとは!と感嘆し、いかにも'70年代っぽい劇画的なノリが可笑しいと感じたガントレット'77]のような作品だった気がする。終盤の見せ場となるカーチェイスの口火を切る際に無駄にジャンプしていた車にも笑ったが、なにせヘリコプターによる追跡まで登場するばかりか、そこからの射撃によってソンドラ・ロックならぬ池上季実子が射殺されてしまう。彼女の演じた沢井零子の直前の台詞がよくて貴男の顔を知っているのは私だけでいいわと怪物マスクを“太陽を盗んだ男”たる中学の理科教師城戸誠(沢田研二)に被せるのだが、そう言えば、オープニングは、鋭いまなざしを見せる顔と通勤電車のガラス戸に潰れる草臥れた顔の二つの沢田研二の顔で始まっていた。

 東急百貨店のトイレに洋式には「ヨーロピアンスタイル」との表示がされ、街の至る所に公衆電話のある時代の作品だから、水谷豊が催眠ガスで拳銃を奪われる交番の若い巡査だったり、西田敏行がサラ金の取立屋といった端役で出演し、スタッフ名でも、相米慎二が助監督、黒沢清が制作進行でクレジットされていて、逆探知の協力を求めるのもNTTではなく電電公社となる。だが、そうして観てみると、城戸が♪科学の子ぉ♪と鉄腕アトムの歌を口遊みながら、原子爆弾を自室で製作して、さしたる目的もないままにテロ行為に及んでしまう本作の湛えていたアクチュアリティは、今の時代のほうがより高くなっている気がしなくもなかった。

 また、後に9条にまつわる歌を放った沢田研二と、癌で亡くなる一か月前に沖縄で仲井真さん、弾はまだ一発残っとるがよとの演説を残して逝った菅原文太が、見事なツートップで主演を張っている作品でもあることの奇遇を感じたりした。菅原文太の演じた山下満州男警部は、クリント・イーストウッドが『ガントレット』で演じたベン・ショックリー刑事よりもかっこよかった気がするし、沢田研二が見せていた城戸の変装がなかなか見事だったと思う。

 警察の包囲網に遭って証拠品となるボイスチェンジャーを棄てながら、盗んだ拳銃をそのまま所持しているのでは、どう考えても辻褄が合わず、声を変えられなくなって山下警部に正体を悟られるという展開のためだけに用意されたものになってしまっていたり、被曝死する猫のエピソードの余りにも乱暴さとか、随所に呆れさせられながらも、けっこう面白く観た。やはり僕は『青春の殺人者』よりも、こちらのほうが断然好みだと改めて思った。

 すると、ネットの映友から『ガントレット』との比較は賛同するとの意見が寄せられるとともに、映画批評の潮流の政権交代、小川徹を代表とする「裏目読み」から蓮實重彦を代表とする「表層批評」の先鞭となったのが『ガントレット』であり、決定づけたのが『太陽を盗んだ男』だったと思います。ただし『ガントレット』はほとんど評価されていなかったので(私も)擁護派でしたが、『太陽を盗んだ男』は今や神格化されてしまったので、あえて言えば大黒東洋士氏の異議申し立てにも一理あり、と思っています。とのコメントをもらった。

 かの『ガントレット』が、映画批評史においてそのような位置づけにある作品だとは露知らず驚いた。たまたま今回、時期を同じくして観て、両者の対照に吃驚したのだが、なんじゃこりゃ展開の『太陽を盗んだ男』を観ていて、まさに取って付けたようなヘリの登場と低空飛行からの銃撃に『ガントレット』印を観て取り、殺された沢井零子とバイクの後部席で晒していた背中に只の一発の銃弾も受けなかったガス・マレーとの対照に確信を覚えたのだった。これは、なんじゃこりゃ展開の『ガントレット』マインドで撮られた映画に違いないというわけだ。

 そして、当地出身の大黒東洋士が『太陽を盗んだ男』の世間の高評価に異議申し立てをしていたというのは、そう言えば、と思い当たるところもあって書棚にある『イジワル映画批評家エンマ帳』を開いてみると、《番外・この一本を斬る!『太陽を盗んだ男』P95》となっていて…ある程度目をつぶるとしても、瑕瑾が多すぎる。一体この作品を買う者は、テンとして瑕瑾らしきものを感じないであろうか。それが摩訶不思議でならない。どこか、映画の見方が違ってやしませんか、とそんな疑問がわいてくる。…P99~P100)と書いてあるのだが、「この一本を斬る!」の最初の作品が『ガントレット』で、初めのうちはなかなかカッコいいが、だんだんアホらしくなって、しまいにはシラケてくる。こういうデタラメ・アクションに、意外といい点数をくれてやる批評家もいるが、本気なのかチャランポランなのか、もっとマジメにやれ、といいたくもなる。P17)と書いてあった。いかにも生真面目で頭の固そうな大黒東洋士の人柄が窺え、今回の合評会のカップリング課題作『竜馬暗殺』に出てきていた中岡慎太郎イメージが浮かんで、これもまた、ある種、土佐人の典型だったなとの興趣を覚えた。


 翌々日に観た『竜馬暗殺』は、十二年前に三十年ぶりに再見した作品で、三度目の観賞となる。思うところは、当時と変わりなかったが、竜馬(原田芳雄)が儂の友達じゃった以蔵ゆう男によう似いちょらぁと言う右太(松田優作)に姉御っちゃ奇妙な存在じゃのと言っていた場面の後に続いて右太と幡(中川梨絵)の姉弟相姦の場面が登場して、ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないかの声が聞こえてくる運びが目に留まった。奇妙な熱に浮かされたような幕末のええじゃないか騒動もまた、内ゲバとともに、十二年前の映画日誌にも記した作り手の“戦後の学生運動”観を思わせるものだと思われるが、そういう暗示的な意味合いで言えば、右太と幡の姉弟相姦の場面もまた、姉の乙女と竜馬の特別な関係としての姉弟関係を示しているものだったことに思い当たった。そして、架空の人物として敢えて造形されていた姉弟の名前が、右太【唄】と幡【旗】であるところに、ええじゃないかと唄う大衆運動と大義を掲げた錦の御旗を思い、その二つを欠いていたのが内に閉じた学生運動だったとの作り手の捉え方が投影されているのかもしれないとも思った。

 そうして振り返ってみると、慶応三年十一月十三日から始めての竜馬暗殺までの三日間の潜伏生活を描いた作品の一日目は、女好きや軍鶏好き、近眼、革靴など専ら竜馬の特徴について、活動写真張りの縦書き字幕と共に描き出していて、二日目は主に当時の社会情勢について語っていたことに気づいた。

 折しも峠 最後のサムライを観たばかりだからか、長岡藩家老河井(役所広司)の嘆いていた、“不義不忠の倒幕運動に皇室利用を画策した薩長のろくでもなさ”について、大久保利通(田村亮)が錦の御旗を持ち出すなど、さすが岩倉殿と岩倉具視(山谷初男)に言った際に、その直前の場面にあった困窮公家による養豚稼業の豚の声が響いてくると同時に、その臭気に大久保が顔をしかめる描写が印象深かった。

 いわゆる定番となっている竜馬像からすると「なんじゃこりゃ」の坂本竜馬が描かれるのだが、これが実に活き活きとしていて説得力がある。原田芳雄の紛うことなき代表作だと思う。そして、おんしゃ近眼のくせに、いっつも遠くを見たように言うがぜよとの慎太(石橋蓮司)による竜馬評がいい。やはり破格の竜馬映画だと改めて思った。

 すると、清水邦夫と共同で脚本を書いた田辺泰志と交友があるという映友から、田辺氏が清水邦夫の逝去に当たりキネマ旬報に掲載した追悼文を読んでほしいとメールをしてきたということで、読ませてもらった。『竜馬暗殺』に共同脚本として参加するに至った経緯から始まり、いろいろ興味深い話が綴られていたが、それによると十二年前の映画日誌に僕が慎太郎との敵対と親和の入り混じった珍妙な関係から、最後には、堅物慎太郎をその気にさせて、倒幕後の薩長テロを企てる同志として組むことに至らせていた結末が愉快だ。と綴ってある部分は、田辺泰志の提案によるものだったようだ。彼が黒木監督に認められる切っ掛けになったという監督・脚本作品『空、みたか?』をやにわに観てみたくなった。


 合評会では、'70年代をまさしく青春期として過ごしてきた面々から、今なお長谷川和彦監督作を待望する声が出たり、本作における「なんじゃ、こりゃあ!」な映画の「なんじゃ、こりゃあ!」な青春についての指摘や列挙が続いて大いに盛り上がり、合評を経た後のカップリングテーマも「“なんじゃ、こりゃあ!”な青春」ということになった。
by ヤマ

'22. 7.23,25. DVD観賞



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