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ご法話

<第3319号 本願寺新報より>

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安心
―「本堂に参ってくれてうれしい」―

苅屋 光影(かりや・こうえい)光行寺 副住職

・発病記念日
 お寺・寺院の語源をたずねますと、「ビハーラ」や「アランニャ」というインドの言葉が見つかります。
 「ビハーラ」とは、心身の安らぎの場所、休息の時間を意味するそうです。また、「アランニャ」とは、森林など、修行するのにふさわしい静かな所という意味があります。現代のお寺も、あわただしい世の中にあって、心落ち着く場所、安心できる場所でありたいものです。
 『無量寿経(むりょうじゅきょう)』の中に、おつとめとして親しんでいる「讃仏偈(さんぶつげ)」があります。その中に「一切恐懼 為作大安(いっさいくく いさだいあん)」(生死(しょうじ)の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう)というお言葉が出てきます。
 阿弥陀さまは不安をかかえる私たちに、大いなる安心を届けてくださっています。お寺の本堂は、阿弥陀さまの安心してくれよという願いを聞かせていただく聞法の道場であるとともに、私のいのちがそのままで安心させていただける居場所でもあるのです。
 本堂の阿弥陀さまの前に座らせていただきますと、私はなつかしい祖父や祖母のことを思い出します。祖父は、私が小学校6年生の時に亡くなりました。51歳で脳出血を起こし、亡くなる74歳まで右半身不随の生活を送りました。倒れた2月10日は、発病の記念日として、毎年、本堂にお参りをし、家族で祖父を囲んでいたことを思い出します。祖父の車いすを押して公園に行くのが、私の幼い頃の楽しみでした。
 亡くなる前年の秋、本堂再建の入仏法要が営まれました。車いすで本堂に参拝し、感動のあまりずっと涙を流していた祖父の顔を今も覚えています。その時は、なぜ涙を流しているのかわかりませんでしたが、お寺の歴史の中で、この法要がおつとめできること、またそのご勝縁にであえた重みを誰よりも感じていたのでしょう。

 

・ひとすじの道
 それから3か月後に病気が再発し、重体の日々が続きました。亡くなる1カ月前の5月には、本堂落慶(らっけい)法要が予定されておりました。法要の準備が進む中、祖父は自分の容態が悪くなる病床で「わしが死んだら伏せるように」と家族に伝えました。自分の命が法要までもってくれるのか不安だったのです。
 危篤状態の中、祖母の精一杯の看病もあって、落慶法要を中継のテレビを通して病床で見ることができました。そして法要から1カ月後に亡くなりました。
 祖父が書き残したものに「死ぬまでも 死にての後も我と云う ものの残せる ひとすじの道 九條武子」とありました。
 私にとって、祖父の生きてきた姿も、そして「伏せてほしい」という言葉も、「ひとすじの道」となって残っています。
 その祖父を看病した祖母は、10年前の年末に亡くなりました。人生の最後を本堂で迎えました。亡くなる日の朝、いつものように5時に鐘をつき、6時からの朝のおつとめの後、姿が見えなくなっていました。家族が探しましたが、なかなか見つかりません。本堂の演台と黒板の間に横たわり、合掌して静かに息をひきとっていたのです。
 本堂の黒板には新年にお参りされる方へ、「年頭のことば」とだけ書いた文字が残されていました。一年の終わりにあたり、新しい年を迎える準備をしていたのです。
 「本堂に参ってくれた。これほど嬉しいことはない」
 祖母がいつも私に掛けていた言葉です。祖母の居場所はいつも本堂でした。本堂での仏事を大切にし、朝夕のおつとめはもちろん、新聞を読んだり、昼寝をしたり、ご門徒と語り合ったりと、本堂で多くの時間を過ごしていた祖母でした。最後も本堂でいのちを終えていったのです。
 今でも本堂にお参りすると「よう参ってくれた」とよろこんでいるように感じます。
 私にとってお寺の本堂は、祖父と祖母を思い出せるなつかしい場所であり、歩んできた人生の原点に戻れる安心できる場所です。
 祖父は半身不随の生活の中で杖をたよりに、祖母は祖父に寄り添いながら、朝晩、仏前に座り、お念仏をよろこぶ日々を過ごしていました。
 祖父や祖母の歩んできたような人生は歩めませんが、同じ仏前に座り、お念仏をよろこびながら、同じ「ひとすじの道」を歩ませていただきたいと思います。

 

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