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お念仏を申す人生

光行寺住職 苅屋光影

 時代が変わり、世の中も変わり、価値観や考え方、さらにはお寺を取り巻く環境も急速に変わっていきます。これからどのような時代を迎えようとしているのか、不安と混迷の中にあって見通しのきかないのが私たちの人生です。親鸞聖人の歩まれた平安時代から鎌倉時代は、平家から源氏へ、公家から武士へと、世の中や価値観が変わっていきました。しかし、親鸞聖人はどのような時代を迎えようとも、どのような状況になろうとも『歎異抄』第二条に「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」(註釈版聖典832ページ)と法然聖人のお示しくださったお念仏を申す人生を歩まれました。
 お念仏申す人生は、南無阿弥陀仏という仏さまがいつでも、どこでも、だれにでも、すべてのいのちの上に届いてくださり、私のいま、ここに、南無阿弥陀仏という仏さまがご一緒してくださっている人生です。南無阿弥陀仏の仏さまは、仏さま自らが私を救おうと、私のいのちの中に、私の人生の上に、み名となって安堵する心を届けてくださっています。
 お念仏申す人生とは、世の中はどうでもいいからお念仏を称えておけばいいということではありません。『歎異抄』第二条には「弥陀の本願まことにおはしまさば」(同833ページ)と述べられています。阿弥陀さまのご本願をまことの依りどころとして、どのような時代になろうとも、自分が人々を救うのではなく、共に阿弥陀さまに救われていくいのちであることを聞かせていただくのです。私の人生全て見通してくださっている阿弥陀さまの願いが、南無阿弥陀仏となって届いてくださっているところに共に歩む道があることを、親鸞聖人はお示しになられたのです。
 昨年、祖父の三十三回忌を迎え、今年、祖母の十三回忌を迎えます。もうそんなに月日が流れてしまったのかと、共に過ごした日々を懐かしく思い出します。そして、今の私の姿を見たときに、祖父は何を語るだろうか、祖母は何をほめてくれるだろうかと思います。
 大正生まれの祖父と祖母は、お寺の梵鐘をついて、朝夕、いつもの時間通りに本堂に参り、仏前に座ってお念仏を申すことを何よりも大切にして生活していました。そして、孫である私が仏前に座って手を合わせることを何よりもよろこんでいました。
 祖父は脳出血のために半身不随の生活でした。体の左半分しか動かすことができません。左手に杖を持って右側の体を引きずるようにしながらゆっくりと本堂に向かいます。板張りの廊下ですから、コツン、コツンと杖を突く音が響きます。その音を聞いて私は本堂に向かいます。すぐに祖父に追いつき、一緒に並んで歩いていると、杖の音とともにお念仏の声が横から聞こえてきます。病気のために、はっきりと聞こえるお念仏ではありませんが、ゆっくりと杖を突くリズムに合わせて、祖父はお念仏を申しながら本堂まで行きます。その杖の音とお念仏の声が私の記憶に残っています。
 祖父は晩年、寝たままの状態になると、勤行の時間にはベッドの上で本堂の方を向いてお念仏を申しておりました。本堂に参ることができなくても、仏前に座ることができなくても、どうのような境遇にあっても、仏さまはお念仏となって届いてくださっています。そのことを、祖父は身をもって私に教えてくれていたように思います。
 祖父が亡くなった後、祖母は何度か私に時計をプレゼントしてくれました。腕時計に置時計、掛け時計など、様々な時計が残されています。それは、祖父のように時間通りに仏前に座るお坊さんになってほしいとの願いからプレゼントされたものでした。
 几帳面な祖父は、法座や朝夕のおつとめの時間は、一分たりとも遅れることなく定刻にはじめ、特に時間を無駄にすることには厳しかったそうです。時計を渡すとき祖母は、『賢くならなくてもいい。立派にならなくてもいい。偉くならなくてもいい。ただ祖父のように仏前に座り、お念仏を申すことだけは大切にしてほしい』と何度も私に話してくれました。渡された時計を見ながら、祖父や祖母が人生の中で何を大切に生きてきたのか、また、私にどのように人生を歩むべきなのかを教えてくれているように思います。
 親鸞聖人が「ただ念仏して」と、法然聖人よりいただかれたお念仏申す人生は、阿弥陀さまの願いが願いのままに、この私を救おうと南無阿弥陀仏となって今、私とご一緒してくださっていることをよろこぶ人生です。
 六月は祖父の祥月。祖父の遺した杖の音とお念仏の声を思い出しながら、お念仏を申す人生をよろこばせていただきたいと思います。

 

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