翌朝は快晴になった。
まだ9時前だというのに、日差しは地面を焦がすようにじりじりと暑い。林が近いせいで、海辺だというのに蝉の声がまるで降るように聞こえていた。
「お姉ちゃん、早くー」
綾が二階の千早の部屋の窓に向かって手を振っている。昨日の照れ屋ぶりが嘘のようだ。
服装は、相変わらず紺の競泳水着の上に白いTシャツを羽織っている。Tシャツは昨日塩水に濡れたそのままで乾かしたのだろう、布地がごわごわしていた。
「ちょっと待ってて」
千早はあわてて着替えを終えた。淡いオレンジのツーピース水着のパレオを腰で結び、薄手のパーカーに袖を通す。それから傍らの浮き輪とデイバッグをつかむと、階段を下りていった。勝手口で、貸してもらったサンダルをつっかける。
「お待たせ」
庭で待っていた綾は、微笑みながら手を振ったが、そのあと少しびっくりしたようにして千早の水着姿をしげしげと見つめた。脚が長く、均整の取れた肢体は陽光のせいもあって透き通るように白い。
「千早お姉ちゃん、きれい」
「え?」急にほめられたので、千早はどぎまぎしてしまった。
実は、千早はきれいだと言われることはよくある。
高校に入って何ヶ月目だろうか。「あなた、クラスの男子の美人投票で1位になったらしいよ」とクラスメートにからかい半分で言われたことがあった。それから、しばしば下駄箱に入っているようになったラブレターにも、同じような文句が書いてあった。遠くから憧れていました、つきあって下さい云々―。
だが、千早としては他人が自分を容姿で評価していることに何だか一種の違和感があり、今のところ、そういったお誘いはすべて丁重に断っている。―その一方で、そんな自分は子供なだけなのかも知れないな、と自己批判しないでもなかったが。
「そ、そんなことないよ」千早は答えた。「それに、綾ちゃんも格好いいじゃない。すらっとしてるし、目鼻立ちもきれいだし」
「そうかなあ」
率直な感想を言ったつもりだが、綾はあまり納得していないようだ。だが、もともとあまり関心はないらしく、すぐ「行こう」と千早の前に立って岩場の海へと下る道を歩き始めた。
「ねえ、どこまで行くの?」
千早は訊いた。二人を乗せたゴムボートはだいぶ沖合まで出て来ていて、ボートをゆらゆらと揺らす波も、入り江の中とは違うだいぶ大振りなものになってきている。民宿「五十鈴」も、もう豆粒のように小さくなってしまって、その手前に岬の灯台が小さく見えている。
砂浜で遊ぶものとばかり思っていたのに、浜辺に着いた綾は慣れた手つきでゴムボートを砂浜から海にすべり落とすと、千早を中に招き入れた。民宿「五十鈴」のロゴ入りの、5人くらい乗れる大きなやつだ。綾は、千早を艫の方に乗せると向かい合ってオールを握り、すいすいと沖へ漕ぎ出していった。
「もうじきだよ」
「でも」綾の背後の、ボートの進行方向には平らな大海原しか見えない。一体、秘密基地とはどこにあるのだろう。
「あそこ。あのブイ」
よく見ると、前方に漁船が使うような赤白のブイが、波間に見え隠れしていた。綾は、ボートをブイに横付けすると、てきぱきと舫で固定する。
なぜ、このブイが秘密基地なのだろう?
ますます分からない。千早は考え込んだが、しばらくするとあることに思い当たった。でもまさか。
「綾ちゃん」Tシャツを脱ぎ始めた綾に、千早はおそるおそる訊いた。「基地って、もしかして海の中なの?」
「そうだよ」綾はあっさり答えると、ボートの舳先の方に立ち上った。「さあ、お姉ちゃんも準備準備」
そして、目を閉じて両手を広げると、すうーっと音を立てて息を吸い込み始めた。水着の胸が膨らみ、みぞおちの形が露わになってお腹が引っ込んでいく。
とりあえず、浮き輪の出番はなさそうだ。
「準備って、深呼吸のこと?」
「うん」はあーっと息を吐き出すと、綾は答えた。
「でも、素潜りじゃ・・・エアタンクとか要るんじゃない?」
「要らないよ」綾はにべもない。「使ったことないけど。あたしのエアタンクはこれで十分」
綾はそう言って、自分の胸の蕾のような2つの膨らみに片手を置いた。そして、もう一度思い切り息を吸い込むと、ぎゅっと唇を結び、ボートの縁を蹴って頭からきれいに海に飛び込んだ。
千早は、慌てて身を乗り出し、水中の千早の姿を目で追った。海はきれいな青緑色に澄んでいて、かなり深くまでよく見える。綾は頭を下にして、両手を脇につけたまま、脚を交互にゆらゆらと上下に動かしていた。
(気持ち良さそう)
千早は、胸がどきどきしていた。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。
(私も、負けないんだから)
千早は、バランスを取りながらボートの上に立つと、さっきの綾の真似をして目を閉じ、何度か深呼吸を繰り返した。
「すうーっ」
「はああーっ」
水中眼鏡を着けて、両手でずれないのを確認する。
「すうううーっ」
ぐっと唇を閉じる。空気満タン。準備完了。
千早は頭上に伸ばした両手を合わせると、思い切って脚を伸縮させ、一気に眼下の揺れる海面へと飛び込んだ。
深く、深く。
千早は、きれいな平泳ぎのフォームで潜り続ける。中学までスイミングスクールに通い、選手コースまで行った千早は、泳力にはある程度自信があった。だが、前の綾は足しか使っていないのにまるで魚のように速く、ちっとも追いつけない。
2回耳抜きをし、水温がだんだん冷たくなってきたのを感じた頃、下に白い船体がぼんやりと見えてきた。
艫の方が大きく窪んで、作業が出来るようになっている。けっこう大きいけど、漁船だ。沈んでからあまり経っていないらしく、船体に牡蠣も付いていないし、マストもちゃんと立っている。
綾は、マストを通り過ぎ、後からついてくる千早をちらりと振り返ると、前甲板に開いた四角いハッチから中に身体を滑り込ませ、見えなくなってしまった。
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千早は、甲板までの最後の数メートルを泳ぎ切ると、綾が消えていったハッチに両手をかけて中を覗き込んだ。薄暗くて、よく見えない。
(どこに行ったんだろう)
千早は、自分の胸に右手を当てた。潜り始めて、1分半くらいだろうか。そろそろ両肺が痛くなってきているが、もうしばらくは大丈夫だ。少し中を捜して、その後急いで浮上するだけの空気はある。千早はこぽこぽっと空気を少し吐き、胸の痛みを和らげるようにすると、身体をこすらないように注意しながら、ハッチの小さな入り口から船の中へと進入した。
入った先には大きなテーブルの周りに簡素なパイプ椅子が散乱していて、どうやら食堂か休憩室として使われていたらしい。暗く、うっかりしているとどちらが上か分からなくなってしまいそうだ。千早は、入ってきたハッチの位置を見失わないようにしながら、周りをきょろきょろと見回した。
すると、突然何か、黒い大きな影が視界を横切った。
千早はびっくりして、思わずがぽがぽとたくさんの気泡を吐き出してしまった。影が身をひねり、入り口からの光できらきらと銀色に光る。魚だ。
(いけないっ)(はやく戻らなくっちゃ)
慌てて上に向かって水を掻いたが、身体の位置がさっきとずれていたらしく天井に頭をぶつけてしまった。衝撃で、水中眼鏡のゴムバンドがねじれて水が入り込んできたので、視界がぼやけ何も見えない。
(息が)(息が)
千早は、両手を頭上に滑らせ、手探りで入り口を探した。だが手のひらに当たるのは硬い天井板だけで、もう千早は完全に迷子になってしまっていた。こぽっ。こぽこぽっ。懸命に我慢していても、口の端からは意志とは関係なしに気泡が漏れていく。
(溺れる)(私、溺れてる)
その時、何かが千早の肩を掴んだ。
(お姉ちゃん)
綾だった。ショートの髪を水中でゆらゆらさせながら、心配そうに千早の顔を覗き込んでいる。
(上まで、泳げる?)
綾が口を動かし、人差し指を上にして尋ねてくる。千早は手のひらで口を押さえながら、横にかぶりを振った。ここの水深は15メートルくらいだろうか。深いので水圧で身体の浮力が減っていて、かなり頑張って水を掻かなければ水面までは戻れそうにない。その距離を泳ぎ切るまで、今や千早はとても息が保ちそうになかった。
すると綾は食堂から奥へと続く廊下を指差し、指先で「3」「0」という文字を書いて見せた。着くまで30秒、ということだろう。30秒泳いだ先に何があるのか。そして、綾はこぽっと息を少し吐くと、上昇していく自分が作った気泡の列を指差した。
(空気)(空気があるの)
千早が目で訊くと、綾は頷いた。
今までこんなに長く潜っていたことはなかった。あともう30秒、息が続くかどうか分からないが、でもそれはここにいても同じことだ。千早はうん、と頷くと、水が入って用をなさなくなった水中眼鏡を頭から外して捨てた。焦ったので、髪の毛が絡まって痛いが、気にしている余裕はない。
綾は、魚のようにひらりと身体を翻すと、食堂の奥の廊下へと泳いでいく。千早は、食堂の壁を競泳のスタートの時のように思いっきり蹴ると、頭の中で秒数を数えながら、綾の後を追っていった。
(十三、十四)
烹水所や医務室らしいところを過ぎて廊下を鍵の手に折れると、船員の居住区らしく同じようなドアがいくつか並んでいる。
(二十一、二十二)
綾は、その突き当たりの、半開きになった扉の間をするりと通り抜ける。千早も、出来るだけ身体を横に倒すようにして、その狭い隙間に身を通した。
(三十三、三十四)
「ううっ」
千早は水の中で声を上げた。限界だった。ごぽごぽっと残りの空気を全部吐いてしまったが、それでも、半ば失神しながらじたばたと水を掻く。(もう、だめ)
そして、千早の頭は、部屋の奥の空気溜まりにぽっかりと浮かび上がった。
「がぼっ、ごほっ!げほっ、がはごほっ。はあっ、はあっ、はあっ」
千早は激しく咳き込み、呑んでしまった水を吐き出した。助かった。空気がこんなに美味しいものだなんて、思わなかった。先に浮上していた綾は、立ち泳ぎをしながら心配そうに千早の方を見ている。驚いたことに、あれほど長く潜っていたのに息は全然乱れていない。
「私には、はあっ、ちょっと、無茶、だった、かな、ごほごほっ」目が痛く、海水を飲み込んでしまった喉がひりひりする。
「ううん、そんなことないよ」綾は、まだ水の中で荒く呼吸している千早を尻目に、軽い身のこなしで壁際の二段ベッドの上によじ上った。部屋の調度品の中で水に浸かっていないのは、このベッドの上段とその横の丸い舷窓だけのようだった。窓からは、20メートルの深みを隔てて、日光が青くゆらゆらと差し込んできている。
「だって、今まででお姉ちゃんだけだもん。私の部屋まで来れたのは」
「綾ちゃんの、部屋?」縁に両腕でつかまり、高い鉄棒に上がるときにようにして、千早もやっとベッドの上にはい上がることが出来た。
「そう。綾丸の船長室」いたずらっぽく笑う。「ふふふ。本当は、この船第五八重山丸っていうんだけどね。北浜の間宮のおじさんのなんだけど、夏のはじめ、漁に出る途中で大時化に遭って沈んだの。ブイを上に浮かべているのは、そのうち引き揚げるつもりだからみたい」
「船を見つけたのは、綾ちゃん?」
「そうだよ」綾はさらりと言う。「手間が省けたって、間宮のおじさんにも誉められちゃった。その後、中をあちこち探検してたら、この部屋を見つけたの」
舷窓からの光のせいで、綾の横顔と上半身にはゆらゆら動く青白い縞が出来ている。それは、多分その隣に座っている自分も同じことだろう。
千早は、舷窓から外の海中を覗いてみた。
眼下の海底は白い砂地になっていて、船体が半ばのめりこむような形でその上に鎮座しているのが分かった。目を転じると、はるか上、とても辿り着けないほど遠くに水面があり、日光がいくつもの光の束になって海の中へ差し込んできている。その手前を、小さな銀の魚群がさっと横切るのも見えた。
「すごい」千早は息を呑んだ。「まるで、水族館にいるみたい」
「違うよ。水族館じゃなくて、陸族館」綾が笑った。
「陸族館?」
「この海の中で、空気のあるのはここだけだもん。あたしたちがお魚を見ているんじゃなくて、あたしたちが見られてるの」
「本当に」千早もつられて笑った。「私たちは、ここじゃ『陸族』っていう訳だね」
ふと千早は、海の底にいる自分たちの身体が、何だかとても小さく、いとおしいものに感じられた。