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お礼を申す人生

光行寺住職 苅屋光影

 「親鸞聖人のご苦労を思えば、なんのこれしき…」と言いながら、本堂の階段をゆっくりと上がってこられるご門徒のおばあちゃんがおられます。本堂に入られると、うれしそうに「今日もご縁にあわせていただけます。ありがとうございます」と、私にご挨拶をされ、ご本尊に手を合わせ、いつもの場所に座られます。そして御法座が終わり、私が「ようこそお参りくださいました。またお会いしましょう」と声をかけると、おばあちゃんは「いのちがあれば、また参らせていただきます。いつが別れになるかわからん身ですから…」と言われるのです。
 そのようなやり取りを、ご法座のたびに繰り返していました。親鸞聖人九十年のご苦労を、わが身の上にいただきながら、お寺参りを何よりのよろこびとしてお念仏の道を歩んでこられた方です。最近は足腰が弱って、「もうお寺にお参りしてお礼を申すこともできなくなってしまいました」と寂しそうに言われます。しかし、その後に「この人生で出あうべきものに出あえて良かったです」と笑顔でお念仏申されます。
 さらに「お寺にお参りできないので、朝夕お寺の方を向いて手を合わせ、お礼を申しております」と言われます。同じようにお参りすることが難しくなり、お寺の方を向いて手を合わせておられるご門徒さんが何人もおられます。その方々がお寺にお参りしておられた姿を懐かしく思い出すとともに、人生の中で出あうべきものに出あい、お礼を申していくことの大切さを教えていただきます。
 浄土真宗はお礼を申すことを大切にしてきました。仏前に座ることは、私のお願いをすることではなく、阿弥陀さまの願いを聞き、お礼を申すことです。お礼を申すとは、どういうことでしょう。私たちは毎日いろんなものをいただいて生きています。食事をとるということは、様々ないのちをいただいているということです。いただいた後はお礼を申します。私たちの人生は、今日をいただき、出会いをいただき、仏縁をいただいています。いただいているものがあるからお礼を申すのです。いただいていないのにお礼を申したら、催促ということになります。いただいているものが先にあるということが大切なことです。そしてお礼を申すのは他の人ではなく、私自身です。浄土真宗でいうお礼を申すとは、もうすでに私の歩むべきお念仏の道をいただいていることであり、このいただいているお念仏の道を歩むことこそがお礼を申すことになるのです。
 一方、私たちの人生は失っていくものがたくさんあります。人生の中で三つのものを失っていくと聞かせていただきました。一つは体力です。年を重ねるごとにこれまでできたことができなくなっていきます。二つめは親しい人です。長生きをすれば別れも多く、身近な方も見送っていかなければなりません。三つめは存在観です。私という存在は、地位や役職などの肩書があって社会的に認められていることが多いのですが、頑張って努力して得た肩書もやがて失っていきます。そのことを教えてくださるご門徒のおばあちゃんがおられます。
 お参りに行くと、いつも一人で縁側の戸を開け、お仏間に座って待っていてくださいます。そのおばあちゃんの口癖は、「つまらんようになりました」です。「こんにちは、お元気ですか」とお参りすると、「つまらんようになりました」と声が返ってきます。一緒にお仏壇にお参りをした後、お茶を入れようとして、ポットが上手に使えず、「つまらんようになりました」とつぶやかれます。お茶を飲みながら、世の中や家族の役に立つことは何もできなくなってしまったことを、「つまらんようになりました」と何度も言われるのです。しかし、卑屈になって言われているのではありません。満面の笑顔で「つまらんようになりました」と言われるのです。私にとってそのお姿は決してつまらないものではなく、むしろ尊い人生を歩まれているように思えます。どんなに体力を失っても、どんなに別れが多くても、どんなにできることが少なくなっても、その失っていく一つ一つを無駄にすることなく、人生の尊い仏縁といただかれ、仏前に座ってお礼を申しておられます。
 親鸞聖人はご自身が苦労してきたとは言われません。私が苦労し、努力し、賢くなって救われていくのではなく、阿弥陀さまという仏さまが私を救うためにご苦労してくださったお念仏の道をいただかれました。お念仏の道は、どのような陣sネイを歩もうとも、つまらない物や無駄なものは何一つなく、すべてが私を育ててくださる尊い仏縁となっていただけるところにお礼を申す人生があります。失っていく人生の中でいただいている仏縁をよろこび、お礼を申す人生を歩ませていただきましょう。

 

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