トップページへ

ご法話

<お念仏相続>

<<次の記事

>>前の記事

 

 

お念仏相続

光行寺住職 苅屋光影

 まもなく祖母の十三回忌を迎えます。大正生まれの祖母は、出征した住職に変わってお寺を守り、戦後、私のお寺に嫁いでからは、日曜学校や仏教婦人会を立ち上げました。また、病気で倒れた住職の祖父を支えながら、お寺の法務を行い、晩年にはご門徒のお宅でご門徒以外の方も触れ合える家庭法座を開き一生をかけてお念仏相続の人生を歩みました。
 祖父が病気になって、ご門徒の方々がお寺の状況を心配して、留守番や掃除、食事の世話をしてくださいました。ご門徒の方々の支えによって何とかお寺が守られてきたことを、祖母は私によく話しました。私にとって祖母との一番の思い出は、本堂で一緒におつとめをしたことです。いつもやさしい祖母でしたが、本堂にお参りすると厳しくなります。姿勢を正して本堂にお参りし、丁寧に勤行を終え、親鸞聖人、蓮如上人と順番に手を合わせ、最後に内陣の余間に座っていつもこの言葉を拝読していました。

人間悤々として衆務を営み、年命の日夜にさることをおぼえず。
灯の風中にありて滅すること期しがたきがごとし。
忙々たる六道定趣なし。
いまだ解脱して苦海を出づるを得ず。
いかんが安然として驚懼せざらん。
おのおの聞け。強健有力の時、自策自励して常住を求めよ。

(註釈版聖典七祖篇669ページ)

 善導大師の『往生礼讃』「日没讃 無常偈」のお言葉です。最初は全く分かりませんでしたが、毎日、後ろに座って聞いておりますと次第に覚えて一緒に読めるようになりました。なぜこの言葉を勤行の最後に読んでいたのかわかりませんが、祖母は自分の人生に重ねていたように思います。おつとめが終わるといつも私に「いつが別れになるかわからんよ」と言っていました。祖母の最後は本当に言っていた通り突然の別れでした。朝、いつも通りに梵鐘をつき、勤行をした後に、祖母の姿がありません。その後、時間が経って本堂の奥で横になって冷たくなっている所を発見されました。「灯の風中に滅して期かしたがごとし」の言葉のごとく、いのちの灯が儚く消えていくことを身をもって示し、大切なことは臨終ではなく、平生であることを私に教えてくれました。
 今、思い返すとつまらないことで悩んでいた学生時代、講義を聞いても浄土真宗のみ教えが理解できず、大学にもなじめずに私は悩んでいました。そんな時、祖母が一人で私に会いに来てくれたことがありました。一緒に六角堂や山科別院などにお参りし、本願寺の総会所(門法会館)で法話を聞きました。その時、はじめて法話を聞く場があることを教えてもらいました。
 祖母は若い頃、聴聞していた思い出を話してくれました。できれば私に聴聞してほしいという意味で連れて行って話してくれたのだと思います。その後、お話を聞くことなら自分にもできると一人で総会所を訪ねました。しかし、阿弥陀さまのお話を聞いても全く分からず、ノートにメモを取ることが精いっぱいでした。昼座、夜座と聴聞に通っていますと、お参りの方々と次第に仲よくなり、挨拶を交わすようになりました。お互いにどこから来ているのか、なぜ来ているのか、そんなことは全く関係なく、共にその日のご縁をよろこび、ただ聴聞されているのです。悩んでいる私にとって、心落ち着く居心地の良い安心できる場でした。
 そこで仲よくなった方々に誘われて、総会所だけでなく、六角堂(頂法寺)の前にある六角会館など、さまざまなご講師のお話を聴聞できる場を教えていただきました。当時、六角会館では月に一回、大峯顯先生がお話をされていました。先生は学生時代、西谷啓治先生から「自分が死んでいかなければならないことに一晩中眠れずに悩んだことはありますか?」と尋ねられた話をしてくださったことが印象に残っています。つまらないことで悩んでいる私に、悩むことが悪いのではなく、もっと大事な悩むべき問いのあることを教えてくださいました。
 「何のために生まれてきたのか」「広い宇宙の中で隕石と隕石がぶつかるくらいの確率で今ここに私がいる」──そのことに問いを持って聴聞することを何度も聞かせていただきました。どのように上手に生きていくかではなく、風前の灯である私のために阿弥陀さまがなぜご本願を建てられたのか、問いの大切さを教えていただき、私にとっての聴聞のはじまりとなりました。今思えば祖母は私のために京都に来て、聴聞のご縁を整えてくれたのではと思います。自分一人では敷居が高く聴聞の場に座ることはなかった私がみ教えを聞く身にお育ていただいていることをよろこび、これからも大切にお念仏相続していきたいと思います。

 

ご法話 目次へ

 

覚圓山 光行寺 トップページへ