猪子石城 


はじめに


津本陽氏は歴史小説『下天は夢か』で、桶狭間の決戦前夜、信長勢の動きとして、

「後方の竜泉寺城まで、中継点として岩作城、猪子石城に前野衆、蜂須賀党が少人数ながら詰めていた。
翌朝の今川勢の動静に応じ、彼らは奇兵として北方から今川本陣へ斬りこむのである」と具体的に書き、「猪子石城」を登場させた。

さらに「猪子石城」の存在は、昨今の「お城ブーム」でネット上でも氾濫し、さながら市民権を得たかの様な感があるが、その証拠を出して証明しようとすると、意外にむずかしい。

本当に存在したのだろうか?

『日本城郭体系 第9巻』(昭和54年発行)では、

「猪子石城」として「東西およそ90m、南北110mの平城で、・・・城址は、月心寺と神明社の境内になっている」と紹介されている。
ネット上にある数々の「猪子石城」の紹介文は、このような最近出版された本、 特に平成5年に出版された山田柾之著『愛知の城』(マイタウン)を参考にしている。

「猪子石城があって欲しい」と願いつつ資料を探したが、子孫の方が書かれた由来書はあるものの、客観的な資料を見つけ出すことができなかった。


『猪子石城主と菊田先生之碑』


菊田家頒布の『猪子石城主と菊田先生之碑』活字になった最初の物としては、菊田鉎盛(としもり)著『猪子石城主と菊田先生之碑』という小冊子が、昭和23年に自費出版された。

これは、鶴舞図書館に現物があり、閲覧できる。

これによると、「猪子石城」は、

「城主横地主水正源秀次の居城は、現在の愛知郡猪高村大字猪子石の中央、香流川の北の辺り(今の月心寺及氏神神明社の周辺)で、東西五十間、南北六十間の二重濠を構えた城郭であって、猪子石村を始め近郷を領し、その禄高二万五千石と云い伝えられている。

氏神神明社は、その後元和年間の建立と尾張志は誌している。

古書によれば、主水正はある日、家臣輿台の者を始め、年頃親しい者共を集めて一宴を張り、舞えや歌えやの宴酣(たけなわ)となったころよい
『この地は余が采地(さいち)である。
我が末裔は云うまでもなく、墾望の者には何人にもせよ余の横地氏を許す』と云って家臣にその姓を許した事があった」とある。

「禄高二万五千石」というと、小大名クラスであるが、猪子石村の石高は当時千石以下なので、「近郷を領し」たとしても、とても事実とは思えない。

この小冊子にのみ登場する文言である。

「氏神神明社は、その後元和年間の建立と尾張志は誌している」ともあるが、このような記述は、残念ながら『尾張志』にない。


「古書によれば」とあるのは、後で触れる『尾張古城志集記 附(つけたり)人物』と思われる。


 『猪高村誌』

この次の活字化として、昭和34年発行の『猪高村誌』がある。

実は『猪高村誌』は、この『猪子石城主と菊田先生之碑』の文章を検討もせず丸写ししている。

ここでは、「猪子石城」について、
「尾張古城志に依ると、猪子石城は東西六十間南北五十間二重堀にて城主源秀次は智仁勇の三徳備えたる良将也、以下略」とある。

『猪高村誌』と『猪子石城主と菊田先生之碑』では、六十間(108メートル)、五十間(90メートル)の数字の記述が東西、南北で逆さまになっている。

地図上ではあるが、現在の月心寺と神明社を合わせると、東西70間、南北50間ぐらいなので、ちょうどこの中にすっぽりと収まる。

別の言い方をすれば、東西60間が正しいということになる。

つまり、菊田鉎盛氏は、資料を写し間違えたことになる(『日本城郭体系』は、『猪子石城主と菊田先生之碑』を参考にしたと思われる)。

ついでに敷地面積でいうと、「猪子石城」は60間×50間=3000坪になるが、現在の月心寺は約2800坪、神明社は961坪である。

『猪高村誌』の最終章の資料編には、次のように書かれている。

「府志・侚行記・尾張志には、この城についての記事がない。
昭和二十三年版の『猪子石城主と菊田先生之碑』の菊田家頒布の小冊子・・・この資料の出所は不明であるが、横地主水正は此の地の豪族であり、武将である。
この人に城屋敷がある事は不思議でもないが、記録にでないのはどういうわけか」 。          

つまり、一方で「猪子石城」は「尾張古城志にある」と言い、他方では「記録にでない」と矛盾した書き方をしている。

ここで『尾張古城志』について触れておくと、これは天野信景(さだかげ/1661~1733年)という尾張藩士によって記されたものである。

この『尾張古城志』『尾張古城志補遺』を鶴舞図書館で確認したが、「猪子石城跡」の記載はなかった。

「植田城跡、嶋田城跡、梅森城跡、赤池城跡、平針城跡、浅田城跡、岩崎城跡、高鍼(たかばり)城跡、下社城跡、上社城跡、長久手城跡、岩作城跡」等々詳しく載っているにもかかわらずである。

二重堀の城であったのなら、1708年頃に成立した、これらの書物に何故記載がないのか?

博覧強記の天野信景(本来は、「のぶかげ」であるが、将軍「家宣=いえのぶ/1662~1712年」に対する遠慮)が書き漏らしたのだろうか?

高針城址「古谷前の高台」遺漏(いろう)の可能性もあるが、例えば高針城の規模(1400坪)は、「猪子石城」の半分しかない。

『猪高村誌』によると、高針城は、

「古谷前の高台(東西四十間、南北三十五間)が、それであると考えられる。
村人は今も城の藪とよんでおり、幅三間深さ二間程の空濠が竹叢(たけむら)となって残っている」とある。

この数字は、城址とされる「古谷前の高台」を見た『猪高村誌』が記述(数字自体は大正7年版『猪高村誌』からの転記)しているのであって、『尾張古城志』には、「加藤勘助(勘三郎)居城之跡也」としか書かれていない。

ついでなので、城の大きさ比べをすると、「猪子石城(3000坪)」は、岩崎城(8500坪)/末森城(8000坪)には及ぶべくもないが、あの鳴海城(1840坪)/沓掛城(1364坪)/荒子城(1064坪)を凌(しの)ぐ、当時としてはかなり大きな城であったといえる。

それでは『猪子石城主と菊田先生之碑』の資料の出所を推理してみよう。           


『尾張古城志集記 附人物』

土岐市曾木町にある「猪子石城主」横地秀次の子孫宅に、原稿用紙3枚半に及ぶ以下の様な文書(昭和31年に写されたもの)があった。


  『尾張古城志集記 附人物』    猪子石村城址     横地主水正秀次

村の中央より北編、香流川の辺甘藍田(かんらんだ)と云う所あり。

今是を八反田(はったんだ)と呼習(よびならわす)。中葉まで塹壘(ざんるい)の跡あり。

東西六十間、南北五十間、二重濠。横地主水正秀次貫住の城址なり。

此城主は面首智仁勇の三徳備えたる良将にて鈐韜(けんとう)𨗉(ふか)き武士なり。

是迄干戈(かんか)を動かし、勲厝(くんさく)枚挙すべからず。

統馭(とうぎょ)を専一となし、皆棲せし将帥なり。

尚是行にも意如に四方八面掛破り掛通り、放縦に追立撞伏(つきふせ)、切いたさんと義を励んで勝算する意趣なり。     

・・・中略・・・本館へ帰還の思食(ししょく)相起り袴を着、刀を携えて「扨(さて)今日は何れも薄供朴素(ぼくそ)の款待(かんたい)なり。

近日にもう一度緑酒(りょくしゅ)鮮羞(せんしゅう)を設け、終日遊宴を催し、逸楽敷嬉(しきき)すべし。

時に、此地は予が永き采邑(さいゆう)也。故に末裔は言うも更也。

冀望(きぼう)の有は永世横地氏を名乗るべき事、許可致すべし。

其事、家道(かどう)苗緒びょうしょ)昌盛(しょうせい)なる事、疑い有べからず。

我槍先には、如何なる魔道鬼神なりと云うもたまるまじ。

兎にも角、敵を討捕る事檀(だん)にせん」とあれば、一同に「御前(ごぜん)忽(たちま)ち御勝利」と聲言(せいげん)す。

弥軍の機を励み、兵を勒(ろく)し備えつく。

・・・中略・・・険隘をつき山路を踰(こ)え、美濃国に到る。

山腹に夢を結び、曙に徹し、曾木村に間行(かんこう)し、反覆(はんぷく)審察(しんさつ)するに荒僻(こうへき)なり。

然(しか)し匿道(かくれみち)もある要扼(ようやく)の地と検出したり。

竊(ひそか)に此処に隠甯(いんねい)すれども衷情(ちゅうじょう)與(あとう)、誰而(たれか)語らん。

・・・中略・・・謄財(とうざい)を以って田畝(でんぽ)を募るを嘉献(かけん)なりとて山間に開墾し、万世不抜の永続志嚮(しきょう)を立て甘心(かんしん)沈着し、寄致(きち)坌涌(ふんよう)雅趣なりとて深沈(しんちん)して徽號(きごう)を改め、横地紋之介と改称し、嘉豚(かとん)逸楽して徳を好み、邑(ゆう)に交歓して安使(あんし)せり。

然し、土は懐(なつ)けり。在住し以還(いかん)本貫地へ敢て帰館なく、廃城に及べり。

此故に武名の聲績(せいせき)聞えも薄(うすれ)り、群籍(ぐんせき)に洩(も)れ古書に少なければ、後世知る人稀(まれ)なり。

此に大綱を著す。其旧址(きゅうし)、今は田稼と旧䂓掃地なり。

爾後(じご)諮詢(しじゅん)するに、今も猶其道統(どうとう)連綿たり。

元和二丑年。佳城(かじょう)猪子石村城主横地紋之介秀次、神儀法名徳布令方大居士儀霊。

今この後胤家(こういんけ)皆富饒(ふじょう)の豪族となり班田(はんでん)し、また開墾して数多(あまた)分家を設け、修拓(しゅうたく)発達栄昌(えいしょう)せる名族なり。

この猪子石村にも横地の謂裔(いえい)頗(すこぶ)る蕃行(ばんこう)せり。

人之(の)家系欣羨(きんせん)たるなり。 (引用終わり)  ※ ( )内は筆者による

文末に、明治初年までの系図(「附人物」)が書かれているので、明治時代の書(この作者は、菊田鉎盛氏の祖父で漢籍自在の香流小学校教師であった菊田縫之丞氏であろうと推測する)である。

「掛破り掛通り、放縦に追立撞伏」「魔道鬼神なりと云うもたまるまじ」「弥軍の機を励み」等、『信長公記』とよく似た文言が出てくる。

『猪高村誌』が、『尾張古城志』に「猪子石城」があるというのは、『尾張古城志集記 附人物』(ここから「集記 附人物」の文字を故意に削除した『猪高村誌』は、この文書の存在を抹殺したことになる)のことで、天野信景の『尾張古城志』のことではない。

読者をあえて
誤解に導かんとする文章は、「猪子石城があって欲しい」という願望によるものである。


 「猪子石城」の呼称は昭和になってから

「猪子石城」という言葉が独立して登場するのは、現『猪高村誌』(昭和34年版/昭和54年復刻版)が最初である。

大正7年版の『猪高村誌』には「猪子石城」の記載はないが、「痔塚」の説明の中で、「此ハ郷領横地主水守ノ城跡ニシテ同守ノ邸宅ニアリシ鎮守守護神ナリト謂ヘリ」と記載されている。                          

『尾張古城志集記 附人物』では、「猪子石村城址」「猪子石村城主」と表記されている。

すなわち「猪子石城」という名称は『猪子石城主と菊田先生之碑』で誕生し、『猪高村誌』によってこの世に送り出された、昭和になってからのネーミングであると言える。

さて、『猪子石城主と菊田先生之碑』を自費出版した菊田家については、今や猪子石で知る人もほとんどいない。

明治初年までは、横地秀次の流れを汲(く)む横地姓であった(曾木横地本家からの分家で、猪子石に舞い戻った)。

明治初年の「神仏判然令」でやむなく、修験道を捨てて神官になり、横地姓から菊田姓に改姓し、大正年間に、再び猪子石の地を離れた。

菊田家や曾木横地本家では、代々「我々のご先祖は猪子石の城主であった」と、誇りに思って語り継がれてきたことは想像にかたくない。

子孫の方や菊田鉎盛氏が、先祖を顕彰するのは当然の行為である。

しかし、『猪高村誌』が丸ごと転載するに際しては、その辺の事情を説明すべきであった。

そもそも、「東西60間、南北50間」の資料はどこから持ち出されたのだろうか?

大胆に推理すれば、これはどこかにあった資料ではなく、「月心寺、神明社のあたりに先祖の城があった筈。だとしたら、これくらいだろう」として、実測して割り出したのではないだろうか。


現在の月心寺の駐車場は、かつて竹内家(新聞店)の所有であり、明治初期頃は今より少し狭く、「東西60間、南北50間」であったと思われる。

そして、「二重濠」とあるが、この「濠」は、水堀を意味する。

香流川より高い場所に、どうやって水堀を造ったのだろうか?

水堀にせよ空堀にせよ、なぜ遺構すら残っていないのか?

※「区画整理によって、堀跡が埋められた」との伝承はないが、古老によると神明社北に「溜め池」があったという。

「甘藍(かんらん)田」「八反田」という字名(明治6年の地租改正を機に通称地名を字名とした)に触れる。

八反田(一反は300坪)の前にあったとされる字名甘藍田の由来は、言い伝えがないので広辞苑を引くと、①葉牡丹の別称②キャベツとある。

キャベツの本格栽培は、明治になってからなので、ここは葉牡丹の意味であろう。

冬に咲く花として、人気を集めた。

如来道(にょらいどう)という字名が、月心寺の前身蔵福寺があったことを示すように、もし城があったのなら「八反田」ではなく「城田」と名付けられてしかるべきではなかろうか。

つまり、戦国時代の猪子石の村人に、「館」か「屋敷」の認識はあっても「お城」という認識はなかったのである。

ただ、「猪子石城」が焼け落ち、神明社ができるのは元和八年(1622)年頃で、40年程後のことである。

月心寺が現在地に移転したのは、寛文二年(1662)で、更に40年が過ぎる。

『尾張古城志』が成立した1708年頃には、「城跡は消えていた」と言えなくもない。


『香流川物語』

この後の昭和52年、小林元先生の『香流川物語』が自費出版される。

ここにも「猪子石城」が登場し、「植田城主・横地秀重の弟秀次が、どのようないきさつかはわかりませんが、織田家の家臣としてはじめて猪子石城に拠ってこの地を支配しました」とある。

この『猪高村誌』と『香流川物語』の影響力は多大なものがあり、かくて「猪子石城」の名は定まったかのように思える。


 『名東区の歴史』

平成18年、伊藤正甫先生の『名東区の歴史』が出版された(「猪子石城主・横地主水正」について詳しく書かれているので是非参照してもらいたい)。

同書によると、横地主水正秀次は、

 「信雄によって二百九十貫を頂戴し安堵されていた。

  (注)信雄分限帳によると(猪子石分のみ)

    二00貫   いのこし  政秀寺

    二00貫   いのこし  白坂寺

    二00貫   いのこし  天王坊

    二九0貫中九0貫   いのこし  横地主水

  他に(主水は落合に二00貫をもっている)  余り大きな給地武士ではない」とある。

※鶴舞図書館蔵の『織田信雄卿分限帳』によると、天王坊の給地は「百貫」となっているので、「二00貫 天王坊」は誤り。

 ※尾張国寺社領文書「織田信雄奉行人連署奉書写」に、

 「 為坊領猪子石之内を以百貫被仰下候、猶日記明上御判可被下旨被仰出候、以上

     天正十一年九月十日       曾我兵庫頭 / 矢部甚兵衛 / 松庵

       那古屋  天王坊 」 とある。

この『織田信雄卿分限帳』の成立時期は、小牧・長久手の戦いの前後「天正11~14年(1583~1586)」頃と推定されている。

政秀寺(せいしゅうじ)は、信長が平手政秀を弔った寺。

白坂寺は瀬戸の赤津雲興寺のことで、寺名が先か地名が先かは知らないが、現住所は瀬戸市白坂(しらさか)町である。

天王坊は、現在の那古野(なごや)神社と思われる。

那古野神社(名古屋市中区丸の内)は、
明治維新の際に須佐之男(すさのお)社、明治9年に現在地に移り、明治32年から現名称となったがそれまでは天王社と呼ばれていた。

ここに神宮寺として、今はなき天王坊があった。

「横地主水」は、横地秀次と見て良いと思う。

彼は「横地主水正」と自称(『名東区の歴史』による)していたし、他に「横地主水」を名乗る人物が存在しないからである。

「落合」とは、春日井の落合であろう。猪子石での知行は90貫で、落合を含めても290貫である。

時代や地方によって価値は変わるので、貫を石高に換算するのは難しいが、1貫は1000匁(もんめ)で2石程度とみてよい。

津本陽氏は『下天は夢か』で、「1貫は10石以上」としているが、江戸時代後期成立の『尾張侚行記(じゅんこうき)』(樋口好古著)での猪子石村の石高が1188石、それより200年以上前の時代であるから、1貫=2石で計算すれば十分である。

横地秀次は「落合」も含めて、計算上(あくまでイメージをつかむ為の便宜的なものであるが)580石に満たない石高にすぎず、これで城持ちになれるのだろうかという疑問がわく。

この程度の給地武士は、『織田信雄卿分限帳』に数多い。

猪高中学校の社会科の先生だった伊藤正甫氏が触れなかった問題に言及すると、ここで重要なことは、猪子石は政秀寺・白坂寺・天王坊の「寺社領」となっていたということである。

この時代の寺社は、今のイメージとは程遠く、武装勢力であった。

猪子石村は、横地秀次ではなく、寺社によって支配されていたとも言える。

横地主水正秀次は、『名東区の歴史』で、

「織田信雄から給地をもらいながら、主筋を裏切って秀吉側についた」とされているが、長久手の戦いで「池田恒興の道案内をした」と伝わるように、
家康・織田信雄か秀吉か、直前までどちらに付くか迷っていた恒興の判断に従ったのであろう。

名古屋市博物館は、『甚目寺観音展』で、

「本能寺の変後に尾張国の領主となった信雄(信長の次男)は、天正11年秋、尾張国内で検地を実施し、その結果に基づき家臣や寺社に領地を与えた。
多くの寺社は、境内から遠くの領地を与えられた(以下略)」と、甚目寺宛の「織田信雄判物」を説明している。

そうであるなら、横地秀次は猪子石村全村を支配できないことに不満を抱いていたのかもしれない。

もし、「猪子石城」があったとするなら、それは領主の城ではなく、反対に村人が領主に対抗する為の駆け込み寺ならぬ「駆け込み村城」のようなものであったのかもしれない。

しかし長久手の戦いの時、村人は大石山に逃れて夜が明けた。

これが為に「明け坂(現赤坂)」という地名ができた由来があるので、「村城」の証拠はない。

「砦」か「付城(つけじろ)」であったとする説もある。

そうすると「何に対して」という疑問に答えねばならないであろう。

『下天は夢か』の種本『武功夜話』(江南市の旧家の土蔵が伊勢湾台風で倒壊し、そこから出てきた前野家の家伝史料)には、砦として猪子石の名が出てくる。

今川義元を迎え撃つ為に砦が築かれ、その後、横地秀次が砦跡に城(屋敷)を構えた」、あるいは「横地秀次の屋敷を、対今川の砦として使用した」という仮説を立てることは可能である。

さて、横地氏発祥の地は、静岡県小笠原郡菊川町である。かつてここに横地城があった。

大きな山城で、今でも数々の遺構が残っている。1476年、今川義忠(義元の祖父)の城攻めによって落城したとされる。

諸説あり(菊川町で、昭和61年に発行された『横地村誌』にも肝心の落城時期が、1476年と1506年頃との2説あり、特定されていない)複雑であるので乱暴に述べると、この落ち武者集団の頭目・横地秀綱(おそらく傍系の子孫か重役)が、天白植田にやって来て城を構える(ただし、植田城の築城は1471年で、横地城落城前とされている)

時代が下って、横地主水正秀次(おそらく5代目植田城主・横地秀政の弟)は、植田城の分家として、猪子石に屋敷を構えた。

 ※植田城主横地秀綱は、遠州(静岡菊川)横地城主の直系ではない(系図にない)。

遠州横地が天白植田に横地の分家があったという「事実」に気づいたのは、今から30年ほど前のことである。

横地秀綱の存在を知らなかった遠州横地と、「秀綱や秀次を横地城城主の末裔」と担(かつ)ぎたい名古屋横地の記述には大きな隔(へだ)たり、ないし混乱がみられる。


 『猪高村誌』の疑問点

『猪高村誌』が、「横地主水正秀次」について書いた項目は、不可解といわざるをえない。

本文では、「横地主水正秀次」となっているが、「横地秀種之碑(月心寺保有)」の写真は「横地主水正秀種」となっている。

これは、現在も月心寺位牌堂で見ることができるので、確認したところ「主水正秀種(地塚神社)」とあった。

しかし、ここには重大なミスがある。

秀次の自称官名である「主水正」と、秀次にとって甥にあたる秀種とをくっつけているのである。  

この項後半の、『尾張志』も正しく引用されていない。

『猪高村誌』は、

「・・・越後守秀重その子小左エ門秀房其弟秀種など・・・秀重は天亀(ママ)二年九月十一日姉川合戦に戦死、姉川院名誉道念居士・・・」(注・・・長種院弓岩道節居士全久寺過去帳に院号は無く後増院号而月心寺に位牌在、秀行は長久手にて戦死、長行院鉄山宗心居士と全久寺の古位牌に見へたり。) と『尾張志』を引用している。

ところが、『尾張志』では、

「越後守秀重その子小左エ門秀房其弟吉蔵秀種其弟新三郎秀行など・・・秀重は文禄二年癸巳九月十一日亡て姉川院名誉道念居士・・・秀種秀行二人は天正十二年四月八日愛智郡長久手に戦死して長種院弓岩道節居士長行院鉄山宗心居士というよし同村全久寺の古位牌に見えたり」となっている。

※吉蔵秀種から、「主水正秀種」との整合性をもたせるため「吉蔵」が省かれ、「姉川院」の戒名に惑わされて、「文禄二年」が「元亀二年」になり、同時に不都合な干支の「癸巳(みずのとみ)」が抜かれている。

そもそも姉川の合戦は元亀元年(1570)であり、姉川の合戦で戦死したのは、秀次の兄秀政と思われる。

もし、『尾張志』が間違っていて訂正したのなら、その旨述べるべきである。                             

※近年出版の『名東区の歴史』では、「秀種の父は秀政(5代)、秀重は祖父(4代)」としており、「秀重の子秀種」とする『尾張志』の記述と異なっている。

痔塚神社横地秀種は、小牧・長久手の戦いで徳川側に付き、「猪子石城」近くの香流川の辺で戦死している。

彼は、敵味方になる前、叔父秀次を訪ねて、何度かこの地を訪れている筈だから、土地勘はあったであろう。

彼を祀った「横地塚」が、縮まって「地塚」、そして「痔塚神社」になったとの言い伝えがある。

秀次の兄秀政は横地秀綱(1475年没)から数えて5代目らしい(系図がある訳でなく、計算上の話)ので、「猪子石城」の成立は、計算上1550年以降(桶狭間の戦いは、1560年)のことと推測される。

「猪子石城」は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの時、秀吉側についた為に徳川軍によって焼かれるので、長くても30年間(あくまで計算上でのこと)の寿命であったと思われる。


 曾木横地本家

  中央の墓石が「城主」横地秀次のもの  入身堂(いりみどう)
           

曾木村に落ち延びた横地秀次は、農業を生業とした。

曾木横地本家には先祖代々の墓石が多数あり、横地秀次を祀(まつ)った入身堂(いりみどう)がある。

城主かどうかはともかく、豪族または知行を安堵(あんど)された給地武士で、猪子石村八反田に屋敷を持っていたことは間違いないと思われる。


おわりに

「猪子石城」を、我々が抱く「お城」というイメージで考えると誤解をまねく。

武将の館、あるいは豪族屋敷と表現したほうが当たっていると思う。

跡地とされる月心寺・神明社には城の遺構がなく、曾木横地本家にも「猪子石城」の存在を示す古文書(火災により焼失)の類がある訳ではない。

もちろん資料がないからといって、「猪子石城はなかった」と断定することは出来ないし、戦国時代の城は館に毛のはえた(館は「広義の城」であり、鉄砲狭間・矢狭間・堀・石垣等の防御施設があれば「狭義の城」になる)ようなものが多く、その線引きは微妙である。

いくさになれば、館が城の役目をして、その為に焼かれたのだろうと推測できる。

例えは適当でないが、厩戸王(うまやどおう)が没後100年たって後に、「聖徳太子」として聖人化されたように、「猪子石城」は後世の人間によって脚色され、秀次屋敷を「お城」と呼んでいるという域を出ない

「猪子石城はなかった」と述べているのではない。

実体(屋敷か城かは別にして)はあったが、「猪子石城」の呼称は昭和になってから
というのが結論である。




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