「千早お姉ちゃん、もう泳げる?」
  「うん。もう、大丈夫」
 この空気溜まりで休んでいたおかげで、千早の身体はだいぶ体力を回復しつつあった。
  前甲板までの道順も何とか覚えてるし、多分大丈夫だろう。潜るより、浮かび上がる方が楽なはずだし―。
  しかし、ふと額の上に手をやった千早は、大事なことを思い出した。
  「あっ、水中眼鏡―」
 思わず声に出してしまう。浸水し、役に立たなくなった水中眼鏡は、さっき食堂で脱ぎ捨てて来てしまった。しかし、あれ無しではまた迷ってしまうかも知れないし、第一海水が痛くてろくに目を開けていられない。
 綾は、千早の困惑を感じたのか、
  「あたし、取って来るよ」
と言い残すと、すう、と深く息を吸い、座っていた寝台から下の水面に飛び込んだ。
  「綾ちゃん」
 千早が声を掛けたころには、もう紺の水着姿は水中に消えている。
 後に続こうかとも思ったが、綾はこの船の中をよく知っていることだし、狭い通路の中では千早は逆に足手まといになってしまうかも知れない。
 千早は左腕の防水時計にちらりと目をやった。そしてまだ秒針が動いているのを確認すると、腕から外し、綾の潜水時間を計っていることにした。
  「あまり長いようだったら、助けに行ってあげるね」千早は、足下の暗い水面に向かって言った。でも、我ながらだらしないことに、声が少し震えている。

  (一分三十一、一分三十二、一分三十三・・・)
 目の前の水面は静かなままだ。泳ぎの速い綾のことだから、順調に行っていれば食堂からは十分往復してきているはずなのに。
  (一分五十八、一分五十九、二分)
 千早は不安になってきた。まさか、どこかで溺れているんだろうか。
 するとその時、突然舷窓を外からとんとんと叩く音がした。
   「えっ」千早がびっくりして振り向くと、舷窓の外に、上下逆さになった綾の顔があった。にこにこ笑いながら、千早の水中眼鏡を両手に持ち、自分の顔に当てがって見せている。
  「綾ちゃん・・・」両腕で膝を抱え、水中でくるりと回転すると、今度は水中眼鏡を外して見せる。まったく、この子は海の中でも目が痛くないんだろうか。
 でも、溺れたんじゃなくて良かった。
  「綾ちゃん、驚かせないで・・・」
 笑い返そうとした千早は、しかし次の瞬間自分の口元がこわばるのを感じた。
 窓の外の綾が、両手で喉元を押さえている。
 顔からもさっきまでの笑みは消え、きれいな両眉を苦しげにひそめている。暫くすると、綾は両頬を大きく膨らまし、口からぽこぽこと気泡を吐き始めた。
  「綾ちゃんっ」千早は両手で窓枠に取り付いた。「苦しいの。無理しないで」手で、ガラスの表面をぺたぺたと叩く。「あたしのことはいいから、早く海の上に出て」
  すると、綾は今度は鼻をつまむとのけぞるように後ろに回転し、また上下逆さまになった。顔にはまた笑みが戻り、何だか悪戯が成功した時のような、得意げな表情をしている。どうやら、さっきの苦悶は演技だったらしい。
  「綾ちゃん」声を掛ける千早に向かって綾は指を丸めてOKサインをすると、両脚をゆっくりと打ち、また滑るように海底へと潜っていった。
  「もう、知らない」千早は少し怒っていた。あの人魚姫は、もしかすると心配する必要なんか全然ないのかも知れない。
 
 綾の右手が、水深20メートルの海底の白い砂地に触れた。ふわっ、とかすかな砂塵が舞い上がり、砂の中に隠れていたハゼがあわてて逃げていく。
 目の前には、やや斜めに着底した八重山丸の赤黒い船腹がある。綾はきょろきょろと辺りを見回し、前方の船腹に開いた孔の位置を確認すると、そこを目指し底を這うようにして泳いでいった。
 孔は、1メートル四方くらいの大きなもので、八重山丸がこの春の大時化に、僚船と衝突して出来たものだった。ぶつかってきた僚船の方は、浸水しながらも何とか北浜まで帰り着くことができたが、八重山丸の方はそのまま沈んでしまったのである。
 綾は、ためらうことなく孔を泳いで通り、ふたたび船内に入った。そこは広い船倉になっており、積荷もなくがらんとしていた。舷窓はなく、ほとんど真っ暗だ。
 綾は、身体の浮力を打ち消すために両腕をふわふわと上に掻きながら、しばらく立ち泳ぎのようにして水中に浮かんでいた。そして、後ろを振り返って入り口の孔の位置を確かめると、ちょうど対角線上の、船倉の一番奥に向かって泳ぎ始めた。そこに、千早がいる第二甲板に抜けられるハッチがある。
 奥まで辿り着いた綾は、ハッチの下のラッタルの位置を手で探りあてると、両腕で這うようにしてラッタルに沿って浮かび上がった。本当なら、そのまますんなりと上の甲板へと抜けられる筈だった。
 ごつん。
 だが綾は、開放されているはずのハッチの下蓋に、頭をぶつけてしまった。
 (えっ)
 両手で、あわてて下蓋の表面を探る。冷たい、金属の感触。どうやら、この間来た後に、上に向かって開いていたハッチの蓋が自重で閉じてしまったらしい。蝶番は錆びていると思っていたのに、うかつだった。
 (仕方ないな)
 綾は、頭と両の手のひらを下蓋に押し当てると、両足をラッタルの二段目にかけ、力をこめて下蓋を頭上に押し上げた。
  「ん・・・・・・!!」
 びくともしない。
 脚の筋肉が緊縮する。力んだために、水中で頬が赤く鬱血した。
 ごぽっ。ごぽぽっ。
 突然、そのつもりはないのに気泡が綾の唇から漏れた。
 (やばっ)
 綾は、思わず片手で口を塞いだ。そういえば、もうずいぶん長いこと息をしていない。
 (ちょっと、頑張りすぎちゃったかな)

               
 
 (三分七、三分八、三分九・・・)
 千早は、また文字盤に目を落としている。綾は真下へと潜っていった後、また姿が見えなくなってしまった。船体そのものが傾いていて、舷窓がやや上を向いているせいで、真下の様子はよく分からない。どうしたのだろうか。いくらあの無呼吸素潜り少女でも、こう潜水時間が長いと不安になってくる。
 (やっぱり溺れてる・・・なんてことはないよね)
 千早は思った。そしてその間にも、腕時計の針は無情にどんどん進んでいく。三分二十一。三分二十二。三分二十三。
 自分が気付かない間に、綾は海面に浮かんでいったのかも知れない、と千早は思った。でも、もし違ったら。さっきの綾の様子では、水中眼鏡を持ってまたこの船室に戻ってくるつもりみたいだった。
 (助けを呼ぼうか)
 独りでなんとか海の上に戻り、あのゴムボートで入り江の救護所まで行く。しかし、もし綾に本当に何かあったのだとしたら、そんなことをしていては絶対間に合わないだろう。
 助けられるのは、ここにいる自分しかいないのだ。
 (・・・よ、よおし)胸を大きく上下させる。
 次の瞬間、千早の飛び込む水音が船室内にくぐもって響いた。

 千早は、船室の扉から顔を通路側に出すと、両目をしばしばと瞬いた。
 (綾ちゃん) 
 相変わらず塩水がしみて痛いが、少し慣れて来たのだろうか、今回は辺りを見回す余裕くらいはあった。通路が前に伸びていて、少し先で鍵の手に折れている。来るとき通って来たところだ。千早は鍵の手の所まで泳ぐと、通路の角に手をかけて身体の向きを変え、その向こうの食堂に向かって泳いでいこうとした。
 すると突然、何か速くて硬いものが、千早の身体にぶつかってきた。
 食堂から泳いできたそれは、一瞬たじろいだ様子を見せたが、身を翻すとすぐまた矢のような速さで通路を泳ぎ去っていく。例の船室の方だ。
 (うっ)
 痛みに驚いた千早は、またごぽごぽっと盛大に泡を吐いてしまった。
 ぼやけた視界の中ではあったけれど、それは確かに、口元を手で押さえながら泳ぐ華奢なショートカットの少女だった。

 「はあっ、はあっ、はあっ」
 「はあっ、はあっ、はあああっ」
 船室に辿り着いた二人は、水面上に頭を並べて荒く息をした。
 「く、くるし。やっぱり、人間は、くうきが、必要、だよね」
 綾が喘ぎながら言う。顔を真っ赤にして、さすがの素潜り少女も苦しそうだ。
 「あ、当たり前、でしょう、綾ちゃん、何、やって、たの」
 千早の方も、あまり大丈夫ではない。お昼前までに二度も溺れかけるなんて初めてだ。
 ふと防水時計に目をやると、ストップウォッチは四分七秒を指して止まっている。さっきの衝撃で止まったのだとしたら、ものすごい閉息潜水時間だ。
 「ハッチ通って、船底から戻ろうと思ったら、ハッチ閉まってて。だから、船底から、もう一度外を、ごほっ、回って、きたの」
 「え? よく、分かんない」
 「でも、眼鏡、ちゃんと、取ってきたよ。それに、おみやげつき」
 「おみやげ?」
 綾は、答える代わりに千早の水中眼鏡を握った右手をぱっと開いて見せた。手のひらには、つやつやとした光沢の、みごとなホタル貝がある。海底の砂地の中にあったのだろう。
 「・・・すごい」
 千早は、息を切らしていたのも忘れて、しばし綾に渡された貝に見入っていた。この海中の青白い光の中では、貝は特別美しく見えるみたいだ。
 「綾ちゃん、私も海の底まで行ってみる」
 「ええっ」綾は、なぜか意外そうな顔をする。「無理だよ」
 「どうして?」
 「だってお姉ちゃん、潜るの下手だし。よく泡吐いてるじゃない。ごぽごぽって」
 「言ったな」千早は、笑いながら怒ってみせる。さっきあれほど心配していたせいで、逆に心のタガが緩んでしまったみたいだ。「これでもね、私はスクールでは選手だったんだからね。学年でも一番速かったんだから」
 「ふーん」綾は、説明がよく分かっていないような返事をする。
 「じゃあ、とにかく特訓あるのみだね」
 「特訓?」
 「うん。お姉ちゃん、ついてきて」そう言うが早いか、綾の顔は暗い水面に没してしまう。
 「ええっ、今から?」水中の綾の姿をあわてて目で追いながら、千早は、「私、本当にちゃんと海の上に帰れるのかな」とちらりと思った。

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