行者堂




 行者堂  名東区香流2丁目(香流小学校と中島橋の中間付近、「香流消防団」の小屋の南隣)にある。

  左から行者堂/菊田先生の碑/和行霊神  行者堂内の役行者 


「修験道」とは、山へ籠(こ)もって厳しい修行を行う事により、様々な「験(しるし)」を得る事を目的とした神仏が融合した宗教で、山を神として敬う日本古来の山岳信仰と神道・仏教・道教・陰陽道(おんみょうどう)などが習合して奈良時代に成立した日本独特の宗教である。

開祖は役小角(えんのおづぬ)だが、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれることが多い。

修験道の実践者を修験者または山伏というが、親しみをこめて「法印さん」とも呼ぶこともある。

修験道は、明治五年に太政官名で「廃止」を命じられ、この時点で十七万人を数えた修験先達(せんだつ)は激減し、太平洋戦争終了時まで、宗教法制上は非公認となった。

山岳信仰は、江戸末期まで神仏習合の形態を取ってきたが、明治新政府による「神仏分離令」により禁止されて以後、寺と神社が分けられ、信仰の本体の多くは神社の形態を取って存することになった。

では、猪子石では修験道はどのようにして受け継がれてきたのだろうか。

『猪高村誌』に以下のような菊田先生についての記述がある。

《菊田家は元横地氏を称していた。

・・・ 菊田家は代々長命で、初代横地基家・二代良宗は猪子石郷士として漢学の師匠をして三代嘉善に至り、両部(りょうぶ)神道である修験道を志し、山城国真言宗修験道醍醐三宝院に入門、名を徳浄と改めた。

後山城国鞍馬山・大和国大峯山に修行、神性呪術(じゅじゅつ)を極(きわ)めて下山、権大僧都となり、宝暦(ほうれき)十一年猪子石村に田中山寿宝院と号する修験道を開き、初代住職となった。

翌年猪子石村中央香流川の橋の南に、ささやかな行者堂を建て、七月入峯の修業者を堂前に集めて祈祷のうえ大峯山に発足した。

その神道普及の傍(かたわ)ら手習所を開き、漢学・国学等を同村始め広く近郷の児童に教え、子弟訓育に尽すところが多かった。

之(こ)れが為、村人から大変敬慕せられたという。   

五代菊田縫之丞(ぬいのじょう)は横地栄善の三男で、天保五年七月二日猪子石村字中島に生れた。

・・・中略・・・後世は王政復古となり、御維新となるや復帰を命ぜられ、神仏混淆(こんこう)の両部神道である田中寿宝院は神仏何(いず)れか一方に改める事となったので、叔父の二宮越前守玉直の指示を受けて、唯一神道を伝授せられ、熱田神宮の神官菊田家の後を享(う)けて禰宜(ねぎ)となり、茲(ここ)に姓を菊田と改め和示良(かにら)神社及び浅間神社等に奉仕した。

・・・中略・・・明治五年八月三日学制が布(し)かれると共に、先祖より永く手習所としていた中島の屋敷は、茲に香流学校と改められることとなり、縫之丞は同校最初の教師となり、十六歳から七十一歳まで、五十六年の久しきに亘(わた)って、教育に尽瘁(じんすい)した。

そして其の功績は村民のひとしく認める所であったが、大正三年五月一日縫之丞八十一歳の時、猪子石村有志に依って香流川の南、行者堂のほとりに、根府川石(ねぶかわいし)を以て記念碑(菊田先生之碑)が建立せられ、香流の流れと共に芳名は永遠にこの地に止められることとなった。》   (引用終わり)          

医療や科学が発達していない時代にあって、民衆は悪魔ばらいを旨とする呪術に依存してきた。

個人的不安を取り除いたり、雨乞いをする呪術は、日本中どこでも見られる。

薬草に精通し、民間療法の専門家でもある山伏を受け入れる素地はどこにでもあったといえる。

猪子石の修験道の歴史は、『猪高村誌』に、

「戦国時代の武田家の武将大隅守末流、修験者原白蓮院流光は若くして都に上り、修験者となってから、名古屋に来り住した。当時神社仏閣境内には修験者が奉職する習いであったので、彼は修験者としての教育を受けた」ともあるように、連綿と続いてきた。

棒の手を、猪子石近辺の村々に教え広めたのは修験者達であると言われている。

修験道に触れずに、猪子石村の歴史を語ることはできない。

宝暦12年は、1762年であり、およそ250年も前に行者堂は、菊田家(その頃は横地姓)によって建てられたことになる。

内部には、頭に長頭巾(ながときん)を被り、両肩を藤衣でおおい、台座に腰をかけ、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に経巻を持ち、素足に高下駄を履いた役行者像が奉祀(ほうし)されている。


藤森の役行者像(了玄院)  西一社の役行者像(貴船神社)  上社の役行者像(観音寺)
  

行者堂は西一社でも、宝暦11年(役行者石像に「宝暦十一年辛巳十一月」の銘がある)の同時期に建てられている。

藤森と上社の行者堂が建てられた年月は不明であるが、ほぼ同時期ではないかと推測される。

役行者像の容姿は違えども、修験道が猪子石村だけでなく、近隣の村々(名古屋近辺の寺社でも、よく見かける)までブームになっていたと思われる。

猪子石村では昭和10年頃まで、村の掟として大峰山(奈良の吉野山から和歌山の熊野まで、約50キロにわたって連なる山系の総称)参りが続いたのは、菊田先生に対する尊崇の念と菊田先生に師事した大先達柴田和蔵(わぞう)氏の功績によるものである。     

猪子石村には、修験道の長い歴史があり、修験道に暖かい目を持っていたが、昭和11年には二.二六事件、昭和12年には芦溝橋(ろこうきょう)事件が起こっているので、大峰山参りどころではなくなったと思われる。   

しかし現在にいたるも行者堂前で、大峰山の「山開き」「山閉じ」に呼応して、毎年5月第一日曜日と9月第一日曜日に、宮司さんの祝詞(のりと)と、氏子総代による般若心経の読経という、貴重な神仏習合の行事が続けられており、興味深い。            


猪子石村古老の大峰山参拝記 (昭和8年)  その1  ( 高木文雄 文 )

昔、行者講(尾張光明)といって、積立金をして、吉野の大峯山に参拝した。

その頃は、高野山から大峰山の参拝をし、帰りには伊勢参りをした。

何日もかけて行ったが、学校から京都・奈良・伊勢に行く様になったので、行者参りだけになった。

私達が、昭和8年に参拝した時は、先達は新屋敷の横地鋭治さんで、高馬の高木兼松さん(吉野に酒樽を注文しに行っていた)他、新客(しんきゃく/はじめての修行参加者のこと)は5名であった。

初日は長谷寺で宿り、2日目は吉野だった。

宿は昔からの尾張光明講の宿坊で、着いてすぐ近くに第1の行場があるので、衣類を預け、5月とはいえ冷たい吉野川で水ごりをとった。

大峰山の最初の鳥居が行場である故、フンドシ一本の裸姿で観光客の前で、先達に教えられた様に、「吉野なる 金の鳥居に手をかけて 廻れ廻れよ旅の新客」と言って、3回廻った。

この日の夜は、宿で精進料理を頂き、静かに休んだ。                     

次の朝は、暗い中に宿を出て、白装束に襷(たすき)がけ、わらじばき、金剛杖で暗い山道を、先達の後について「懺悔(サンゲ)、懺悔、六根清浄、お峯に八大金剛童子、峯は役の大行者」と、唱えながら登った。

行場は、かくれ堂で真暗な小さなお堂の中に入り、「吉野なる みやまの奥のかくれ堂 廻れ廻れよ旅の新客」と唱えた。

唱え終わると同時に、鐘がジャンジャンジャンとなったのでビックリした。

この行場から先は、山先達と云って、大峯山の新客専門に行を教える人になり、厳しい教え方であった。

次の行場は、お亀石と云う行場で、「お亀石 踏むなたたくな杖つくな よけて通れよ旅の新客」と3回唱えて廻った。

その次はお鐘掛(かねかけ)と云って、切り立った岩場で所々に鎖があり、足場がゆるく足を踏み違えない様に、鎖に手をかけて登るのである。

この行場を終わると、今度は有名な覗(のぞ)きの行場である。

切り立った岩の上から、体に綱をつけて、「下の方の岩場に祀(まつ)られてある神様を参拝せよ」と云って、腹のへん迄押し出して、「参拝は出来たか。親には孝行せよ。君には忠義をつくせ」と言って、返事が小さいと、また臍(へそ)のあたりまで押し出して、大きな返事が出る迄やめてくれなかった。

一切の行場を終わると、夜の宿場は洞川(どろかわ)で、何もない山の中であるが、厳しい行の後の酒や女中のもてなしが楽しみであった。

お砂踏み石帰りは猪子石村の宮根まで出迎えがあり、大勢の人が道に並んでいて、迎えてくれる人をまたいで行者堂まで行き、無事の参拝を報告して、解散した。

家では「御数(おかず)」と云って、団子に親指で穴をつけたのを作り、菅笠の中に入れて、後手に両手でつかみ、その数だけ「これからも参拝が出来る」と言ったものだ。

行者様のお札と、江戸絵と云って吉野付近の浮世絵と、「御数」の団子等を参拝の土産(みやげ)物として、出かけにワラジ銭をもらった家や友達に配って廻った。



※左の写真は、「お砂踏み石」。行者参りで大峰山から持ち帰った砂をこの石の上に撒き、みんなで踏んで無病息災を願ったという。









 猪子石村古老の大峰山参拝記 (大正10年)  その2  ( 猪子国雄 文 )


古来より村の風習として、男は一度は大峰山に参拝して修行することが必要であると言われ、大峰山参りが毎年実行されてきた

初参り客のことを新客といい、大正10年5月中旬、先達の案内で我々は大峯山に参拝することになった。

参拝者一同は、出発前日に神明社前に集合して、香流川の清浄な水で斎戒沐浴(さいかいもくよく)した。

翌早朝、白襷をかけて金剛杖を片手に、草履ばきの軽装で菅笠を被(かぶ)り、行者堂の前に集合し、道中安全を祈願して出発の途についた。

先達に導かれ、宮根山を経て吉野口まで乗り物を利用し、吉野山に登った。

吉野神宮の第一鳥居迄来ると、先達の指図でその鳥居に手をかけて、「吉野なる 鉄の鳥居に手をかけて 廻れ廻れ 旅の新客」と声高らかに唱和しながら廻り始めた。

あたりの観光客が一斉に目を向けて、旅姿の我々一行が鳥居を3回廻るまで珍しそうに見ていた。

歩を進めて宿の竹林院に着き、その晩は早く床に就いた。

翌朝は3時に起き、冷え切った泉水を頭から桶で4〜5杯かぶると体が震えた。

次第に体が温まると、一同朝食を戴き、しっかりと身を整えて出発した。

いよいよこれからは神の山である。

途中不浄ある場合は、合掌の上懐紙(かいし)を取り出して地面に敷き、その上に用を足す。

決してお山を汚してはならない。

先達の音頭で、「さんげ、さんげ、六根清浄、お山に八大金剛童子」と唱えながら、大和の吉野連山の尾根伝いに行く。

若葉の新緑が映(は)え、何とも言えない風景に「六根清浄」の声がこだまする。

大峰山に近づくと表参道裏参道より白装束姿の参拝客が続々と登ってくるのが、晒(さら)しを引いた様に白い筋となって見えた。

第一行場の鐘掛け石のふもとに着くと、新しい草鞋に履き替えた。

足下には先客の捨てた古草履が山となっている。この草履坂を登り、鐘掛け石へ赴(おもむ)く。

先導修験者と我々の先達4〜5人が、般若心経を唱えて見守っておられる中、仰ぐような巨岩にへばりつく様に恐る恐る足を踏み出す。

途中の危険な所には鎖があり、それに命を託す。

南無阿弥陀仏と思わず唱え、一歩踏み外したら終わりの巨岩の頂上に達し、下を見ると足の裏がゾクゾクする。

第二行場は、「覗(のぞ)き」である。

千仞(せんじん)の谷に覆いかぶさる様に突きだした岩の先端に腹這いとなり、谷底に祀ってある菩薩を拝むのである。

山伏が岩の先端に腰かけ、我々の襷にかけた鎖をしっかりと掴(つか)んでいてくれる。

泳ぎ出す様に拝むのだが、恐ろしくてなかなか拝めない。

山伏が「どうだ拝めたか、まだか」と言って、我々の体を突き落とす様に泳がせるので、拝めなくとも「拝めた、拝めた」と言ってしまう。

この行場から谷底に転落したら、三年経たねば吉野川に流れ出ないと言われている。

人正しき行いをなしていれば何も怖れることはないと思った覗きの行であった。

第三の行場、「蟻の門渡(とわた)り」で最後の行となる。

屏風(びようぶ)の様に切り立った巨壁、その下は千仞の谷で先端が枯れかかった老木が霧もやでかすかに見えるだけ。

巨壁に縋(すが)りついて、身の毛がよだつ思いで向こう側に渡った。

この難行を無事に終えると一人前になる。

奥之院の菩薩の前で手を合わせた時、あまりの嬉しさで、肩の凝りも色々な不安も消え去り、体がすっと軽くなった。

お互い手を取り合って喜んだ。

大峰山を降りることになり、金剛杖を頼りに滑る様に下山した。

川に沿って街道を下ると、洞川というちょっとした町並みに出た。

ここで二日目の宿を取ることになり、湯船につかって疲れをほぐした。

旅館は規模が大きく、一階はカフェーを営んでいた。

この町の若い衆の唯一の歓楽場となっており、夜には甘い蜜を求めて集まってくる。

今晩の客は我々だけだったので、カフェー付きの女中さんも二階に上がって大サービスしてくれた。       

女中さんはアルバイトではなく本物のサービス嬢であり、客の接待はいたれりつくせりであった。

誰が聞いても本当だと思うような、その人物に相応(ふさわ)しいニックネームを使っての酒宴で、例えば色の白い優男(やさおとこ)は男爵、声の切れ味が良い弁舌達者は弁護士、金回りが良さそうな者は収入役、威厳のある者は村役場の助役といった具合。

女中連は本当に信じたのか、階下の若い衆を無視しての奉仕で、鼻の穴をあけられた土地の若い衆は、捨て台詞(ぜりふ)を吐いて出て行った。

三日目は高野山の参拝で、表まで見送りに出て来た女中連の振る手に、後ろ髪を引かれながら宿を出た。

我々一行が高野山の急坂を登っていると、その横をお客の後ろを押しながら過ぎていく者がいる。

その名、「高野山の尻押し」と呼ぶ。

頂上までお客を送り届けた連中が「お客さん、どうですか」と近寄ってくるので賃金を聞くと、「頂上まで一回50銭」と言う。

しかし、「我々は遊山客ではない。修行である」と断って、更に登る。

途中の苅萱(かるかや)堂を拝むと、石童丸の物語を思い出した。

修行の厳しさの前には父子の名乗りも出来ずに別れた悲劇の親子だ。

頂上の高野山巡拝をすますと、宿坊に泊まった。

四日目は、高野山を経て岡寺に参拝する。

裏山の急坂から多武峰の談山(たんざん)神社を参拝し、広くゆるやかな表参道を降り、長谷寺に向かう。

長谷の町に着く頃は黄昏(たそがれ)時で、紅燈が門前を赤々と照らしている。

両側には大小の旅館が建ち並び、各旅館の女中連が総出で我々を引っ張る。

激しい客引き風景は宿場街ならではで、その中を逃げる様にして長谷寺に参拝する。

長谷寺の廊下の両側に咲き誇る牡丹も、薄暗く充分に鑑賞出来なかった。

それより、早く旅宿に入りたい一念で、元来た道を戻って門前町中程で宿ることになった。

五日目は奈良から、「本日午後下向(げこう)する」と電報を打つ。

知らせを受けた家族・親戚は、弁当・酒を用意して覚王山の山門まで出迎える。

我々一行が無事帰ると、軽く酒盛りをした。

先達を先頭に整然と隊列を作り、声高らかに「さんげ、さんげ、六根清浄、お山に八大金剛童子」と唱えながら、宮根山まで来ると村の人が登って来て待っている。

我等は更に一段と声を張り上げ、村里に降りる。

先達の御足で跨(また)いでもらうと無病息災と言われており、村人が腹這いになって待機している。

先達は順序よく跨いで、幼い子は頭を軽く撫(な)でて通り、行者堂へと帰る。

信者一同に、村からお酒が振る舞われる。

参拝者はそれぞれ家に帰り、親戚一同を招待して御馳走を出して、お酒を呑んで貰う。

参拝者の家庭では、お土産に買って来た百草・絵図に柄杓等を添えて、「おがす」を配ることになっている。

「おがす」とは、米の粉で作った餅である。

家族が粉餅を作り、参拝者が親指で餅の真ん中を押して窪(くぼ)をつくるので、おがすと言う。

参拝者が押すのが正しいが、多くの人はその事を知らず、餅を作る人が指で押すようになった。

男の大峰山参り同様に、娘さんの御伊勢参りも行われていた。

年頃になった娘さんが、揃(そろ)って桃割髪を結(ゆ)い手甲(てっこう)はばきをつけ赤い鼻緒の草履で、花も恥じらうあでやかな姿でお伊勢参りをした。

お伊勢参りを終えた一行は、差し回しの人力車に乗って茶屋が坂から土橋を経て村里に入った。

人力車の行列は実に壮観で絵巻物を見る様だった。

娘さんたちの下向を見んと女子衆が出迎えたが、その中には我が家の嫁候補を見い出さんと必死の人もいた。

参列した多くは中流家庭以上の娘達で、娘売り込みの良い宣伝にもなったが、明治40年頃から中止になってしまった。

                      ※( )内は筆者による。

高木文雄氏は、大正3年4月5日生まれで、平成25年8月21日に他界された(享年99才)。

猪子国雄氏は、高木文雄氏より10年早く生まれていて、平成元年2月2日に他界された(享年83才)。

猪子氏の、方言からくる餅の「おがす」が、高木氏では「御数(おかず)」と呼び名が変わっていて、面白い。





トップページにもどる                                         ページトップにもどる