松嶽山月心寺



 月心寺    名東区神月町604 番地にある。     本尊は阿弥陀如来像。脇仏は文殊菩薩と普賢菩薩。
                                 

       松嶽山月心寺本堂


 月心寺の由来

月心寺の創始年月は不詳であるが、建久の頃(1191年)、猪子石村西脇(香流橋南方)にあって、天台宗に属し、延命寺と称していた。

慶安2年(1649)、知行800石の旗本で猪子石地頭・小笠原惣左エ門(法名月心宗江大居士)が開基となり、香流川辺の如来道(にょらいどう/蔵福寺があったから、この字名ができたのであるが)に延命寺を移転して、蔵福寺と改名した。

寛文2年(1662)、東春日井郡守山の大永寺の末寺となり、同寺の節桂忠(せっけいちゅう)大和尚を請して曹洞宗となり、村の中央である現在地に伽藍(がらん)を建立して、松嶽山(しょうがくざん)月心寺と三度目の改名をした。

4世陽沢和尚が諸堂を改築し、中興の祖となった。

明治24年の濃尾大地震にて本堂が全潰したが、明治26年、古材等を使用して、53坪の寄棟造り瓦葺として再建した。 

現在の本堂は、昭和45年に観音堂と共に改築されたもので、同年11月3日、落慶法要が営まれた。

                     

 月心寺山門月心寺山門の由来

定光寺の古文書に、

「明応8年(1499)、報恩禅師百年忌に山門建立を定め、永正14年(1517)9月24日、斧始(おのはじめ/はじめて材木に斧を入れる)式をして天文3年(1534)卯月14日、山門柱立を致し、同年6月11日に竣工した。
その後、徳川光義公の御奉建に依りて、慶安3年(1650)11月末に、(定光寺の)山門は新築された」とあるという。

この時に不用となった旧山門が月心寺の山門として、承応元年(1652)8月に、そのまま移築されたと伝わる。

現在の山門は、昭和41年(1966)10月16日、大本山永平寺不老閣猊下(げいか)を拝請して落慶式が営まれ、再建されたものである。











境内にある蓬莱(よもぎ)の観音堂 観音堂と十一面観音像の由来

月心寺境内の観音堂は、明治18年に、蓬莱(よもぎ/現在の蓬来小学校の位置)にあった観音寺(八剱宮が隣接して建っていた)から移設されたもの。

大正13年3月に観音堂改築工事、昭和45年に建替工事が行われて、現在に至る。      

ここに安置されている18年に1度ご開帳される秘仏の十一面観音像の由来は、月心寺22世岩田義寛和尚によって、

「弘仁9年(818)、弘法大師が熱田神宮に御社参した折り、神勅を賜り、勅封(ちょくふう)の霊木で観世音の尊像を彫刻されたものである。

文永3年(1266)8月15日、熱田神宮境内に五重塔が建立され、五重塔の本尊・五智如来と供に、観世音の尊像は安置されていた。

正応4年(1291)2月2日、熱田神宮は回禄(かいろく)にかかり(火災で焼失すること)、五重の塔もことごとく烏有(うゆう)に帰した(何も無くなること)が、幸いなことに、観世音像は信者の手に依り助け出され、熱田神宮の北方に当たる蓬来原の松林の中に移された。

その後、大永3年(1523)8月12日、猪子石村蓬来谷(よもぎだに)の鬱蒼(うつそう)たる松林の密厳院(みつごんいん)修験道場の一角に移された。

十一面観音像の両脇士(不動明王/毘沙門天)は、正徳五年(1715)4月18日、猪子石村蓬来山密厳院住職大阿闍梨(あじゃり)順海法師に寄付されたものだが、住職は寛延2年(1749)4月24日、猪子石村蓬莱で没した。

明治元年(1868)3月28日、神仏分離令太政官達(たっし)が勅令にて発布され、明治18年(1885)2月、十一面観音像及び両脇士が、観音堂と共に月心寺境内に安置された」と記録されている。 
                                
※一部省略、( )内は筆者による。


観音堂内の鐘観音堂の鐘

観音堂内にある鐘は、蓬莱の観音寺にあったものだが、現香流小学校が明治19年6月に開校されると共に、始業終業時の鐘として使用された。

大正11年に猪高第二部消防団が設立された時には、中島の行者堂の大松の上につり下げられ、火事の時に半鐘(はんしょう)の役目をした。

終戦後は、元の月心寺観音堂に返された。

よく見ると、「尾陽/蓬莱山/観音寺/密厳院/辯髢@印」の文字が読み取れる。









御留場標石


 御留場標石(おとめばひょうせき)

「従是西南御留場(これよりせいなんおとめば)」と彫られている。

香流川と矢田川の合流点の河原が、尾張藩の大砲(おおづつ)の演習場であった頃の「立ち入り禁止」の標石で、その後、石橋の材料として使われた。

区画整理の折りに、月心寺境内の鐘楼堂西に移設された。














法華塔



法華塔(ほっけとう)の由来


水汲み場隣にある法華塔の由来は、月心寺22世岩田義寛和尚の記録によると、

「江戸時代中期の明和六年(1769)、月心寺七世智観和尚は、仏教の道を広めるために、自ら筆を執(と)って多くの教本を制作して配布した。

その時の廃本・経文(きょうもん)二千部をこの地に埋め、その供養塔を建立した」 とある。












 赤坂の観音堂(取り壊し)

赤坂の観音堂 新観音像祭壇

今はなき水汲み場東隣にあった観音堂は、赤坂から移築されたもの。

西国三十三観音の参拝記念として、観音像を一体ずつ立てたと伝わる。

後方の柱に掛けてあった朽ちかけた大きな数珠は、赤坂組・前山組・福部組などの山手の人達が、「百万遍」の念仏講の時や流行病(はやりやまい)があった時に使った数珠である。

2011年末、老朽化した「赤坂の観音堂」は取り壊され、観音像は写真右のような祭壇に祀られた。


月心寺の昭和史

昭和24年       万国英霊塔建立。

昭和26年4月    香流保育園開園。

昭和32年       開山堂・位牌堂新築

昭和41年10月   山門改築、鐘楼堂新築。

昭和45年11月   本堂、位牌堂、観音堂改築。弁天堂新築。

昭和61年4月     月心寺22世岩田義寛和尚遷化。

昭和61年11月   庫裡、書院改築。大本山永平寺丹羽廉芳不老閣猊下を拝請し、落慶式と現住職・23世岩田三蔵和尚の晋山(しんざん/就任)式が同時に行われた。



トップページにもどる                                               ページトップにもどる