千早は、何度目かに頭上のゆらゆら揺れる日の光に目をやると、横桁を握り締める両手に力を込めた。
 「う・・・うぐ」
 横隔膜が自然と上下し、力んだはずみでこぽこぽと気泡が口から漏れてしまう。千早は唇をぎゅっと閉じ直すと、気をそらすために手首の小父さんの潜水時計を覗き込んだ。
 二分五十八。二分五十九。三分。三分〇一。
 (3分、突破)
 ささやかな達成感が千早の身体を包んだ。この前も3分は越えられたけど、今はあのときほど苦しくない。
 (まだまだ)
 横では、綾が同じように八重山丸のマストの横桁に腰掛け、両手と両腿で身体を浮かないように固定しながら息をこらえている。ここだと、水深は12メートルくらいだろうか。海水に温度の断層でもあるのか、ときどきひんやりした水流が微風のように頬に当たった。
 「ぐっ」
 今度は綾がくぐもった声を出し、ごぽぽっと気泡の列を吐いた。まだ綾には余裕のはずなのに。それとも、いつも自ら競争直前に「お姉ちゃんへのハンデ」と言いながらやっている屈伸運動が効いてきたのだろうか。
 千早は、水中で綾に笑いかけながら、顎で何回か上の海面を示して見せた。
 (ギブなら、もう上がっていってもいいよ)
 しかし綾は何度もかぶりを振ると、少しむきになったような顔で正面を見据える。千早の方も両目を閉じ、なるべく力を抜いて眠るようなつもりでいることにした。
二人とも、しばらくは彫像のように動かないまま、静かな勝負は続いていった。

 どれだけの時間が経っただろうか。
 千早がぱっと瞳を開く。両肺の痛みは、そろそろ眠ったふりでは抑えられない程に大きくなっていた。口はしっかり閉じていても、喉元はまるで呼吸をしているみたいにびくびくと動く。再び時計を見ると、デジタル表示は322秒を指していた。
 (もう・・・さすがに)
 横の綾の様子を見る。綾は、相変わらず背筋を伸ばしたまま横桁にしがみついているが、苦しさをこらえるためか、頬をぷくっと膨らませていた。
 (限界・・・かなっ)
 千早はまたごぽぽっと息を吐く。大小いくつもの気泡は、真珠のように光りながら、長い時間をかけて海面へと上昇していった。
 綾はまだじっとしている。しかし、見ているうちに両手は横桁をつかんだまま、綾はゆっくりと腰を浮かせ、頭を下にする形で徐々に身体を半回転させた。
 (えっ?)
 そしてそのまま、体操の選手のようにきれいに足先までぴんと伸ばすと、横桁の上に倒立して止まる。目は閉じられていたが、時たま頬が膨らんだり引っ込んだりしているので、意識はあるのが分かった。
 (綾・・・ちゃん?)
 ごぽごぽごぽっ。
 綾に見惚れている間に、千早は残っていた肺の空気をほとんど吐いてしまった。喉元を手で押さえ、海水を肺に吸い込んでしまいそうになるのを懸命にこらえる。(あと十秒、あと十秒だけ)
 綾はまだ、微動もしていない。六、七、八、九・・・。
(十)千早は脚を横桁から外すと、倒立を続ける綾を残したまま、渾身の力をこめて水を掻いて上昇していった。視界がどんどん明るくなっていく。紺。青。エメラルドブルー。
 そして潜水開始から42秒後、大きな水しぶきをあげて、千早はほとんど忘れかけていた空気と陽光の世界の中に踊り出た。
 「ぷはっ。はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」

 勝負の後、千早と綾はゴムボートの縁につかまりながら、しばらく身体を休めていた。水から出ている両肩はすぐ乾いてしまって、夏の日差しがちりちりと熱い。
 「いい勝負、だったよね」
 綾が、まだ少し息を切らしながら言う。「あたし、途中本当にやばかったよ」
 「でも、やっぱりまだ敵わないな、綾ちゃんには」千早が答える。
 千早が島に来て、3週間になろうとしていた。
 白かった肢体はすっかり日に灼け、今では綾と同じくらい黒くなっている。泳ぎも上達して、もう海底の砂地まで素潜りで行けるし、水中眼鏡なしでも目が沁みて痛むことはなくなった。
 「ところで、さっきなんで海の中で逆立ちしてたの?」
 「ああ、あれね」綾が笑う。「別に。逆さまの方が、息が漏れにくいかなと思って」
 「ええっ」千早はあきれた。「じゃあ、頬っぺを膨らませてたのは?」
 「水中呼吸」
 「水中・・・呼吸?」
 「そう。苦しくなってきたとき、お口と胸に空気を出し入れして、呼吸してるつもりになるの。結構効くよ」
 「・・・・・・」 千早は黙ってしまった。一体、この子はどこまでの可能性を秘めているのだろう。

 「そろそろ戻ろうか」
 ボートの中に身を滑り込ませながら綾が言った。沖風が出てきたのか、波がすこし高くなっている。ちらほらと、白い波頭も見えてきていた。
 「うん」千早が応じる。「帰ったら、遅れてる数学の宿題、見てあげなきゃね」
 「ええっ、やっぱりやるの。いいよ、後でまとめてやるから」
 「駄目だよ。前に言ったでしょう。理数系の教科は、復習しながら、積み重ねるようにして勉強するのが大切なの。仮に後でまとめてできたとしても、自分の力には、ならないよ」
 千早が、ボートの舫をブイから外す作業をしながら続ける説明を、綾は体育座りのような姿勢で聞いている。
 「いいな、千早お姉ちゃんは。頭が良くて」
 「ええっ」千早は、舫を手にしたまま綾の方に向き直った。「別に、私なんて。父さんや母さんだって、そんなこと・・・」
 島に着いてから、まだ両親からは一度も連絡はない。離婚は、もう成立してしまったのだろうか。そして、夏休みが終わったら、自分の帰るべき家はあるのだろうか。
 「千早お姉ちゃん」綾は、続けようとする千早を遮って言った。いつの間にか、両膝を床に付け、乗り出すような姿勢になっている。
 「お願い。綾の、本当のお姉ちゃんになってよ」
 「綾ちゃん・・・」少しの沈黙の後、千早は言った。「いいよ。私でよければ」
 「本当。絶対だよ」
 綾は、出会った時のはにかみを少し残しながら、それでも嬉しそうににっこりと笑う。
 (このまま、夏が終わらなければいいのに)
 千早は思った。
 もうお昼近い。頭上には相変わらずみごとな入道雲があったが、しかし背景の青空には、微かながらも秋の気配が漂い始めていた。

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